第25話 夏 天空都市Ⅻ


 一頭の巨大な赤蛇は、頭部を軽快に揺らした。その首元が、飲み干したもので大きく膨れ上がり、揺らす度に長い胴体へと移動していく。その膨らみの大きさは成人男子程度のもので、丁度姿を消してしまった青年と同じ――そう悟った瞬間、リーンの顔が蒼白になった。

「ヨッカ……! ヨッカ! ヨッカ……ッ!」 

 胴体部分に駆け寄り、幼子が泣き叫ぶように青年を呼ぶ。


「いや! 出して! ヨッカを出して……!!」

 毒々しい赤鱗の硬い胴体を、拳でどんどんとひっきりなしに打つ。少女のいたぶりなど気にもならないのか、大蛇はゆるりと蠢くだけだった。煩わしそうにするりと逃れていくが、リーンは負けじと追いかけて拳をふるう。

「ヨッカ……ヨッカ……! あっ……」

 ひとつ大きくうねった胴体にはね返され、その場で力なく崩れ落ちた。めげずに尾を掴もうとしても、流れるように手から滑り落ちていく。

「ヨッカ……死んじゃいや……ヨッカ……」

 頬を伝う涙が、石床を濡らす。激しい嗚咽が、弱々しい嘆きへと移り変わる。けれど、打ちのめされた心が激しい渦に呑み込まれていく。嵐となって、何もかもをばらばらに壊し、侵していく。

「……解せぬ」

 呑気とも取れる声色を耳にし、リーンのしおれた肩が途端に揺れた。

 
大蛇を傍らに呼び寄せたアークォンが、悠然と首を傾げている。束縛された胴回りを、蛇の牙で切り取りながらぼやく。

「これが誠に、神の御業みわざか? 飲めども何も感じぬ、感じられぬ」


 俯いていた少女は、ふらりと立ち上がった。訝しげに呟き続けるアークォンの元へ、ゆっくり歩み進んでいく。


「よもや見当違いだとでも言うのか……? しかしあれは確かに、」
 

 疑問の独り言が人の気配で止む。大粒の涙を零す少女が、アークォンを真っ直ぐにねめつけていた。凶器を振りかざすかのように、その青白い人差し指を、男の額めがけて突き付けた。

「ヨッカを返して……返して……ッ!」

 しゃくり上げながら言い渡され、アークォンは、駄々をこねる子供をなだめすかす口ぶりで応じる。

「キャンベルの娘よ、さして悲しむことではない。我が身と一つになることは、栄光たることぞ。この若き俊才は、アークォンより誉れを賜ったのだ」

「訳の分からないことばっか言わないで! お願いだから、ヨッカを返して……!」

 リーンはわめきながら言葉を繰り返した。昂った感情が、目元と頬骨を熱く満たしている。涙は留めどなく、滴り落ちて止まらない。男の額を示す指は、僅かに震えている。それは怯えからではなく、引き裂かれるような痛みに塗れた、激しい憤りのためだった。

「返して……お願いだから……! じゃないと、あなた、きっと後悔する……!」

「痴れ事を。このアークォンを何で脅そうと言うのか? 笑わせてくれる……」

 アークォンが鼻白むように言い返したところで――異変は起きた。

 硝子細工の砕け散るような、大きな衝撃音だった。アークォンの耳元で鳴り渡ったのだが、辺りに一切の変化はなかった。男の内側で、それは生じた。

 少女によって指し示されている顔上部の中心、額に当たる部分からだった。

 内部に緻密なひびが入り、割れるようだと思った。実際には得物で刺し貫かれた訳ではなく、痛みも全く感じない筈だった。

 けれど、破損して出来たらしい風穴に、何かが突き抜けて通る。大きなうねりとなって有象無象に入ってくる。急激に不安な心地を覚える。心奥の底辺まで見渡され、何もかも無慈悲に暴かれているような、ひた隠しにしていた卑しい羞恥を面前に突き付けられたような――それは男にとっての、かつてない脅かしだった。

「お主……このアークォンに何をした……?」

 老いた男の少し途方に暮れた問いかけに、少女は淡々と返した。

「……分からない」


「分からぬ?」

 男は当然、戸惑いの声を上げた。何を馬鹿なことを。自分の手で下したことなのに、手酷い仕打ちと自覚のあるようなのに。だからこそ、『分からない』訳がないだろうに。

 少女は、仄暗き蒼の眼差しから、滴をまた一粒生んだ。静かな絶望の声音と共に、零れ落ちていく。

「分からないわ。……けど、私がこうすると、皆、全員――死んでしまうの」




  

 プリムローズは、何かを察知したようにぴんと背筋を張った。

 険しい表情で、黄昏色に染まった遠くのそびえる塔を見やる。

 観光区へと繋がる石階段の道を下っていたマーガレットが、途端に立ち止まった妹に気付いて振り返った。

「どうしたの、プリム。何かあったの?」

 プリムローズの幼くも怜悧な視線と同じ方向を見やり、心配そうに問いかけてくる。

「枢機部に行った兄さんに、何かあった?」

「……にいちゃまは多分大丈夫。それより、嬢ちゃまの方が心配かも。おまじないしたから、きっと問題なしなしだけど」

「そうよねー。沢山保護術かけたから、そこらの悪い毒ヘビは余裕でハネのけるでしょうね」

「……そういうこっちゃないのよ」


 プリムローズが眉をしかめて、ため息をついた。後ろ髪引かれながらも視線を戻し、再び足を前へ動かす。

「……嬢ちゃまのことで、にいちゃまに黙ってたこと、ちょびっとだけ後悔してるの」

「何でまた? 本人の希望でしょう?」

「嬢ちゃまが本当の望みは、にいちゃまに内緒にすることじゃなかったからなのよ。……色んなことを内緒にされていじけてるってことは、つまりは正反対の本音があるってこと。だからね、にいちゃまと、もっとお話出来るようにしてあげれば良かったのかもって」


「何だかあんたも、ヨーク兄さん並みにえらく世話焼きねえ……」

 妹の気遣う口ぶりが珍しくて、マーガレットはしみじみと呟く。リーンはプリムローズよりいささか年上ではあるが、その覚束ない風情は自然と庇護欲を掻き立てるのだろう。とうとう姉根性が芽生えてきたのかしらと内心思っていれば、当のプリムローズは、難しそうに眉根を寄せて受け答えた。

「にいちゃまがそれだけ気にかけてるってことは、にいちゃまにとって、とってもとってもだいじなレディなのよ。そんでもって、あたしたちキャンベル家より、もっとずっと厄介なのかも……」


「厄介? あの、リーンが?」

 マーガレットが意表を衝かれて、つい妹を見返す。

「レディたち、おしゃべりばかりは危険だよ」


 解呪符ソーサラーコードを手に持ったジョシュアが、風に乗せてマーガレットの背後へ送る。すぐ傍まで近寄っていた赤蛇を灰へと変えた。


 マーガレットは急かすようにプリムローズを手招きながら、慌てて階段を降り切った。

 ジョシュアは微笑んで、前方へ視線を戻した。

「もうひと踏ん張りをしなくてはいけないのだろう?」

「ええ、ごめんなさい、ジョシュ」

 苦笑するマーガレットは頭を数回振り、一度目を閉じた。瞼がゆっくりと持ち上がると、思考のチャンネルが切り替わり、瞳の色が艶やかに閃く。その強き眼差しで、正面にそびえる巨大な隔たりを仰ぎ見た。

 街の北側に位置する枢機部と学徒区、南側に位置する観光区を分かつ、城壁さながらの石塀だった。

 幾千の大理石を積んで築き上げられ、白亜色の表面はいつになく磨かれた冷たい滑らかさ。故に、引っ掛けるような足場はなく、人はおろか、爪を立てた獣さえ登って越えられない。唯一横断出来るのは、空へと羽ばたける鳥か、兵鳥バードくらいのものだろう。 

「侵入を拒んでいるのか、よっぽど何かを逃したくないのか、どちらなのかしらね」

 マーガレットが知れずひとりごちれば、街中を巡回してきた兵鳥バードが壁の向こう側から戻ってきた。マーガレットの傍まで降り立ったところですかさず訊ねる。

「状況はいかがかしら?」

「まだ観光区の侵入には至っておりません。我々の枢機部と学徒区には、この高い塀がありますので……」

「そう。でも抜けられるとするならば、唯一ここだけなのよね」

 少女が横に目配せして示すのは、枢機部と観光区を繋ぐたった一つ出入口。街の奥中心に位置する鉄柵の門。閉じられれば人の身ではすり抜けられないが、蛇と形作られたものならば、話は別だ。

「……あんなモノが観光区まで押し入ったら、街全体がパニックになるわ」

 マーガレットは歯噛みしつつ、ポシェットに押し込められた大量の紙札を、一枚ずつ指で弾いて勘定していく。

「どうかしら、コレ、効いてそう?」

「はい、ミス・キャンベルがお与えくださったもののおかげで、内部に蛇の動きに動揺が見られます」

 兵鳥バードは喜色めいて頷いた。これを身に着けてさえいれば、蛇はたじろいで逃げ出していく。たまに突撃されるが、噛まれる前に消滅するので問題はない。下手な得物より効果のある薄い紙札を、しっかと手の内に握り締め、報告を続ける。

「枢機部に取り残されていた者たちは、全員救出完了。学徒区の解呪師局を中心とした避難場所を作り、蛇の呪いに見舞われた者はそこで解呪を行っております。札の貼り付け場所は増えておりますし、学徒区の守り固めも間もなく完了かと」

 弾き終えたマーガレットは、その札束を兵鳥バードに与えた。

「追加分よ。他の‪兵鳥バードたちにも配って、枢機部と学徒区のありとあらゆるところに貼って頂戴。呪いの蛇を一匹余すところなく、この場へ誘導するよう仕向けるのよ」

 兵鳥バードがぎょっとした顔を向けた。

「しかし、それでは……」

「心配いらないわ。その大群は、あたしたちキャンベル家が迎え撃つ」

 麗しくも不敵な笑みを形作る少女は、凛と言い切ってみせる。

「ここが一掃地点にして、最終防衛ラインよ」

 兵鳥バードは表情を引き締め、静かな敬礼で応えた。

「……ご武運を」

 新たな役目を果たすため、黄昏の目映い光を浴びた大きな翼が空高く羽ばたいていく。

 その後ろ姿を見つめながら、プリムローズがぼやくようにため息をついた。

「背水の陣で臨むなんて、ある意味メグねえちゃまらしいのよ」

 皮肉に片眉を上げつつも、姉は腕を組んで冷静に返す。

「何せ人手が足りないの。コスト少なく一挙両得するには、これが最良と判断したわ」

「守りと攻めを同時にか。骨の折れる役目だね」

 のんびりとした抑揚で呟くジョシュアも、さすがに僅かな困り顔を見せている。

 だがマーガレットは構わなかった。背筋を伸ばして空を真っ直ぐ仰ぐ。

「それでもやらなきゃいけないのよ。為せば成る、無理も通せば道理へと貫けるわ。ジョシュ、プリム、頼んだわよ」

「任せておくれ、レディ」

「――来た!」

 プリムローズの見上げた先――門前から枢機部へ続く、真っ直ぐの長い階段。その頂きから、赤い水がひたひたと溢れ返り、階下へと流れ出してくる。水路となりつつあるもの、それを例の大群だと悟るのに時間はかからなかった。

 マーガレットは、忌避するように一歩後ずさった。

「何、アレ……」

 プリムローズが嫌悪感を露わに吐き捨てる。

「呪力が増してるのよ。呪術の均衡が崩れて、どっちかがくたばりかけってところなのよ」

「兄さんが何とかしてくれているんじゃないの」

「その筈よ、分かんないけど。でも、あたしたちがすべきことは、結局たったひとつなのよ」

 巾着袋から解呪符ソーサラーコードを取り出すと、幼い少女は躊躇なく駆け出した。

 それを察知したように、流れ迫る赤い川が膨れ上がって鎌首をもたげた。巨大な一頭の蛇となり、牙を差し向けてくる。

 プリムローズの方が先手を取った。

「其は久遠の苦痛を授けし魔弓――エンコード:『ユー』!」

 カードから放たれた一筋の太い光線が、一瞬で大蛇の頭を切り落とした。落下する首は幾つもの蛇へと成り代わり、宙で散開する。だが獰猛な視線は依然として少女に向けられている。

 プリムローズは間髪入れずに次なる解呪符ソーサラーコードをかざした。

「其は邪気滅す神の種子――エンコード:『ホア・ハウンド』!」

 カードから弾き出された輝く粒子が、空へと一気に浮かび上がった。一定の高さで留まると、すぐさま光の弾丸となって赤い群れを打ち抜いていく。灰と霧散したものは風に混じり、跡形もなく吹き飛ばされる。プリムローズはひっそりと口角を上げ、得意げに唇を舐めた。

 天から降り注ぐ光の豪雨を見やりつつ、マーガレットは警告する。

「手加減無用でも、残数は気になさいな! 弾切れになる前に言うのよ!」

「まだまだイケるのよ! ナメてもらっちゃ困るのよ!」

 無数の蛇を全て一掃すると、プリムローズは掲げた手を下ろした。光の雨が途端に止む。

 遠くを見やるジョシュアが、穏やかに告げる。

「――次が来るよ、警戒を」

 後ろから続く太い胴体部分が、割けるように二つに分かれる。そこから各々の頭部が生えて、二双が荒れ狂うように咆哮した。

「一旦後退ッ」

 マーガレットが命じると、妹はぱっと身を翻した。その場を離れたところへ、すぐに大蛇の首がひとつ重く激突する。もう一頭も、その幼い背中目がけて追撃をかける。それも軽やかなステップでひらりと避け、少女は駆け足を止めずに背後へ解呪符ソーサラーコードを放った。

「其は冥府へいざなう冠――エンコード:『ヘンベイン』!」

 カードが頭部に貼り付くと、蛇は戸惑うように首を振り、その動きを鈍くする。

「ジョシュ、お願い」

 マーガレットに促され、隣に立つジョシュアが一歩前に進み出る。

「其は魔を鎮める司祭の聖草――エンコード:『ビショップ・ワート』」

 瞬く間に、若草と野花の香りで満ち溢れた。晴れた春野を吹き渡る風が、青年の足元から天空へと迸る。淡緑の柔らかな覆いが頭上に広がり、ジョシュアを中心にして、円形に展開していく。その絹地にも似た薄いヴェールをすり抜けて、プリムローズが二人の元へ飛び込んできた。

 一歩遅れて、二頭の大蛇が惑うように這いつつも突進してくる。だが柔らかな覆いが、鉄壁の如くに野太い頭身を弾き返した。それでもめげずに頭突きは繰り返される。

 陣地に戻ったプリムローズは息を整えつつ、眉をしかめた。催眠毒の解呪符ソーサラーコードを貼り付けた筈なのに、まだまだ動ける様が気に食わないのだ。

「やっぱりデカブツだと効き目が弱いのよ」

「いいえ、上等。じわじわ弱ったところで一気に息の根止めれば、すぐにカタがつく。――ほら、見て」

 マーガレットが顎で示した先では、蛇が再び覆いに立ち向かってくるところだった。薄緑の生地に触れたその先から、バリバリと音を立てて身が削れていく。顔をしかめたまま、妹はついぼやいた。

「……なんだか鉛筆削りでもしている気分なのよ」

「最近発売された電動式の如しだねえ」

 ジョシュアも同意するようにのんびり呟いた。

「はん、呪物が赤ペン添削なんて、身の程知らずもいいとこだわ」

 赤身の半分以上が消滅すると、マーガレットは勝機を予感して颯爽と告げた。

「そろそろ頃合いかしら。プリム、終わらせなさい」

「アイアイ、ねえちゃま」

 一枚解呪符ソーサラーコード取り出して差し向けようとしたところで、いきなり蛇が動きを止めた。

 風船のように膨らんだかと思えば、破裂音と共に八方へと散り散りになった。紅玉さながらのきらめきとなって、遥か上空へと昇っていく。

 取り残された三人は、その光景を呆然と目で追った。マーガレットは確認するように妹へ投げかける。

「……あんたのおかげよね?」

「……ううん、あたしまだ、とっちめてないのよ」

 プリムローズは目を瞬き、天を仰いだまましばし沈黙した。しかし不意に、その背筋に凍るような気配が通り貫く。

 咄嗟に零れる声音は、どうしようもなく掠れてしまった。

「……だめ、だめよ」

「な、何が」

「どうしよう、ねえちゃま」

「だから、何が!」

 マーガレットの焦り声に応じず、途方に暮れた表情で空を仰ぎ続ける妹は、再び、どうしよう、と唇をわななかせる。

 暮れなずむ空が一気に陰った。とうとう陽が沈んだ訳ではなかった。暴風の手招く分厚い暗雲が、天を覆い尽くしたのである。

 皆がまさかと思った矢先、目の前に真白き光が一閃。立て続けに耳を蹂躙する、銃声にも似た轟き。少女たちはたまらず悲鳴を上げた。真上から降り注いだのは、確かな意図を持った落雷だった。

「落ち着いて、レディたち。これは本物の稲妻なんかじゃない」

 しゃがみ込んだ姉妹は、ジョシュアの穏やかな声で我に返り、恐々と空を見上げた。泥水のような低天に、禍々しい燐光がちらちら明滅している。黒煙のスクリーンに映し出された雷光が、蛇のように曲がりくねり、猛々しい姿をむき出しにした。

「な、何なのよ、この不自然な自然現象は……」

「どうやら、呪いの具象を蛇から雷に切り替えたようだね」

 さらりと口にするジョシュアの懐で、プリムローズが身を潜めつつも口答えを忘れない。

「この脳みそ薄弱野郎が。ない知恵振り絞りやがるのよ……!」

 途端にぱっと閃いて、三人は身を縮め合った。轟音を浴びぬように耳を塞いで堪える。憎しみ燃える落雷は、淡緑のヴェールめがけて繰り返し落とされる。

 氷上を踏み叩くような音が響いた。ヴェールに密かな亀裂が生じたのを見やり、ジョシュアは眉をひそめる。

「どうしたって破るつもりなのかい。品がないな」

「何処までも小癪ッ!」

 盛大に舌打ちしたマーガレットが、無地の札に文字を書き込んだ。掲げて怒声を発す。

「其は銀河にまばらなる空虚空間ッ――エンコード:『ボイド』ッ!」

 ヴェールを守るように出現したのは、薄暗闇のドームだった。打って変わって、得体の知れない無音の場が構築されていく。世界から一気に遮断されてしまった程度には、何しも耳に拾えない。

 遠くの明滅する落雷が、天から迸る。だが光線は鋭角に曲がって、近場の木々に落ちただけだった。

「……なんちゃって真空空間よ。限りなく絶縁状態にしてあるわ」

 マーガレットは肩を上げ下げしながら、か細い声を絞り出した。やがて耐え切れずに両脚が崩れ落ちる。

 ジョシュアがすぐに肩を抱いて、倒れ込もうとする少女を胸内で留めた。

「いけないじゃないか。君がそんな大きな力を働かせては……」

 荒い息の少女は気まずそうに、ふっと僅かな笑みを浮かべた。

「咄嗟に頭に浮かんで作ったんだもの。余力なんて考える暇、なかったわ」

「ねえちゃまのあほったれ」

 プリムローズが冷めた口振りで諌めたが、その紅玉のぎらつく瞳は、薄暗闇の向こうにある雷光の蛇に差し向けられる。

「ぶっ倒す……こいつだけは、絶対ぶっ倒すッ!」

 巾着袋から新たに取り出したのは、羊皮紙の束だった。真新しいタグ紐で括られており、『非常事態用』とある。それを歯で噛み千切って投げ捨て、まず一枚を天に掲げる。

「其は魔女の好みし死人の指ぬき――エンコード:『ジギタリス』!」

 プリムローズの周りに、いくつもの幻日が生まれ出た。ふわふわ波揺れるように、淡いラベンダーの灯りがくるりと舞う。少女は天を忌々しく睨み付けながら、隣に声をかけた。

「ジョシュアちゃん、一旦このバリアを解いて。上にぶっ飛ばせないから」

「いいけれど、再生は出来ないよ」

 ジョシュアはためらいがちだったが、幼い少女は絶対零度まで冷える声音で鋭く言い放った。

「問題なしなしよ。完膚なきまでに仕留めるもの」

 青年にぐったりと身を預けるマーガレットが、苦々しそうにひとりごちる。

「阿呆はどっちよ……熱くなりすぎ……」

 ため息交じりではあるが、ジョシュアは頷いた。ヴェールに手を触れると、薄氷が解けるような柔らかさで、みるみると剥がされていく。ジョシュアが目配せすると、マーガレットは渋々、手元の解呪符ソーサラーコードを一撫でした。闇色のドームはすぐに消滅する。

 その瞬間に、プリムローズは新たな一枚を揚々と放った。

「其は全てを蹴散らす荒野の烈風――エンコード:『トルネード』ッ!」

 舞い踊る穏やかな幻日が、急激な速さで旋回して真上へと昇っていく。二、三度後追いする突風で、更に勢いが増す。

 襲いかかる雷により数個かき消されるが、淡い燐光の上昇は止められない。暗雲の彼方へと吸い込まれていき、姿が見えなくなった。

 程なくして雷雲が悶え苦しむように、とぐろを巻き始めた。まとわりつく雷光は小さく縮んでいき、轟きも威勢を失いつつある。

 プリムローズは最後の一枚を取り出した。一層に、冷ややかな鈴の音が零れ落ちる。

「其は神の秘儀を白日の下にさらす偽典――エンコード:『アポカリプス』」

 指から弾かれて放られた羊皮紙が、空中に浮かぶ。それは大きく広がり始め、晴れた夜空を彷彿させる、群青色の縦笛と成り代わった。金管の活発な音色がひとりでに吹き鳴って、空へと渡る。

 弾丸で打ち抜かれたように、暗雲にひとつ穴が開いた。ひとつ、またひとつと、空洞が出来上がっていく。雷雲が丸まって穴を塞ごうとするが、次々と虚空は沸き起こり、それを促す無慈悲な音色は止まらない。

 穴開きチーズのようだとジョシュアが内心で思っていれば、もたれかかっていたマーガレットがゆっくり重心を戻した。呼吸を整え、空の様子を見守る。雲間から漏れ差す幾筋の淡い光芒が、少女の金髪をささやかにきらめかせた。

「『アポカリプス』――神が人の終末を謳う預言書の名よ。『悪いモノは全て滅んでお終い』っていう意味付けには持って来いよ」

 ジョシュアが苦笑しながら応じる。

「それでも定かじゃないし、偽典なんだろう。随分と攻めるね」

「概念的ではあるけれど、実際にあるモノよ。こっそり読ませてもらったこともあるわ。以前、ここでの研修中に」

「図書館員の方々に感謝しなくてはね」

 穴によって食い尽くされ、悪辣な暗雲は跡形もなくなった。穏やかな空が呼び戻されていき、三人はようやく肩の力を抜いた。

 プリムローズは晴れ晴れとした笑みを浮かべながら、大きく息をついた。ぺたんとその場に尻餅をつく。

「さすがに疲れたのよー……。サマーベリーの呪いをぶっ倒した時より、だいぶへっちゃらだけど」

「当たり前よ。『グラウンド・ゼロ』よりマシな消費に抑えてあるけど、その扱いにくさはトップレベルだもの」

 そもそもサマーベリーに施したものは、試作品であり、現段階では規格外の代物だ。消耗が激しいのはどちらも同等だが、実存するものがある分だけ、その危険性は格段に下がるようだ。

 疲労感はあれど、まだ顔色は悪くない妹を観察しながら、マーガレットは推察する。やはり安全性を保つには、確かな実在が必要不可欠なのか。しかしそれは、何で決められるのだろう。一体何が、確かにこの世にあらんとする基準になるのか――。

「……皆、どうなったのかな」

 プリムローズが呟きがひっそりと落ちる。夕日で照らされる塔を見やり、にいちゃま、嬢ちゃま、と不安そうに続ける。

 陽の半分が山脈の背に潜り、天はとうとう茜色の世界へと姿を変えた。対する東側は、急かして次なる宵闇の幕を滲ませている。

 雲一つない空は、只々、穏やかだった。鳥の音のひとつも聞こえないぐらいには、静寂の支配する世界だった。

「誰も通らないのね……」

 マーガレットが大理石の高い壁を見やりながら口零した。

 ゆっくり立ち上がると、気怠い身体を引きずるようにしながら歩き、鉄門前に寄り添った。その鉄格子にそっと触れたかと思えば、拳を振り上げ、一度強く叩く。やがてずるずるとその場でしゃがみ込み、言いようのないやるせなさにわめいた。

「とっとと戻ってきなさいよ、遊撃鳥リベラルバード……!」 

「メグ……」

 ジョシュアが何か言葉をかけようとしたが、やはりためらい、その背を見守るばかりだった。

 だんまりのプリムローズも、いじける表情で唇を結ぶ。顔をそらし、少し離れた草むらに視線をやる。そこから風の揺らぎとは異なった気配を感知し、悲鳴のように叫んだ。

「ねえちゃま!」

 マーガレットがハッと振り向いても、離れた妹の距離からでは遅かった。

 草場から、残党と思われる数匹の蛇が飛び出してきた。宙で細い矢と成り代わり、マーガレットを射殺そうとする。だがジョシュアが前に出て咄嗟に唱えた。

「退魔エンコード:『クローバー』!」

 触れるや否やの距離で、カードが硬質な音を立てて赤い矢を妨いだ。

 今まで顔色一つ変えなかった青年が、初めてその眉根をきつく寄せた。

「ジョシュ! だめよ!」

 マーガレットが蒼白になって叫んだが、ジョシュアは小さく喘ぎながらも簡略式の解呪符ソーサラーコードを掲げ続けた。

 残りの矢も命を散らすように、ためらわず突撃してくる。ここで止めては元も子もなくなる。

 駆け出したプリムローズも構わなかった。手に数枚を広げ、簡略式を続けざまに言い放つ。

「退魔補強コード:『ヴァーヴェイン』『ジョンズワート』『ディル』!」

 カードを全て切って投げれば、ジョシュアのかざすカードの上と左右に一枚ずつ並ぶ。青年の懐に潜り込むと、両手をカードに向けてかざした。

 矢を阻む幾重の層が出来上がったが、赤蛇が何処からともなく湧いて出てきて、次々と立ち向かってくる。層を突き破られれば、新たな層が生まれる。また破られれば、またひとつ層を。根競べは果たしてどちらが優勢なのか、今のマーガレットには分からない。

 簡略式の大負荷にとうとう耐えられなくなり、プリムローズは嫌がるようにかぶりを振った。両膝が弱々しく地面を這う。こめかみに汗を滲ませるジョシュアもそれに続いてしまう。

 マーガレットは鈍い身体を叱咤しながら何とか動かし、二人に寄り添った。ポシェットから小さなカードを一枚取り出し、必死でペンを滑らせる。

「お願い二人共、せめて、追尾式を!」

 引き絞るように哀願をしながら、追加のカードを差し出した。焼け石に水だが、今はこれぐらいしか、すべが思い付かない。 

 赤い光線と淡く輝くカードが火花を散らしてせめぎ合う中、幼い少女と青年は、険しい眼差しで前を見据える。

 か細くも、揃った声音で告げた――『魔女の僕を退けよ』と。

 それに呼応するカードが真白き光を八方に放ち、視界を覆い尽くた。何もかも見えなくなった白い世界で、燃え広がるような熱さだけ鼻先を掠めるのが分かった。


 拮抗の気配が止み、マーガレットは瞑っていた目を恐る恐る開けた。光も、矢も、そこにはなかった。気がかりである青年と幼い少女は、マーガレットの両肩にもたれかかるようにして気を失っている。両側から穏やかな息遣いを感じて、少女は心底胸を撫で下ろした。負荷を軽減した功績は高いと、我ながら喝采を送りたい気分だった。

 それも、何処からともなく湧いた気配によって冷めてしまう。新たな赤蛇が草陰からにじり寄って来たのである。

「くっそが、ふざけんじゃねえわよ……この腐れ蛆虫野郎共!」

 もう取り繕うことも忘れて、ポシェットの中を震える手付きで探る。当然、蛇の動きの方が素早かった。マーガレットたちの傍らへ距離を詰めた、その矢先だった。

 ――神よ、哀れみたまえ。彷徨える子羊共に、尊大なる慈悲を。

 天より響く明朗な言葉を引き金に、一刀のナイフが蛇の頭部に突き刺さった。

 息を詰めたマーガレットが上空を窺おうとしたが、目前に、墨色の翼が勢い良く舞い降りてきた。その奥に見える右手が、素早く横に切るようにして周囲を示す。

「この手は神に倣いし浄化の御業みわざ。陰りよ、光れ。邪気の茨よ、燃え尽きれ。穢れた子羊を清めたまえ」

 草陰から点々と浮かび上がった数十匹の赤蛇が、しゅっと簡素な音を立てて蒸発していく。

 まだまだこんなに潜んでいたのかと、少女は肝が冷える心地だった。

 不穏な気配が全て消え去り、粛正の右手はゆっくりと降ろされる。

 半ば放心するマーガレットを肩越しに見やり、不遜に小さく笑った。その後ろ首に括られた長い髪が、風で軽快に揺らめく。

「化けの皮が随分と剥がれちまってまあ。鞍替えするにゃ、ちっとばかし早急じゃねえの」

 相変わらず粗野な物言いで投げかけてくるのは、暮れる蒼天を背にした一人の兵鳥バードだった。

 幸運をもたらすには、随分と昏く、鬱蒼とした翼に違いない――内心毒づくマーガレットは、天からの御使いを強く睨み据えた。



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