第24話 夏 天空都市Ⅺ



 首筋を食んだ蛇は、己を役目を果たしたと言わんばかりに掻き消えた。兵鳥バードはよろめき倒れ、うめきながらその背を丸めた。

「お、おい、しっかりしろ。……まさか……何で……」

 付近の解呪師は、何かを悟ったように青ざめた。とにかく容態を見ようと、兵鳥バードの寝そべる入口近くへ近寄ろうとする。

「動かないで!」

 鈴の声音が凛と高らかに響き渡った。

 素早く飛び出したプリムローズが、解呪符ソーサラーコードを巾着袋から取り出して叫ぶ。

「其は蛇の道より生まれし禁忌の秘草――エンコード:『ワームウッド』!」

 早口で唱え終え、すぐさま解呪符ソーサラーコードを部屋の外へと切って投げた。

 刹那、外から猛然と押し入ろうとする数十匹の蛇の群れを、カードが阻むように押しやった。雷鳴にも似た絶叫が轟き、焼け切るような姿となった蛇は勢いを止める。灰と化し、その場で崩れ落ちた。

「目には目を、歯には歯を、じゃの道にはヘビ虫草ってなもんよ」

 ふんと鼻を鳴らすプリムローズは、悪臭を放つ灰の山を、気に食わなさそうにじっと見つめた。

「……キラキラしてない。これは、のじゃあないのね」

 プリムローズがもう安全だと伝えると、今度こそ解呪師数名が兵鳥バードに駆け寄って術を施し始めた。

 一瞬で収束した騒動にどきまぎしつつも、マーガレットが少々呆れた眼差しで妹に近寄った。

「あんたのみょうちきりんな語録更新はいい加減になさいな。それにしても、一体全体何が起きているのよ……」

「あれは邪気の固まりなのよ。一匹でも、人一人を難なくぽっくり出来るおっかないものよ」

「はあ!? 何でそんな危ないモノがそこらにうぞうぞしてるのよ!」

 思わず素っ頓狂に大声を出してしまったマーガレットだったが、プリムローズはしれっと答える。

「そりゃ、誰かが誰かを呪ったからなのよ。……でも、失敗して術が裏返ったのね」

「レディたち、あまり近付いてはいけないよ。互いの残酷な害意が交わったものだ、その瘴気だけで患ってしまう」

 ジョシュアが庇うように姉妹たちの肩を抱き、それとなく灰の山から一歩下がらせる。

 そして、入口付近の壁に解呪符ソーサラーコードを貼り付けて、静かに唱えた。

「其は清き炎煙を浴びし聖草――エンコード:『ヤロー』」

 外から逃げるように入って来た人々を追いかけるように、更なる蛇が侵入しようとするが、何かを察知するように入口付近で制止する。厭うように身を翻し、遠く離れて行ってしまった。

「これでここら一帯は近寄れない筈だ。今のうちに、他の場所で負傷した人がいるかどうか確かめてこれるよ」

 ジョシュアに促され、解呪師の一部が慌てて外に飛び出していく。

 入口と灰の山を交互に見やりながら、さすがに信じられないと、マーガレットは戸惑いの表情を浮かべた。

「呪いの裏返り……呪詛返し。これが、人を呪うという行為の副作用なの? そんなことが、この天空都市のお膝元で起きたというの??」

 


 解呪師たちは、兵鳥バードを解呪しつつもひそひそと会話を続けていく。

「この天空都市で、禁則破りだと……」

「一体誰がそんな愚かな真似を……しかも呪い返しなど」

「まだ同胞と決まったわけではない。例の流れ者の術師かもしれないんだぞ」

「しかし、あの具象体は、元より高等解呪師以上の実力が必須。生半可な技術では、たとえ裏返っても些末なもの」

「術師の呪いを裏返したのでは?」

「ならば、我々に害を及ぶ裏返りなどさせるものだろうか……」

「そんな、それでは……」

「やるせないな……。我々がこの街で何を誇り、尊び、解呪の向上に身を捧げているのかと思うと……」

 決してあるまじき事態に、許されざる行為に、治療場の解呪師は恥じるように俯いた。

 人の身に宿った苦しみを解き放つことを第一の使命とし、より多くの人々を救わんとするために、日々研鑽を積んでいる。ここは、そう望む者ばかりが集う場所、誉れ高き神聖なる街なのだ。なのに、その解呪師が、もしくは同等の力を持つ者が、呪い合っている。

 己の技術を心から信ずる者にすれば、蔑むような裏切りに等しい。そんな無慈悲な心得違いを行う者が、果たして本当にいるのだろうか。誰も彼も本心では信じたくなかった。

 思い当たる節のあるアルテミシアは、密かに唇を噛んだ。商人の『噂』が、真実となったためだった。

反駁はんばくし合っているのだわ。お互い強い我欲の現れね。何処までも汚らわしい蟲毒に成り下がりおって」

「……猊下と魔術師マグスの拮抗ですか」

 ヨークラインが声を潜めて訊ねれば、アルテミシアは皮肉気な笑みを浮かべた。

「ふん、耳が早いわね。誇り高き我々の顔に泥を塗る、性根の腐った愚か者共よ。この忌々しく、邪気に塗れた禍物を、一刻も早く収束させねばならぬ。このままでは、日々真っ当に生きる我々まで呪い死ぬことになるわ」

「――なれば、参りましょう」

「理解も早くて結構。なるべく内々に事を収めなさい。猊下の解呪、それさえ出来れば良い。後はわたくしが始末をつける」

「承知いたしました」

「ガーランドの小娘」

「はっ、はいっ?」

 いきなり名指しされ、リーンは上ずった声で返事する。アルテミシアは神妙に少女を見据えてから、静かに命じた。

「お前の仔細はスノーレット枢機卿から耳にしている。お前の能力を駆使し、キャンベルの目となりなさい」

「は、はいっ!」

 リーンは背筋を伸ばして快く応えたが、アルテミシアの台詞に一番ぎょっとしたヨークラインが口を挟む。

「局長、彼女は未熟な解呪師です。邪気を纏う蛇がうろつく中、行動を共にしろと言うのですか」

「速やかな解呪が第一よ」

 厳しい声がヨークラインを説き伏せようとする。

「この娘の力があれば、猊下の急所を一発で見定めるだろう。そうよね、ガーランドの小娘。出来るのでしょう?」

「で、出来ます! 頑張ります!」

「ふん、少々うるさいけれど、返事の良い小娘ね。エマ=リリー・ガーランドに似つかず、確かにスノーレット卿が肩入れしそうなだけはある」

 文句を呑み込んだヨークラインは、二人に聞かせるように大きなため息をついた。

「……では枢機部へ赴く準備をしてまいります。少々お待ちを」

 ヨークラインが二人から背を向け、キャンベル姉妹とジョシュアの集う入口付近へ向かっていった。皆で何やら話し込んでいるので、リーンも話に加わるべきか少し迷った。けれど、他にも気になることがあったので、隣の女性に視線をやる。

「……あの、あなたは、エマ=リリー……私のお母さんを知っているんですか?」

 冷厳な面持ちのアルテミシアは、淡々とだが質問に応じた。

「ええ。女学校時代の同輩ね。歳は違うからあまり話したことはなかったけれど、お前の母は、あのガーランドというだけで特別目立っていたからね。わたくしだけでなく、皆が彼女に注目していた」

「初めて聞きました。私、お母さんのことあまり知らなくて……」

「幼い頃に死に別れたのだから無理もない。わたくしも己の母の記憶は薄い。この歳まで生きれば尚更のこと。幼少の記憶は、大方スノーレット卿と過ごしたものばかりね」

「エミリーと一緒に暮らしてたんですか?」

 リーンがその大きな目を丸くすると、アルテミシアはほんの僅かに目元を和らげた。

「遥か昔の話よ。わたくしが今のお前よりもずっと幼い頃、その保護下にあった。……今ではすっかり腐れ縁というものに成り果てたが」

「それってお友達って言うんじゃないかと思いますが……」

「小娘、切りたくて切っても切れない関係を、腐れ縁と呼ぶのよ」

「そ、そうですか……」

 饗が冷めたように、アルテミシアはリーンから視線を外す。

「少し話しすぎたわ。わたくしとスノーレット枢機卿は相容れぬ仲、ここではそうまかり通っている。だからお前も易々口にしてはならぬ」

「わ、分かりました。気を付けます」

 リーンもアルテミシアから視線を外した。その先で、再びヨークラインが仏頂面でこちらに歩み寄ってくるのが見えた。

「いつまでそこにいるつもりだ。君も話に混ざりたまえ」

「ご、ごめんなさい。お母さんのことで、少し聞きたかったものだから。ええと、お名前は……」

 少女の問いにアルテミシアは穏やかな声で応じた。

「わたくしはアルテミシア。全国の解呪師局を束ねる者よ。お前も解呪師を目指すのなら、知っておいて損することはない」

「アルテミシア様。私はリーン=リリー・ステファニー・エマ・ガーランドです。よろしくお願いします!」

「知っているわ。さあ、悠長な挨拶はここまで。お行きなさい」

 アルテミシアからも促され、リーンは一礼するとヨークラインと共にキャンベル家の皆の元へ向かう。

「……さて、わたくしも己の責を果たさねば」

 アルテミシアも身を翻し、治療場の前線へと突き進んでいく。解呪師局長の名に懸け、この阿鼻地獄を必ずや極楽へと裏返してみせよう。



「と、いうわけで、枢機部特攻隊はヨーク兄さんとリーンの二人でよろしいかしら?」

 壁に背もたれるマーガレットから指令が下されて、リーンは不安げに問い返す。

「え……皆は一緒に行かないの?」

「あら、あたしが行ってもどうせ足手まといだもの。それに、そこらをうじゃうじゃしてる筈の蛇が、学徒区の外へ飛び出さないよう駆除する人員が必要でしょ。それは、プリムとジョシュとあたしの三人で行うわ」

「そうそう。お外の蛇退治は、あたしたちが頼まれたのよ!」

 姉の隣に並ぶプリムローズが胸を張って告げる。ヨークラインは未だ渋い表情だったが、ため息ひとつに留めた。

「すまんな、任せた。お前たちもくれぐれ気を付けてくれ」

「ヨークもね。無茶は厳禁だから。今度も生きたまま、ちゃんと帰って来ておくれよ」

 ジョシュアより微笑みながらも忠告され、ヨークラインは耳痛そうに言い返す。

「……幾分大げさだ」

「果たしてそうかなあ。レディを守りながらの道中は、いつもと少々勝手が違うだろう?」

「それもそうよね……。なら、リーンにはちょっとした陣中見舞いを送ろうかしら」

 ひらめいたマーガレットが、リーンの真正面に立った。腰元のポシェットから解呪符ソーサラーコードを取り出して、差し向ける。

「其は遥か歩みゆく旅路の守り草――エンコード:『マグワート』」

 細やかな金の光がリーンの足首に纏わりつく。きらめきが治まると、靴に一本の薬草が差し込まていた。

 続けて、隣のジョシュアも解呪符ソーサラーコードをかざした。

「では、僕からも良き贈り物を。其は祭司の清らかな魔杖まじょう――エンコード:『ヴァーヴェイン』」

 カードから生まれ出た蔓草が少女の右腕に巻き付いた。みるみるうちに幾重の細い腕輪へと形作られる。

「じゃあ、あたしからはおまじないを! 嬢ちゃま、かがんでかがんで!」

 言われるままにリーンが背を低くすると、プリムローズはその白い頬に、唇をほんのり寄せた。ほのかで柔らかな、けれど不慣れな感触に、リーンはいささかびっくりと肩を跳ね上げた。

「プ、プリム……?」

 いたずらっぽい笑みを浮かべたプリムローズが、神秘的な眼差しで囁く。

「キスにはね、すてきな魔法があるものなのよ。古くからの、だいじなだいじなおまじないよ」

「あ、ありがとう……」

「では行くぞ。決して、はぐれないように」

 言い聞かせるように告げるヨークラインが、少女に向けて手を差し出してきた。

 リーンは少し不満そうにその大きな手の平をじっと見やったが、やがておずおずと己の手を重ねた。

「ヨッカは、だいぶ心配性だと思うわ……」

「何を言う。君を是が非でも守ることは、俺の後見人ガーディアンとしての責だ」

 呆れ返るように言うヨークラインは、構わずに歩いていこうとする。つられてリーンも足を踏み出した。

 二人に向けて、キャンベル姉妹が後ろから声をかける。

「行ってらっしゃい、お二人さん。ちゃっちゃと終わらせてきちゃってね」

「全部終わったら、お疲れさん会しちゃうのよ!」


 二人の姿が見えなくなると、ジョシュアが本題という風にプリムローズに声をかけた。

「さて、優しきレディ。僕からの贈り物を、君も受け取ってはくれないだろうか?」

「でも……」

 プリムローズは未だためらうようだった。二度にも渡って全体治癒オールヒールを受け入れれば、ジョシュアのマナを喰らい尽くしかねない。けれど、残りのマナでどれだけの力量が果たせるのかと、不安でもある。

「無理にとは言わない。君の決めたことに僕は応じる」

 そう優しく呼びかけられても、少女は俯いて口開かない。痺れを切らしたのか、とうとうマーガレットが険しい目で命じた。

「いいわ、全部貰っていきなさい」

「ねえちゃま……」

「あんたが決められないなら、あたしが判断を下してあげる。まるっと全部、ジョシュから授けてもらいなさい」

 姉の毅然と言い放った台詞を、プリムローズは少し呆れたような眼差しでもって返した。

「ねえちゃまは、不器用さんね」

「はん、弁えてると言いなさいな」

 鼻にもかけない風に言い切ったマーガレットだったので、とうとう妹は肩をすくめる素振りで応じた。

「そこまで言うなら分かったのよ。でもねジョシュアちゃん、あたしの中のマナはまだまだあるから、もう少しだけ後にしてもらえる? それとね、がぶりんちょするのも、もういやだから」

「仰せのままに、レディ」

 話が決まったと、マーガレットがひとつ大きく手を叩いた。

「じゃ、いざ行きましょう蛇退治。さくっと終わらせて、皆で楽しくごはんを食べるのよ」





 夕闇に飲まれつつある枢機部内は、季節外れにさえ感じる冷え冷えとした空気が纏わりついていた。小窓から僅かに注がれる陽光を頼りに、最奥部へと続く薄暗い回廊を青年と少女が進んでいく。

 真っ赤な蛇が出てくるのではないだろうかとリーンはびくびくしていたが、ヨークラインが度々使う解呪符ソーサラーコードのおかげなのか、一匹たりとも見つけられなかった。

 小走りで進む少女は、繋がれた手首を見やりつつ、目の前の大きな背中に呼びかける。

「あの、ヨッカ……。ねえ、ヨッカ……」

「何だ、文句や訴えなら手短に頼むぞ」

「あの、その、……手首が少し痛いわ」

 ヨークラインはぴたりと立ち止まり、少女を掴む強固な手指を解いた。リーンはホッと息をついて、己の手首をそっとさする。

「……すまん」

 少し考え事をしていたと、気まずそうな弁解が低い声音で零れ出る。リーンは苦笑ぎみに口元を緩めた。

「ううん、気にしないで。私、またうっかり飛び出しちゃうといけないから、しっかり握っててほしいのは本当よ」

 あっけらかんとしながら手を差し出してくるので、ヨークラインは幾分眉をしかめつつも、その滑らかな白い手を掬い上げた。今度は優しく、けれどしっかり守るように繋ぐ。

 再び二人は歩き始めたが、少女に気を遣うように進む速度が弱まった。

「良く分からんが、君が構わないのならこのまま行く。それはそうと、疲れていないか。少し休むか?」

「平気よ。あのね、メグの解呪符ソーサラーコードのおかげで、歩くのがとっても楽なの。空気の上を弾んでいるみたい」

 追い風に身を任せるように、軽やかな足取りで進めるものだから、リーンの表情は明るい。呑気な調子とも言えたが、ヨークラインは小さく息をつく程度に留めた。

「君への見舞いが役立ってるなら結構。ジョシュアも、なかなか利便に長けたものを君に預けたしな」

「そうなの? それってどんな……わっ?」

 リーンが訊ねようとしたが、ヨークラインが途端に立ち止まるのでその長身にぶつかりそうになる。

 厳つい大きな扉が目の前にあったのだ。鍵がかかっているらしく、引いても押しても頑なに開かない。

「ねえヨッカ、解呪する方はこの向こう側に?」

「ああ、猊下の私室はこの先の筈だ」

「ど、どうしよう……誰か鍵を持っている人を探してこなきゃ」

「猊下が閉じているのだろう。探すだけ無駄だ。それより、君の右手を、前に出したまえ」

 ちっとも動じないヨークラインがそう促すので、リーンは言われるまま、目の前の扉に手をかざす。

「これでいい? それからどうするの?」

「何か適当な文句を呟きたまえ」

「て、てきとうって……どんな風に?」

「君の思う、魔法使いが唱える呪文でいい」

「え、ええと、……ち、『ちちんぷいぷい、ひらけゴマ』!」

 半分やけくそに叫べば、リーンの手首にあった蔓草の腕輪が呪文に応じた。蔓が伸びて錠に絡み付き、その一部が鍵穴に入り込む。間もなく、カチリと錠の外れる音が鳴った。

 強固な扉が、重い響きを伝えながらも奥へ招こうと開かれる。

 リーンは感激にふるえながら胸内で手を組んだ。

「すごい! ジョシュアのコレがあれば泥棒し放題ね!」

「罪人になる覚悟があるならやりたまえ。……というか、さっきの呪文は何なんだ」

 呆れた表情のヨークラインから冷たく投げかけられるが、リーンは得意げに言う。

「お母さんが教えてくれた呪文よ。良く転んで泣いてた私に、『ちちんぷいぷい、いたいのいたいのとんでけ』って、唱えてくれたの」

 青年は、ふと少女をまじまじと見やった。漆黒の深い眼差しを返されて、リーンはきょとんと小首を傾げた。

「……ヨッカ?」

「……いや、幼い君も、俺にそうやって唱えていたなと……思い出して」

「そうなの? 私、ヨッカにも、痛いの飛んでけのおまじないを?」

 良く覚えていないのか、半分不思議がる少女に向けて、ヨークラインは内心嘆息する。

「やはり君は、あのガーランドの生き残りの――泣き虫リリなのだな」

 何処か噛み締めるように呟くヨークラインだったが、顔を背けて前に進み始めた。再び手を繋がれた少女は、その大きな背中に向けてほぼ無意識に呼びかける。

「……あの、ヨッカ」

「何だ」

「う、ううん、何でもないの。……ごめんなさい」

 少女は謝ってから、気付く。

 彼に、何か言いたかったのだ。けれど上手く言葉に出来なかった。伝えるべきかも分からなかった。

 どうしてだか、その凛とした背中が、いつになく寂しく見えたのだ。

 いつかの夕暮れ時みたいに、リーンの胸内を哀しくざわめつかせている。そんな色で染められた想い出など、少女には何ひとつ存在しない筈なのに。それとも、ヨークラインにはそんな憂える記憶があるというのだろうか。

 実際、何を思って告げたのかは分からない。口数少ない彼から零れる言葉は、儚い朝露のように、いつも取りこぼしてしまいそうになるから。

 ただ、『泣き虫リリ』と例えて過去の面影を辿るヨークラインは、いつもそうなってしまうのだと、それだけは分かってしまった。

 リーンは、ぼんやりと胸に浮かぶ小さなわだかまりを、どう感じていいのか分からなく、繋ぐ手の内の熱を更に追い求めるように、切に握り返した。


 

 最高法師の部屋は、回廊の最奥にあった。

 進めば進むほど濃密になる香木の匂いは、甘ったるいまでに重く空気を支配している。同じ香で焚きしめた法衣を纏う初老の男が、部屋の奥中央の寝台に腰を据えていた。突如の来訪者に穏やかな眼差しを送る。

「――ああ、お主か。ここまで来れるとはやはり只者ではないようだ。我が安息の間にようこそ、ミスター・キャンベル」

 ヨークラインは静かに見据え、淡々と返す。

「いいえ、猊下。私は単なる一介の解呪師にすぎません。此度の件で、アルテミシア候から猊下の解呪を命じられ、御前に参上いたしました」

「……解呪? 異なことを申すな。このアークォン、見てくれ通りに健やかなるぞ」

 アークォンはころころと笑うと仰々しく手を広げた。金刺繍細やかな法衣を前面に押し出し、その羽織った身をかざす。

 視線を真っ直ぐにしたまま、ヨークラインはひっそりと少女に呼びかけた。

「……君はどう見る?」

 リーンはきらびやかな姿の法師を、上から下へと見定めた。そして、ゆっくり指で示す。

「……ここよ、額の真ん中」

「そうか、助かる」

 ヨークラインは解呪符ソーサラーコードを取り出し、アークォンの傍らへ歩み寄る。

「御前でのご無礼、平にお許しを」

 札を不躾に突き出されても、アークォンは依然悠々としていて、更に目を愉快そうに細めた。

「ミスター・キャンベル。我に、神の御業を見せてくれるか。ああ、善きかな……まことに善きかな……」

「人の身における一つの技にすぎず、大層なものではございません」

 青年の言葉を遮るように、アークォンは突如立ち上がった。瞳孔をゆっくりと大きく見開き、幼子のような喜色の表情を向ける。

「その御業こそ、神の祝福。神の叡智。神の途絶えぬ豊穣。我にはどうしても手に負えぬ絶対たる力。……だが我は、それに焦がれてやまぬ」

 最高法師の後ろから、一つ伸びるように顕現するものがあった。人の身の倍はある明々とした大蛇が、鎌首をもたげて青年を見下ろしていた。

 ヨークラインはすかさず後ずさり、すくみ上がるリーンを背後へ隠れるよう促した。

「それに焦がれて焦がれて、求めずにはおられぬ。その叡智を以て我に盤石を、天なる意思を与えよ!」

 きらびやかな法衣が舞い上がり、それを飛び越えて前方に出た大蛇は、矢の如くにヨークラインを襲う。

「防護エンコード:『ネトル』!」

 反対の手に隠し持った札を、咄嗟に取り出して唱えた。

 瞬時に広がる蔓草が盾となって、獰猛な一突きを防ぐ。蔓の刺を厭うように大蛇は引き下がったが、鋭い牙を誇示するためなのか大口を広げてみせた。その真下に立つアークォンは、薄っすらと優しく微笑む。

「おお、おお、すまぬな、ミスター・キャンベル。高揚に高揚でふるえる心が、つい浮つくのだ。無体はせぬ、お主の身に秘めたる力を飲み干すだけぞ」

 簡略式の使用が疲労感を一気に全身へと広げ、ヨークラインは額に汗を滲ませる。荒い息遣いを整えつつ、訴えた。

「猊下、お気を確かに。御身の技で私を捉えようとも、遥かに畑違いであなたの口には合わない」

「それは口にしてみぬことには分からぬだろう? 力を捧げよ、キャンベル。なれば何もかもの安寧が約束されよう。魔術師マグスに打ち克ったお主の技は、至上の宝物ほうもつぞ。その真価は、天より見渡すこのアークォンの手元にあればこそ!」

「あまりに迷論がすぎる!」

 吐き捨てるように言い、ヨークラインは二つ目の解呪符ソーサラーコードをかざした。

「其は聖なる炎煙を浴びし退魔の草冠――エンコード:『セント・ジョンズワート』!」

 カードから飛び出したのは、まるで炎のような光の輪。天井近くに至る大蛇の頭へと覆い被さる。途端に動きが止まり、棒状に固まった真っ赤な身体は墨色へと変わる。みるみるうちに灰となって崩れ落ちた。

 ヨークラインは一つ大きく息をついて、アークォンを蔑み睨んだ。

「最高法師ともあろうお方が、人に害を差し向けますか」

「強きものが弱きものを囲うのは、当然のことわり。この天なる身に溶け込んで、我の力となって廻り回るだけのこと。いびつで不可思議な話ではあるまいよ」

「世の仕組みと説くならば雑談に流せましょう。だが、あなたの振る舞いは人の道理から外れている」

 にべもなく言い切るヨークラインは、解呪符ソーサラーコードを新たに取り出して唱える。

「其は天より課せられし苦難の茨――エンコード:『ソーン・バーネット』」

 カードから飛び出た蔦がアークォンの身体に巻き付いた。捕縛するように両手が纏められ、拘束していく。アークォンは大して気にならないのか、くすくす笑って寝台にゆっくり腰掛けた。

「片腹痛い真似よ。若造が、我を断罪出来ると思うてるのか?」

「アルテミシア候には、内々に事を治めるよう仰せつかっております。あなたの処断は、彼女の決めること」

 札を懐に仕舞い直し、ヨークラインはようやく落ち着いて法師の傍らへ歩み寄った。けれど思い出したように、ひっそりと苦々しく、背後に告げた。

「……いつまでも強くしがみつかないでくれないか。服が伸びてかなわん」

 恐怖で声も出せずに見守ることしか出来なかった少女は、ようやく蚊の鳴くような呟きを零した。

「だって……食べられちゃうと思ったんだもの……」

「実際の蛇ではない。猊下の力の具象体だ、あまり気にするな」

 なだめるように少女に言い聞かせつつ、握り締められた背広へ呆れた視線を送る。そのせいで反応が少し遅れた。正面から突如立ちはだかった影から、一人だけ逃がすのが精一杯だった。

 青年の俊敏な手が、少女を強く突き飛ばした。

 リーンは小さく悲鳴を上げてよろめき、後方へ尻餅をついた。鈍痛と衝撃で当惑しながらも、すぐに顔を上げる。

 明々と輝く水晶のような眼が、そこにあった。目を瞬かせる少女を見返すように、嬉々と三日月さながら弧を描く。

 真っ赤な大蛇が、得意げに口元の舌を出入りさせていた。つい先程まで、そこにあった筈の真っ黒な立ち姿は消え失せて、跡形もない。

 途端の成り代わりが信じられず、少女は呆然と辺りを見回した。

「ヨッカ……どこにいったの?」

 たどたどしく呼びかけても、青年の低い声音は、何ひとつ返ってこない。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る