第23話 夏 天空都市Ⅹ



 普段より一層に青白い頬色となったリーンは、虚ろに呟く。

「ど、どうしよう……でも、私、あの人がそんな人だなんて……」

 人でなしと告げられていたとはいえ、まさかそこまでの悪事を働かせる者だとは、穏和な少女には考えもつかない。

 善かれとやったことが、本当は皆の迷惑に繋がることかもしれないなんて。困惑の思考が、自然と目の奥を熱くさせてしまう。いけないことをしてしまったのか。また、やってしまったのか。

(……どうして、またしても、私は過ちを振りかざしてしまうのだろう)

 呆然と涙を浮かべる少女の傍らまで、エミリーはそっと寄り添った。

「ええ、知らなかったのです。そう、知る訳がないのですよ。あなたには怪我をして困っているだけの人に見えた。だから何とかして治したいと思った。その優しき心にのっとった事実だけでした」

 両手を胸内に仕舞い、怯えるようにぎゅっと握ってしまった少女の背を優しくさすりながら、言葉を続ける。

「……目の前にあるものだけが、必ずしも本当の姿をしているとは限らない。けれど、人はどうしても目に見えるものだけを信じたくなってしまう。だからこそ、誰かの都合で善悪の是非は選択されるのです」

 その静謐ながらもきっぱりとした口調は、リーンの悲痛に浸る心地を和らげた。少女は恐々とだが顔を上げ、目を丸くした。

「エミリー……? あの、言っていることが、少し難しいわ……」

 儚く微笑むエミリーは、リーンの縮こまる両手をそっと持ち上げ、温めるように優しく覆う。

は、確かにあなたが望まずに培ったもの。ですが、それそのものに善悪はありません。生かすも殺すも、あなたの選択次第。あなたの思う通りのままに力は発揮されます。あなたの信じるもののために、使うのか否か、それはあなたが決めることです」

 エミリーは確かめるように問い続ける。

「あなたが胸を張ってこの力を使うには、何をすべきだと思いますか?」

 再び俯いたリーンだったが、すぐに思い浮かんだのがキャンベル家の皆の姿だった。

 マーガレットの聡明さ、プリムローズの突破力、ジョシュアの慈しみ、家長たるヨークラインの統べて導く強さと、賢者の如くの圧倒的な秘技。

 一人一人の力を纏め合わせて解呪に挑むその光景は、リーンのまたとない奇跡の再訪として映った。そしてそれは、失意の少女にとって、真白い光の差すような希望の始まりだった。

 この手は、今一度やり直せるのかもしれないと、嬉しかったのだ。

 涙混じりの声を滲ませつつも、心熱くする願いがほろりと零れ落ちる。

「……この力で、皆を助けられたならと思うわ。お伽話の賢者みたいに、私のお母さんを助けてくれたみたいに、誰かを救えたらと。だから解呪師になろうと思ったの。ヨッカやキャンベル家の皆みたいに、今度こそ、善いことに使ってみせたいの」

 少女の蒼い眼差しが、凛とした彩りを浮かべていく。エミリーは殊更に深く微笑み、少女の背中を押すように促した。

「なれば今は、その心を信じて進んでください」

「うん、ありがとう、エミリー。だから、ガーランド家のことをもっと詳しく教えて。私、身の回りのこともきちんと知りたいの。自分が何者なのか、少しだけでも分かれば、今よりもっと自信が持てる気がする」

「ええ、本日、口外無用でお招きしたのは元よりそれが理由。……ですが」

 塔への来客を告げる硬い足音が響き始め、エミリーは導かれるように視線を静かに移動させた。

 ノックの一つもなく、扉が無作法に開け放たれた。そこから現れた幾ばくかの息を弾ませるヨークラインが、二人の少女を厳しく見据えていた。


 エミリーは安堵とも呆れとも取れるようなため息をついた。

「しばしの中断ですね。あなたの後見人ガーディアンのご登場ですよ」

「ヨッカ……どうして、ここに」

 リーンは驚いて立ち上がり、おっかなびっくり呼びかける。憮然としたヨークラインはつかつかと少女へ歩み寄り、その細い手首を手荒に掴んだ。少女の問いには答えず、冷淡にも似た声音で問い詰める。

「何故、君がここにいる」

「ご、ごめんなさい。私、エミリーと会いたくて……その、だから天空都市に来たかったの」

「マーガレットを謀ってまでか。彼女のもとで大人しくしているよう言い付けた筈だが」

「騙してなんかないわ。メグにはお友達に会うって伝えてあるもの」

「天空都市の枢機卿であることは告げていたのか」

「そ、それは……。あの、メグは、この都市の人間が苦手だと聞いてしまって、余計に言い辛くなっちゃって……」

 とっさに思い付いた言い訳を口に乗せれば、ヨークラインは盛大にため息をついた。苛立ち混じりの言葉が、説教じみてつらつらと垂れ流される。

「だからといって、君の監督責任を全う出来なければ意味がないだろう。土地勘のない場所で一人にさせるのもいただけないというのに。君も勝手な行動は慎みたまえ。今は何より非常時なのだ。スノーレット枢機卿の下だという情報があったから良かったものの、俺の知らない人物であったなら、君を探すのに時間をどれだけ割くのかと」

「べ、別に、ヨッカに探されなくてもいいもん!」

 とうとうリーンから大きな声で反発されて、ヨークラインは一瞬言葉を失ったが、気に食わないように睨み直した。

「……何だと?」

「心配かけたならごめんなさい。でも、私はエミリーとどうしてもお話がしたかったの。ちゃんと目的があってここに来たの。迷子の扱いなんかしないで。迎えに来てもらわなくてもちゃんと帰れるわ」

 ヨークラインの言葉にもつい熱が乗る。

「それにしたって説明不足だろう。何故俺に一言でも伝えなかった」

 リーンは不満そうに唇をすぼめて、負けじと青年を睨み上げた。

「……ヨッカが私に隠しごとをするからよ」


 コツコツと杖を叩く音が響いて、応酬を重ねる二人はハッと我に返った。腰を落ち着けたままのエミリーが、色薄く微笑んでいる。

「百聞は一見に如かず……――成程、手紙で知る分にはいささか聞き得ぬものがあるようですね」

 ヨークラインは苦虫を嚙み潰したような表情になり、決まり悪そうにリーンの手を解いた。そしてすぐさま、エミリーの座席近くで跪く。

「……御前でお見苦しいところをお見せし、大変失礼いたしました」

 エミリーは再びコツンと杖を突き、ヨークラインを穏やかに見下ろした。

「ええ、見苦しいですよ。しかも彼女に対して何たる様ですか。後見人ガーディアンが聞いて呆れます。キャンベルの立場に縛られて、あなたは肝心な部分を疎かにしているようですね」

「……お恥ずかしい限りです」

「守りたいのならば、その対象を信じてあげてください。雛鳥だって、いつかは独りで羽ばたくものなのですから。かつてのあなたのように」

「……肝に銘じます」

 今度はヨークラインが萎れるように頭を垂れてしまい、平伏す様を二回も見てしまったリーンはおろおろと呼びかける。

「え、エミリー、そのくらいにしてあげて。私はもういいから。ヨッカがしょぼくれてて可哀想」

「しょぼくれてなどいない。それにこれは俺の責で、君の許しで済まされるものではない」

 すかさず目くじらを立てたヨークラインから口を挟まれる。その様子に、エミリーはころころと笑った。

「うふふ、強情ですね。……いいでしょう、許しましょうか。キャンベル家支援者、ノーム・スノーレットという大義名分に則って」

 エミリーはゆっくりと席から立ち上がり、開け放たれたままの扉を締め直す。

「おちおちゆっくり話せませんね。申し訳ありませんが、お茶会は一仕事終えてから行いましょう。ヨークライン、面を上げてください。現状の説明を」

 ヨークラインは淡々と述べ上げる。

魔術師マグスという狼藉者の仕業で、我がキャンベルは深刻な被害を受けました。態勢は整え直しましたが、依然解呪師の不足が懸念事項です。対抗措置として、解呪の同等の効果をもたらす薬剤投与を試みます。七大都市から運び込み、到着次第投与を開始します」

「到着は間に合うのですか?」

「妹の情報によれば、日暮れ頃までに投与出来れば解呪可能とのこと。運搬を任ぜられた遊撃鳥リベラルバードの速さなら、申し分ないかと思いますが……」

「それでも時間との勝負ということですね。天の御使いである彼らを信じる他ないでしょう」

「加えて、緊急報告が。……魔術師マグスが猊下に対して呪詛返しを行ったようです」

「そうですか。誠に残念です」

 エミリーの返事は存外にも素っ気なく、ヨークラインは困惑に眉をひそめたが、元の報告を続ける。

「……軽症の患者たちは、妹たちの力があれば解呪可能と判断しております」

「分かりました。であれば、あなたも解呪を行えますね。こんなところで油を売りたくはなかったでしょうに」

 からかうように投げかけられ、ヨークラインはここで初めてエミリーを睨み上げた。

「あなたも人が悪い。彼女と顔見知りなのだと、何故俺に教えてくださらなかったのですか」

「あなたの事情は了承しております。ですが、少々繊細な理由がありまして」

「繊細な理由? いずれにしろ、彼女の後見人ガーディアンは、あなたではなくこの俺です」

「その大義名分は、この場において通用しません」

 これ以上は押し問答だと悟ったのか、ヨークラインは苛立ちを隠さぬまま立ち上がった。

「……リーン=リリーを連れ帰ります。よろしいですね」

「構いませんよ。彼女を、この騒動の鎮圧に役立ててください」

「彼女は力量不足と判断しておりますが?」

 ヨークラインの訝しげな問いかけに、エミリーはリーンの両肩に手を添えて、悠々と答える。

「この子は物の要所を見抜く力に長けています。是非、上手く使ってください」

「ヨッカ、私、頑張るから。一緒にお手伝いをさせて」

 両手を胸内で組み、身を乗り出すリーンがいつになく意気込みを強くしているので、ヨークラインは不可解そうに顔をしかめた。けれど、不承不承と言った体で礼の形を取る。

「……承知いたしました」


 退出したヨークラインは、人気のない回廊を急いて歩く。決して離すまいと、少女の手をきつく握り締めたままだ。

 つんのめりそうになりながらも、リーンは小走りでヨークラインの背後に従った。不機嫌そうな背中に向けて、意を決したように呼びかける。

「ヨッカ、聞いて。私、解呪師として皆の役に立ちたいの。役に立てたらきっと私、大丈夫になると思うの。ヨッカが何もかも心配しなくても済むように、ヨッカが私に隠していることも気にならなくなるくらいに」

 ヨークラインはぴたりと足を止めた。ひたむきな視線を寄越す少女に向き直り、無表情で淡々と告げる。

「君に出来ることなど、俺の力に比べれば他愛ないものだと思うが」

「そんなことない」

 リーンは睨み据えるようにして上向いた。アイスブルーの硬く澄み渡る瞳が、青年の頭頂から静かにゆるりと下へ辿られ、そして見定めたように留まる。

 右手の人差し指が、ヨークラインの胸部に触れた。眠りに落ちれど鼓動の止まぬその器官を、寸分違わず指し示す。

 ヨークラインは思わず息を詰めた。ぎくりとして、その指の切っ先を見つめた。

 リーンはいつになく毅然とした口調で告げる。

「ヨッカ、あなたも少し呪われているわ。急所に悪いものが留まると大変なんでしょう? ちゃんと皆に見てもらって、処置を施すべきだわ」

 言い切ると、リーンは指を力なく下ろした。そしてたちまち気弱な表情で視線を覚束なくさせ、ついにはそっぽを向いて、回廊を一人で歩いていこうとする。

「……何故、俺の急所がここだと。呪われていると分かるのだ」

 ヨークラインから息苦しそうに問いかけられ、リーンはそろりと立ち止まり、一言だけ口開いた。

「分かるようになったから、よ」






 冷たいコーディアル水を飲み干したプリムローズは、ぷはっと声を上げると口元を手の甲で拭う。そして、血気に満ちた口調で言い放った。

「其は恋慕を呼び覚ます蠱惑の瞳――エンコード:『ベラドンナ』!」

 簡素な布上に横たわる患者に目がけ、解呪符ソーサラーコードから光線が放たれた。半分気を失うような表情だったのが、寄せる眉間を徐々に和らげ、安らかな息遣いとなる。傍で見守る解呪師数名が、おおと感嘆の声を上げる。

 矢継ぎ早に数人に向けて唱えたプリムローズは、眉をしかめて荒い呼吸を整えた。

「ねえちゃま、治せそうな患者しゃん、あと何人?」

 腰に手を当てたマーガレットが、治療室内を仰ぎ見ながら答える。

「ざっと三十人以上はいるかしらね」

 プリムローズは苛立つように「多い!」と唸った。

「あたしのマナを二度もすっからかんにしようとは、とても良い度胸なのよ……!」

 少女のいからせる肩を、ジョシュアが優しくぽんと叩き、お手製の焼き菓子を目の前に差し出してくれる。

「心配無用さ、レディ。マナが切れたら僕がまた与えてあげるから」

「ジョシュアちゃんのそういうところ、感謝感激あめあられ。でもね、そろそろね、ちまちまやってて飽き飽きなのよ」

「飽き飽き言わない。でも、確かに効率が悪いっちゃ悪いのよね。もっと良い方法はないものかしら」

 マーガレットが渋面で見下ろすも、考え込むように口元に手をやった。その様子に思い直したのか、妹は肩をすくめる。

「ここらが踏ん張り時って分かってるのよ。ちょっとぐちぐち言いすぎたのよ」

 菓子を小さくつまみ終えたプリムローズが再び解呪符ソーサラーコードを掲げようとして、途端にその手をあっさり下ろした。

「待って――来たから。すぐに来るから」

 マーガレットとジョシュアが不思議そうに顔を見合わせれば、二人分の足音が治療場の外から響いてくる。小走りで部屋に入ってくるヨークラインとリーンによるものだった。

「すまない、遅くなったが彼女を見つけた」

「お、お手伝いに来ました!」

「嬢ちゃま、おかえり! ついでにいちゃまもお疲れ様」

「エミリーちゃんとのお茶会は楽しめたかしら?」

 キャンベル姉妹から笑顔で迎えられ、リーンは同じく笑みを返しながら呼吸を整える。

「う、うん。ヨッカが迎えに来てくれたから、中断になっちゃったけれど」

「あら、それは悪いことをしたわね。兄さんが必死な形相で飛び出して行っちゃったから何事かと思えば、結局取り越し苦労だったのね」

「やかましい。彼女の人となりは得体が知れないんだ。それを勘繰らない方がどうかしている」

 ため息交じりのヨークラインは、険のある物言いで吐き捨てる。リーンは納得いかないと頬を膨らませた。

「もう、ヨッカはどうしてそんなに疑り深いの。エミリーは確かにおばあさんみたいだけれど、怪しい人じゃないわ」

「君はもう少し警戒心を持ちたまえ。いかがわしい輩に攫われても文句は言えないぞ」

「ま、あたしたち異端キャンベルの支援者を名乗り出るぐらいだもの、そもそもトリッキーな人だとは思っているけれどね」

 マーガレットが面白そうな笑みを浮かべて、合いの手を入れてくれた。

「それはそうと、嬢ちゃま。お手伝いに来てくれたんだよね?」

 プリムローズからにんまりと笑みを向けられ、リーンは気を引き締めながら向き直った。

「私に出来ることがあるのなら……勿論そうしたいわ」

「そっか。それじゃあね、見てほしいな」

 手を引っ張られて、軽症患者たちの傍まで歩み寄ったリーンだったが、途端に顔をハッと強張らせた。

「これ……」

 目の焦点が合わずに、ぼんやりとした視線を向ける者。咳き込みが止まらない者。うずくまってぐったり寝そべる者もいる。

「とってもひどいでしょ。古ぼけ天外魔の仕掛けた呪いよ」

「あの人が……本当にこんな酷いことを……」

 喘ぐように独り言を漏らすリーンに、プリムローズは畳みかけた。

「あたしにはね、身体の中にめちゃくちゃキラキラしたものが見えるの。それをごっそり取り除きたいと思ってるわけ。嬢ちゃまなら、どうする?」

「ええと……呪いの元になる悪種を取り除くんでしょう?」

「どうやら、その根源となる悪種はまだ存在しないようだ。毒素が身体中に散らばっている段階だな」

 隣に立つヨークラインが話に加わり、マーガレットも厄介そうに説明を述べる。

「それでも、この段階で症状が顕在化するってのが、そもそも異常だわ。月のマナを止める作用として、身体中に浸透しているみたいなの。だからそれを揺さぶり起こす解呪符ソーサラーコードを作成したわ。毒素に対抗する劇毒成分が原料になっているの。プリムの持つ高度のマナなら、解呪に至れるエネルギーになることまでは実証済みよ」

 プリムローズが唇を噛むようにいじけた声を出す。

「それでも人が多すぎるの。いくらジョシュアちゃんがいてくれるからって、あたしのやる気テンションが続くかどうか……」

「そうだね、覇気のないレディの力では、満足な解呪には至らないだろうね」

「ならば、人数をまとめて一度に解呪出来れば問題ないか?」

 ヨークラインから提案され、マーガレットは目を瞬かせたが、思案に目を伏せつつ答える。

「……そうね、式の回転数を上げて、広範囲に効果を及ぶようにしてみようかしら。でも、効果が薄まる可能性もあるわ。体内に潜む毒素を全て取り除けるとは限らない」

「……巡る場所を使えばいいと思うの」

 今まで傍でやり取りを黙って聞いていたリーンが、ぽつりとそう呟いた。

 キャンベル家全員が少女に意表をつかれたような表情を向けてくるが、リーンは尻込みしつつも言い続ける。

「あ、あの、体内には全てを巡る器官があるでしょう? その通路を利用して、解呪符ソーサラーコードの力を体内へ巡らせるの。そうすれば僅かな力でも、体内の隅々まで運べるわ」

 マーガレットは真摯な眼差しで問う。

「循環器を使うってこと? 症状は神経系統の麻痺よ。血液と体液の領域は範疇外じゃないかしら?」

「え、ええと、そう言われると……」

 リーンは自分の考えを的確な言葉に出来ず、言いあぐねるように口を噤んでしまう。

「いや、その道理ならば有効だろう」

 ヨークラインが助け舟を差し出すかのように口を挟んだ。

「もっと大きな流れとして捉えるんだ、一つの川のように、一つの筋道のように。月のマナは体内を廻り巡り、物を運ぶエネルギー体だ。その作用を駆使するならば、同じ筋の経路に解呪符ソーサラーコードを用いるのが一番理に適う」

「正に、流れに身を任せるって感じね。具体的にはどうすればいいのかしら?」

「おねんねしてる月のマナの、一番声が届きやすい場所に使えばいいと思うのよ」

 プリムローズがジョシュアから与えられた焼き菓子をつまみながらも、得意げに会話に乗っかってくる。

「つまり急所ってことよ。そんでもって、それが何処なのか、嬢ちゃまは分かっているのね」

 いつになく凛とした表情のリーンは、静かに頷いた。

 寝そべる患者の顔面をひたむきな眼差しで見つめ、やがて人差し指で指し示した。額より僅かに下方の、眉間の中心部分だ。

「ここよ。ここに使えばいいと思うわ」

 ヨークラインは密かにリーンに気難しい視線を送ったが、決断する。

「ならばポイントをそこに定める。マーガレット、コードの改編を頼めるか。範囲を拡大しつつ、力の方向性は限定してくれ」

「了解したわ、兄さん。その代わり、マナの放出量は一気にでかくなるけれど、……プリム、いけるわね?」

 プリムローズは焼き菓子を頬一杯に押し込めつつ、不敵に笑う。

「当然。広がろうが、でかかろうが、どんと来いなのよ」

「今度こそ、その大きな口の通りの仕事を期待するわ」

 微笑むマーガレットは、無地の解呪符ソーサラーコードに新たな記号と文字を書き込み、プリムローズに差し出した。

「コードに循環サーキュレイションを付則。式の内容も変えているわ。間違えずに読み上げなさいよ」

「がってん承知!」

「さあ、皆、こちらに座って。これから飛びっきりの素敵な魔法が、君たちにかかるよ」

 いつの間にかジョシュアが患者たちを手招いて、部屋の中央へと集めさせている。ヨークラインも加わり、自力で動けない患者の身体を持ち運ぶ。

 花のような面差しの少女は、幼い頬内の食物を全て咀嚼し、ごくりと音を鳴らして飲み込んだ。そして仁王立ちするように足幅を広げる。意気揚々と解呪符ソーサラーコードを掲げ、歓び溢れるように明朗な声を響かせる。

「其は聖なるしゅを崇め奉る一途なまなこ――エンコード:『サーキュレイション・ベラドンナ』!」

 身を寄せ合う患者たちの周りに、濃密な水蒸気が舞い上がった。空中で一点に集中し、凝縮していく。

「おねぼうさん、とっとと起きて!」

 プリムローズが命じるように言い聞かせれば、患者たちは操られるように一斉に上向いた。

 凝縮した固まりが数多の球粒に変化し、きらめく透明な滴となる。それが一人一人の眉間に、ぽたりと一滴落とされた。瞬く間に皮膚の下へと染み込んでいく。やがて、表情に変化が訪れた。きつく絞られた瞳孔が、徐々に柔らかく広がっていく。

「あ……」

「苦しくない……」

「暗くない……ちゃんと見える……」

「すごい、身体が……軽い」

「何だか頭もスッキリして……今まで、悪い夢でも見てたのか?」

 苦渋の異変が突如裏返り、当惑するようだったが、素直に明るい表情を見せて喜び合った。

 その光景をそっと遠巻きに窺う解呪師たちは、呆然と口零す。

「……何という御業みわざなのだ」

「見事としか言いようがありませんね」

 やはり実感せずにはいられなかった。これが異端にして異彩キャンベルの、揺るぎない解呪の技術。己と同じ目を持たぬ者が、新たな余地を、可能性を生むのだと知らしめる。

「我々の技術で及ばぬ力は、異端――つまり正道の外れにこそ、転がっているのやもしれない」


 リーンは穏やかに、けれどほのかに頬を喜色で染めつつ、はしゃぎ声を上げた。

「すごい、皆、解呪出来たのね!」

「んふふん。あたしたちキャンベル家が力を合わせたら、こんな呪いお茶の子さいさいなのよ」

 プリムローズが調子に乗りながら胸を張ったが、ヨークラインは顔をしかめたままだ。

「だが、まだ重症患者の解呪が残っている。マーガレット、薬剤投与の制限時間は?」

 思い出したようにマーガレットが壁時計を見た。苦々しく顔を歪めていく。

「いけない、一時間切ってるわね……。――ドクター!」

 高らかに呼びかけると、治療場のデスクで報告をまとめる医師が「はい、何か」と応じた。

遊撃鳥リベラルバードの進捗状況はどうなっているかしら?」

「薬剤を回収し、七大都市から再び飛び立っていったとの報告は来ています。それ以降は、まだ何も……」

「ああもう、何をちんたらしているのよ、あのキリギリス」

 苛立ちを表に現す少女に、医師は申し訳なさそうに告げた。

「上空を横断するのを目撃したら知らせてほしいと、他の街に触れ回ってはいますが、彼らはハヤブサと同等、もしくはそれ以上の迅速な飛翔が可能です。人の目で追うのは容易くなく……」

 傾く陽はそろそろ山脈の背後へ潜ろうとしている。この世の終わりまで続く普遍現象が、今だけは残酷な予感をほのめかす。

 間に合わない可能性を予測し始めた少女は、険しい表情で次の手を打とうとする。

「悠長に待つのはもう飽き飽きだわ。プリム、もう一度いける?」

「うん……だいじょぶ。問題なしなしよ」

 勇んだ顔つきで応じる妹のかすかなためらいを、ヨークラインは見逃さなかった。

「待て、プリムローズを酷使するな。彼女の負担を考えろ」

「にいちゃま、言ってる場合? あたしはへっちゃらなのよ」

 兄の警告を無視し、プリムローズが解呪符ソーサラーコードに再び手を伸ばす。けれどジョシュアが優しく肩を抑えて留めた。

「プリム、それなら僕の力を使ってからだ。やたらめったらにマナを外へ送り出してはいけない」

「だめよ、これ以上は。きっと、ジョシュアちゃんのマナをすっからかんにする。そんなのは、絶対にいや」

 幼い少女は向き直って毅然と訴えるが、ジョシュアは穏やかに言い返す。

「それこそ、言っている場合かい? 僕の役目は君たちに惜しみなく捧げること。そこにためらいは要さない。始めから、ないんだよ」

「ジョシュアちゃん……。でも、でも……」

 いつになく芯強き心を口にするので、プリムローズは弱り切った。泣くのを堪えるように、小刻みにかぶりを振る。

 ヨークラインが何か思い詰めるように胸内を握った。

「……幾たびにも咲きわえたまえ。其は永遠浄土に咲き綻ぶ不朽の花――エンコード:『オール・パーパス・フラワー』」

 低い声で呟くと、柔らかな風がヨークラインの周りに舞い、硬質な前髪を揺らす。

 だが次の瞬間、胸奥に針の貫くような感覚が走った。両肩が過敏に竦み、表情も苦痛で歪む。呼応していた筈の淡い風は、たちまちに凪いでしまった。

 衝撃に堪えかねて膝をつけば、すぐ隣にいたマーガレットとリーンが慌てて声をかけてくる。

「兄さん、ちょっと、大丈夫!?」

「ヨッカ、だめよ。心臓に呪いがあるのに、無理をしては」

 リーンがおろおろと呼びかける台詞に、マーガレットは瞠目した。聞こえない声でひっそり口零す。

「……心臓に呪い、ですって?」

 

 カツン、と甲高い靴音が一つ鳴った。鋭く響く入口へと視線が集中する。

「何を呆けているの、お前たち」

 猛り立つような一喝だった。苛烈な心を滲ませた女性――天空都市の主柱が一人、解呪師局長アルテミシアによるものだ。

 治療場の解呪師たちが真っ白な光を浴びたように、表情を輝かせる。

「アルテミシア様!」

「局長、よくぞお戻りに……!」

 アルテミシアは凛然と靴を踏み鳴らし、寝台に横たわる重症患者へと歩み寄った。息をひとつ軽く吸い、己の右手を患者の胸に当てる。

「この手は神に倣いし浄化の御業。苦しみよ、裏返れ。歪みよ、組み直れ。絡まる苦難を解きたまえ」

 淡き解呪の光が、全身を包んでいく。柔く優しい心地が胸に満たされ、術を施された患者は、ようやくといった安堵の表情を浮かべて涙を流す。

 他の数多の患者の縋りつくような眼差しを捉え、アルテミシアは応えるように頷いた。続けて周囲に向けて盛大に吼える。

「手をこまねく猶予があるなら、一つでもしがらみを解きなさい。わたくしたちに与えられた尊き使命を果たしなさい!」

「は、はいっ!」

 瞬く間に背筋を伸ばした解呪師たちは、一斉に己の持ち場に戻っていく。アルテミシアに倣って解呪の作法を取り始めた。

「要領の分からぬところはわたくしが指導する。順々に回っていくから各自、己の仕事で出来ることを全うするように」

 患者を治癒し終えたアルテミシアは、室内を周回しながら触れ回っていく。そして、うずくまるヨークラインの傍らで歩みを止めた。

「キャンベル。我々の不手際に手を添えてくれたお前たちの誠意、しかと汲み取った。だが、この場はわたくしたちが受け持つ」

「しかし……」

 激痛は消え、ヨークラインは立ち上がる。まだ出来ることがあると訴えようとするが、アルテミシアはその肩に手を寄せ、ひっそり耳打ちした。

「異端らしくありたいならば、今は大人しくなさい。お前の奥儀を、これ以上容易く誰かの目に触れさせてはならぬ」

 少々目を見張るヨークラインから、アルテミシアは事もなげに離れた。憮然とした表情で腕を組み、再び青年を見据えた。

「なれど、お前にしてもらいたいことがある。猊下の――」

「たっ、大変です!」

 外から駆け付けてきたのは、一人の青ざめた兵鳥バードだった。入口から、室外を怯えるように見つつ、しどろもどろに告げる。

「枢機部が……枢機部の中から……! うわあ、来るなあ!」

 間近に忍び寄る何かを阻むために、腰元のナイフに手を伸ばそうとする。

 瞬発的に飛び出してきたのは、鮮血のように明々と輝く一匹の蛇。獰猛な勢いで、兵鳥バードの首筋に噛み付いた。



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