第22話 夏 天空都市Ⅸ

 


 治療室の大部屋では、ホーソンが運んできた薬剤の投与が行われていた。症状の重い者から順々に投与されていく。近隣の街から駆け付けた解呪師の数名も、軽症患者への解呪を施していく。僅かながらではあるが、状況は望みある方へ転がり始めた。

 しかし、陽光も西の方角へ規則正しく進んでいく。じりじりと、空の澄んだ蒼が淡いクリーム色へと姿を変えつつあった。

 喧噪の大きい大部屋から一つ隔てた奥間は、ひっそりと静まり返っていた。窓辺近くの台座に座るキャンベル姉妹は、じっと睨みつけるようにして、硝子越しの空の色彩を窺っていた。その色味に惹きつけられたのか、プリムローズがぽつりと言い零した。

「ジョシュアちゃんのレモンカードが食べたい……」

「呑気ねえ」

「だってお腹ぺこぺこ。ねえちゃまだってそうでしょ?」

「緊張で腹の虫は鳴りを潜めちゃったわ」

 膝を抱えたマーガレットは、小さくぼやく。

「やれるだけのことはやったつもりよ。後は飛び立っていった彼らを信じて待つだけ。……でも、時間の縛りがあると思うと、ね」

「待てば海路の日和ありって言うのよ。少しくらいおやつの妄想したって罰は当たらないのよ」

 楽天的がすぎる物言いだと、マーガレットは冷ややかに顔をしかめた。

「良くもまあ肝が据わってること。まったく、その図太さ、一体誰に似たのかしら」

「少なくとも、メグねえちゃまじゃあないことは確かなのよ」

 淡々と言い返す妹から、マーガレットは面白くなさそうに視線を外した。そのまま天を仰いで、背筋を後方へ伸びやかに反らした。

「あーあ、あたしたち、てんでバラバラよね。思うことも、やれることも、気質や素質だって」

「見た目だってそうなのよ。ちっとも全然似てないのよ。だからって、メグねえちゃまみたいなきんきらきんの目潰し女になるのはちょっといや」

「あーら、あたしだってあんたみたいな合成着色料を染み込ませたコットンキャンディさながらの色味は御免よ」

「ひどい、この夜光虫が」

「どっちが、このコチニール色素め」

 とりとめのない口喧嘩を交わした姉妹は、今度こそ気の抜けたようなため息を同時に吐いた。

「……でも、そうね。てんでバラバラで似てないし、食い違う。だからこそあたしたちは、キャンベル姉妹たりえてるんだわ」

「……そうかも。きっと、あたしたちはでこぼこでよろしくやってればいいのよ」


 マーガレットは初めて気付いたという風に、自身の腹部を軽く押さえた。

「よくよく考えたら、あたしたちお昼にジェラート食べたっきりね。この際、湿気たクラッカーでもいいわ、何か口に入れるものを……」

 きょろりと首を動かせば、何処からともなく少女たちの鼻先を掠めるものがあった。バターと砂糖の交わるふくよかな香り。少女たちに良く馴染む、ささやかでこの上ない幸福の匂いだった。誘われるように部屋の入り口へと振り向けば、穏やかに微笑むジョシュアの姿があった。両手の中のトレイには、焼き菓子が山のように積まれている。

「お待たせしたね、レディたち。クイックブレッドですまないけれど、是非召し上がっておくれ」

「ジョシュアちゃん!」

 プリムローズがふらつきながらも一目散に駆け寄った。懐へ突進されたジョシュアは、トレイを持つ手を器用に抱え直し、空いた片手で幼い少女の頭を優しく撫でた。

 一歩遅れてマーガレットがゆっくりと傍らに寄って来た。焼き菓子のトレイを受け取りつつも、悔やんだ表情で告げる。

「悪いわね、ジョシュ。御覧の通りの緊急事態よ。あたしの支援だけじゃ力不足。プリムもヨーク兄さんすらも、もうボロボロ」

「話はヨークから手短に聞いたよ。プリムも、ここまで良く踏ん張ったね。気付いてあげられなくてごめんよ」

 ジョシュアにしがみ付くプリムローズは顔を埋めたまま、かぶりを振った。

「ううん、ジョシュアちゃんのせいじゃないわ。……あたし、大丈夫だと思ったの。心配も迷惑もかけたくなかったの」

「心優しいレディ、僕をおもんぱかってくれるその気持ちだけで構わないのさ」

 ジョシュアは安心させるように慈愛の言葉を繰り返し、そして捧げるように請う。

「だからどうか、僕を役立てておくれ」

「……うん。ほんとうにごめんね、ありがとね、ジョシュアちゃん」

 すんと小さく鼻をすすったプリムローズがジョシュアから僅かに離れて、その顔を仰ぎ見る。やがて切実に呼びかけた。

「ちょうだい」

「いくらでも」

 ジョシュアは取り出した解呪符ソーサラーコードを己の口元に重ねた。被せたままで優しい声音を降らす。

「其は女神の慈悲なる涙、其の名の下に交わす愛の証――エンコード:『ミスルトー』」

 カードから唇を放したジョシュアより、砂金のような細かな発光がいくつも零れ出した。綺羅星を纏う指先を、プリムローズの口元へ運ぶ。少女は、餌を前にした獰猛な獣のような鋭い眼差しで、その色白い人差し指に容赦なく齧り付く。歯すら立てられて、血が滲むが、ジョシュアは顔色一つ変えなかった。己から発する燐光が吸い取られていく様を、ただ穏やかに見守っている。

 マーガレットはさすがに耐え難いとしかめ面になった。

「プリム、あんた、がっつきすぎ」

「メグ、構わないさ。それだけマナが不足してるんだよ」

 さらりと言うジョシュアは、じゃれる子犬を相手にするようにプリムローズの頭を撫でた。

 呼吸を求めるように唇を外したプリムローズだったが、口周りを一つぺろりと舐めて、唸る。

「まだ、足りない」

「いいよ、満ち足りるまでどうぞ」

 ジョシュアが促せば、再び指へと喰らい付いてきた。

「支援は順調か、ジョシュア」

 部屋に入って来たヨークラインが厳しい表情で投げかけた。ジョシュアは微笑みながら告げる。

「御覧の通り、全体治癒オールヒールの真っ最中さ。彼女へのお説教は少々待っておくれ」

「そうか。……マーガレット」

 淡々と呼びかけられ、マーガレットは俯きながら歯を食いしばった。

「ごめんなさい、兄さん。あたしの責任だわ。プリムの行動に歯止めが効かなかったのは、解呪符ソーサラーコードの危険性の認識不足よ。きちんと分かってくれていると思ってたけど、考えが甘かったわ」

「そうだな。プリムローズの過信を信じたくなる程に、お前は解呪符ソーサラーコードに対して肩入れがすぎる」

「そうね、反省してるわ。……まるで魔法でも起こしている気分だったけれど、あたしの技術はハサミと同等なのよね。使い方次第では、上手く切れない愚かな道具に成り下がるわ」

 落ち込むマーガレットに向けて、ヨークラインはため息をついて声を少し和らげた。

「俺のように、素養がある者だけに限定された力を、万人に扱えるようにしただけでも上々なんだ。功に急ぐ開発は、お前の聡明な目を曇らせる。気を付けてくれ」

「ええ、本当にごめんなさい。……やっぱりコードは、誰も彼も易々と使えるものじゃあないのね」

 マーガレットは、手元のポシェットから解呪符ソーサラーコードを一枚取り出した。愛おしそうにゆっくりなぞる。

「植物や鉱物、この世界に自然と存在するものは、安定したエネルギーだから体内のマナを変換させやすい。でも作成には元の素材が必要になる。それに頼ってばかりでは、兄さんのような劇的な力には決して届かないわ」

「コードは素養がなければ使えない。裏返せば、素養さえあれば誰にでも使えるということだ。別の素養ベースを自ら作り出したお前の発案は確かに悪くない。だが、コードそのものは俺にも未知な部分が多々ある。不明瞭なソースをそのまま落とし込む方法は危うい。それでもお前はコードを要とした開発を続けたいのか」

「兄さんが許してくれる限りはね。プリムの負担を省いて考えるなら、不可能じゃない筈なのよ。あたしたち人間だって、この世に生まれた一つの存在なのだから。存在を許されたあたしたちだけが使えるもの――言葉コードを、世界でふるえる力に換えてみせたいのよ」

「まるで呪文のようにか。……コードとて、決して万能な力ではないのだぞ」

「万能に見えるだけ、なんでしょ。今度こそ、重々承知しているつもりだわ」

 ヨークラインの説教が日常的な響きになったところで、マーガレットも肩をすくめて応酬を手短に切り上げる。

 ぷはっと声を上げて、プリムローズがジョシュアの指先から唇を放した。今度こそ、その口元に不敵な笑みが悠々と描かれる。

「んふふふふ、復っ活……ッ!」

「やあ、レディ。元気になって何より」

「ジョシュアちゃんのおかげよ、ありがとね!」

 プリムローズが軽快に飛び跳ね、かがむジョシュアの頬にキスを送った。

「エネルギー満タン! これなら誰にでもどれだけでも、解呪し放題なのよ! あたしの本領発揮を見せつけるのよ!」

「今度はガス欠になる前に、ちゃんと言うのよ。いいわね?」

 マーガレットが念のためにと釘を刺しつつも、期待の笑みを浮かべた。

「ひとまず軽症者の解呪は、プリムだけで何とかいけそうね。重症患者へ投与する薬剤は、遊撃鳥リベラルバードに頼んで運び込みしている最中なの。タイムリミットは日暮れまで。ヨーク兄さんも呪いにかかったんでしょ、一応ジョシュの全体治癒オールヒールを受けて。この呪い、異常なまでにタチが悪いわ」

「俺は大丈夫だ、治っている。ジョシュアの支援は全てプリムローズに回してくれ」

 ヨークラインはふと気付いて辺りを見回した。

「……リーン=リリー、彼女はどうした?」

 マーガレットは少し気まずい表情を浮かべる。

「あー……ちょっと別行動。少しばかりお転婆が目立ってね、観光区の空中庭園で大人しくお留守番してもらっているわ」

「お転婆? 空中庭園? ……何かやらかしたのか」

「ゴホン、また後できちんと報告するわ。呪いテロに比べれば些細なことよ」

 内心おっかない少女は、あえて軽い口調で告げて、話題を切り上げるように室内の置時計を見やった。

「キャンベル家は無事に全員集合出来たし、もう呼び寄せても構わないわね。お友達とも、ゆっくりお茶出来たんじゃないかしら」

「友達? 彼女のか?」

「ええ、孤児院の仲良しさんみたいで……って、痛っ! 何すんのプリム!」

「ねえちゃまのおしゃべり」

 脛を蹴られて涙目になったマーガレットだったが、妹から白い目で睨まれて、しくじった口元を手で押さえた。

「いっけない、内緒だったんだ……」

「友人と会うのに、何故俺に内緒にする必要がある」

 ヨークラインの口調が途端に厳しくなり、マーガレットはたじろいでしまう。

「し、知らないわよ。本人たっての希望なんだから。人目をはばかるような内緒のカンケイなんじゃないの?」

「ねえちゃまのテキトーなデバガメ文句は、嬢ちゃまにちょっと失礼なのよ」

 つい毒づいたプリムローズだったが、ヨークラインに向き直って静かに呼びかけた。

「あのね、にいちゃま。その子から嬢ちゃま宛でお手紙来てたんだけど、見てなかった?」

「ポストの確認はお前に任せてるから、一々把握していない。手紙の主は、どういった名だ」

「エミリー・スノーレットよ」

 ヨークラインが雷に打たれたように身を硬直させた。驚愕で瞬く眼の色は、滅多に見せない畏怖の入り混じるもの。

「スノーレット……。――くそ、ミスター・カムデンの噂通りだったとでもいうのか!」

 思わず悪態をついたヨークラインは、部屋の隅に駆け寄ってマーガレットのトランクを豪快に開けた。その中にある解呪符ソーサラーコードをいくつか選び取り、カードケースに手早く仕舞い込んでいく。

 マーガレットが困惑気味に呼びかけた。

「兄さん? ちょっと勝手に何を……」

「悪いが少し拝借する。リーン=リリーを迎えに行く」

「は!? たかがお迎えに何でそんな一式勢揃い……」

「念のためだ。治療場は一先ずお前たちに任せた。プリムローズ、いけるか?」

 プリムローズは胸を張って得意そうに頷いた。

「存分に任せてほしいのよ。汚名返上にはとびっきりの舞台なのよ!」

「すまない、頼んだ。見つけたらすぐに戻る」

 兄の必死な形相がいまいち腑に落ちないと、マーガレットは重ねて問うた。

「何をそんなに慌てているの。エミリーちゃんが何だってのよ。兄さんの知り合いなの?」

 しゃんと立ち上がったヨークラインはカードケースを懐に仕舞いつつ、苦々しい表情で告げる。

「俺の知り合いであるならば、天空都市の特別顧問官、エメラルダ=ユリアン・アランシア・ノーム・スノーレット枢機卿のことで間違いない」

「うええ、何その長ったらしいフルネーム。良く覚えていられるわね」

「俺の監督者だからな、彼女は!」


 部屋から飛び出していったヨークラインを見送りながら、マーガレットは呆然と口零す。

「……うそ。つまり、我がキャンベルの支援者ってことでしょ? あの子、どういったツテでそんなお偉いさんとお友達に……」

「因縁めいたものがあるよねえ。ヨークの内心を思うと、気が気でないよ」

 台詞の割にはのんびりとした口調のジョシュアである。マーガレットは彼に向けて不服そうに口をすぼめた。

「……兄さんの秘密主義はいつものことだけれど、ジョシュには少し打ち明けてくれるのね。なんか、ずるいわ」

 ジョシュアは悠然と微笑んだ。

「僕はガス抜きしてるだけだよ。ヨークは色々背負い込むものが多いからね、その分溜め込みやすい。でもレディたちには堂々と振舞っていたいのさ」

「はん、取るに足らない見栄ね。そんなものオーブンにでも突っ込んで消し炭にすればいいんだわ」

「ねえちゃまの思考回路は、やっぱり切り込み隊長じみてておっかないのよ」

 姉の手荒な物言いに、プリムローズはやはり毒づかずにはいられなかった。





 

 天空都市の外れに位置する小さな塔があった。枢機部の長い回廊を辿り、人目を避けるようにして建立するひっそりとした隠れ住まいである。外の石壁は所々に蔦が張り巡らされ、煤けた灰色は遥かな年月を重ねて風化したのだと思わせた。

 白亜と薄紅で彩られる華やかな街中とはかけ離れていて、何処となく足を踏み入れるにはためらう気配が潜めている。

 客間のテーブルには、魔術師マグスの要望通りに軽食と茶菓子が準備された。川魚のフリッターとローストビーフサンドを手づかみで頬張る魔術師マグスの隣で、エミリーは丁寧な手付きで白い磁器に紅茶を注いでいく。少しのミルクを垂らしてから、静かに俯くリーンの目の前に置いた。

「キャンベル家での暮らしはどうですか? 不自由な思いはしていませんか?」

 リーンはゆっくりとかぶりを振って沈黙を破る。

「ううん、ちっともそんなこと。毎日穏やかで、でもとっても賑やかだし、皆、とても優しくて、ヨッカもいてくれて、……今までがまるで嘘みたいに、夢の中のようなの」

 そう言って紅茶の中に角砂糖を一つ入れた。淡い乳白の中でほろりと形崩れていく様を、憂いの面立ちで見守っている。

 エミリーはふんわりと目を細めた。

「それなら安心ですね。やはりキャンベルへ寄越したのは、正解でした」

「キャンベル家は解呪師……呪いを解くのを生業にしている家だったわ。エミリーと一緒で」

「そうですね。その関係上、ヨークラインとは面識があります」

 リーンはようやく顔を上げ、張り詰めた面差しでエミリーを見やった。

「天空都市の慈善事業の一環で、ヨッカは私を引き取ってくれたと聞いているわ。……エミリーの計らいだったの?」

「ええ。けれど、あなた以外にもリストアップされた方はいましたので、ヨークラインが誰を選び取るのかは定かではありませんでしたが」

「……そうなの。じゃあ、エミリーにお願いされたわけじゃないのね。だったらどうして……」

 リーンはがっかりしたように肩をしぼませた。エミリーは微笑みながらゆっくりと呼びかける。

「リーンさん?」

「ううん、何でもないわ。……ただ、ヨッカは、私を引き取ったことを後悔してるんじゃないかって思ってしまうの」

「どうしてそう思うのですか?」

「ヨッカのこと、困らせてばかりだから。……昔のことは忘れてほしい、昔のヨッカは死んでしまったからって言っていたのに、私は昔のことを忘れられないから、ヨッカと呼びたいってわがままを言っちゃったの。本当なら私にヨッカであることも黙っていたいぐらいには、内緒にしておきたいことなのかもしれないのに。……私に色んなことを内緒にしているのは、安心して話せるぐらいに大人じゃないからだわ。メグとプリムのいたずらで、思わず家から飛び出しちゃうくらいだもの。この前だってまだまだ子供って言われちゃったし。ヨッカには呆れられてばかりで、困らせてばかりなの」

「彼が口数少ないのは誰しもに平等かと。でも、そうですか、ヨークラインの心持ちが分からなくて不安なのですね」

「……そうかも。今日のことだって、結局ヨッカに内緒にして来てしまったわ。メグとプリムには、友達と会うとだけ。言いたくないことばかりなのは、私も同じね」

「いずれお話しするつもりは?」

 考えもしなかったと、リーンは困り呆けた表情になった。

「……話せるものかしら。どうやって、伝えるものなのかしら。こんな私のことを、どうやったら嫌われずに恐がらずに、皆に伝えられるのかしら」

「あなたも解呪師として、ご自身の在り方を替えようとなさっておいでです。あなたの物の急所を見抜く能力は、解呪師として類い稀なる技術として力を発揮するもの。それを自信持ってふるえる時に、きっとお話し出来るのでは?」

「そんなこと、自信になんかならないわ。誰にだって出来ることよ、私だけの特技じゃない。私だって、から、急所が分かるようになっただけだし……」

 身を丸め込むようにして再び俯いたリーンに向けて、エミリーは穏やかな笑みのままで返す。

「お手紙を拝見して、私は良き巡り合わせだと実感しました。キャンベル家へ向かったあなたなら、きっとご自身の内に潜む呪いに打ち勝てるだろうと」

 リーンは思わずぎょっとした表情になる。

「呪い? あの、私の身体は何ともないわよ? 健康だって言われたし、そんなものかかった覚えなんか……」

「かかっていますよ。ご自分のことはおろか、幼い時のように、ヨークラインを信じ切れておりませんでしょう?」

 エミリーがくすりと一層儚く笑みを浮かべて告げるので、リーンは絶句してしまった。


「隣で聞くにはちょっとこそばゆいんだけどさ、君ってこんな擦れっ枯らしの恋バナトークするようなヤツだっけ」

 今まで我関せずと食事をしていた魔術師マグスだったが、ようやく満たされたらしい。油の付いた指先を舐めてエミリーを見やった。

「退屈であれば無理に聴講せずとも構いませんよ。もてなしはしましたが、鑑賞会を開いた覚えはありませんので」

 エミリーから穏やかながらも注意を受け、魔術師マグスは確かにそうだと頷いた。席を立って腕を仰ぎ、気持ち良さそうに身体を伸ばす。

「水入らずのひと時の口出しは野暮ってものだよね。うん、じゃあ私はそろそろお暇するよ。ぼちぼち潮時のようだし」

「潮時、ですか」

「うん、困ったちゃんの後始末」

 魔術師マグスは心底くだらないと、下卑た笑みを浮かべている。持ち上げたその腕に、じわじわと痣が浮き上がり始めた。鮮やかに光り輝く、真っ赤な幾何学模様が描かれ始めている。身に覚えのあるその作法は、己との契約を名乗り上げた一介の解呪師のものだ。

「たかだか五、六十の齢を重ねた青大将が、千年万年生き長らえた私を絞め殺そうと言うんだ。ちゃんちゃら可笑しいったらないよね、若さ故の過ちってやつなのかな? のぼせ上がった青二才には、少々のお仕置きが必要だよね」

「なるべく消極的にお願い出来ますか? あなたの意図がどうあれ、これ以上の派手な振る舞いはお目こぼしの範疇外です」

「君のおもてなしに敬意を表して、なるべくなのは心得ようかな。美味しいお昼ごはんをごちそうさま。それと、彼女にも恩返しをしなくちゃいけない」

 魔術師マグスはリーンを嬉々と見据え、軽快に手を振った。

「じゃ、雪のお嬢さん、またそのうち会おうね」

「は、はい。いずれまた」

 少女がきょとんとしながらも頷けば、魔術師マグスは機嫌良く微笑みを浮かべて部屋から去っていく。

 足音が遠くなり、一旦静寂に戻ったところでリーンはおずおずと口に出す。

「あの、良く分からないのだけれど、大丈夫なの?」

「あの方には心配は無用です。本人も仰っていたでしょう、千年万年生きていると。それだけ生き汚いということです」

「そ、そう……」

 エミリーの辛辣な物言いからして、やはり一筋縄ではいかない人物らしいことに気付き始めたリーンではあった。本人からも訳ありの流れ者、人でなしだと自己紹介されている。易々と関わって良かったのだろうかと、リーンはどんどん不安に駆られてきてしまった。

「……恩返しって、何をするのかしら?」

 エミリーは僅かなため息と共に、少しだけ言葉の色を重くする。

「分かりませんが、なるべくこれ以上の犠牲者を生まないことを願うばかりですね。仔細は不明ですが、何か目的をもって人々に呪いをかけているようですから」

「え……、………………え!?」

 リーンは一瞬物を呑み込めないように黙り、しばらくの後にようやく叫んだ。混乱する思考のまま、言葉を思いつくままに垂れ流す。

「えっ、あの、もしかして、あの人って、食堂でメグやプリムたちが今、一生懸命解呪をしてて、でも私、置いてきぼりにされて、でも、私、あの人を手当てしちゃって、でもその人って食堂を……」

「ふふ、そうですね。食堂内はおろか、枢機部内までも呪った人非人にんぴにんです。あなたは偶然にも、弱った魔術師マグスに解呪を施してしまったようで」

 エミリーがとうとう困ったように笑いかけるので、リーンは二度にも渡って絶句してしまった。







 なるべく荒立てた足取りにならないように、ヨークラインは回廊を進んでいく。勇んで駆け出してしまいたいが、枢機部での無作法な振る舞いは御法度なのだ。取り分けて奥間は異端者を不躾な目で見やる者が多い。余計な波風を起こすのはヨークラインの本意ではなかった。

 曲がり角に差し掛かり、右へ曲がろうとしたところで途端に身を翻した。陰になる壁に身を寄せ、角の向こう側をそっと窺う。回廊の奥に佇むのは、黒衣の装束を纏った奇怪な立ち姿。枢機部を呪った術師に違いなかった。


 薄暗く冷ややかな回廊をのんびりと歩く魔術師マグスは、外の風が吹き抜ける位置で立ち止まった。見晴らし良く眺められる端に腰を下ろし、黒い袖から己の両腕を晒した。腕全体に及ぶのは、赤い痣の幾何学模様。身体の内側から壊死していくよう組み込まれた呪いだった。すでに体内には諸器官を食い潰さんとするような気配に満ち満ちている。身の隅々まで広がり続ける模様は、とうとう顔面の鼻先にまで辿り着いた。それでも魔術師マグスは、悠然とケタケタ笑う。

「この短時間で、さすがは最高法師。のぼせ上がることだけはあるのかな。でもね、所詮は青二才なんだもの。そんな薄っぺらい人生で、世界の何もかもを見渡したつもりかい?」

 魔術師マグスは右手人差し指を恭しく宙に伸ばし、そしてその切っ先で己の瞼をくるくるとなぞった。続けて素早く呪文を唱える。

「『パスリセージ・ロズマリアンタイン、これは涸れ果てた古井戸水、土砂降りの村時雨むらしぐれを君に』!」

 魔術師マグスの両腕の真っ赤な痣が、たちまちうぞうぞと蠢き始めた。刹那、黒い装束の内より勇み良く飛び出してきたのは、数多の赤い蛇だった。滝水のように激しく流れ出し、回廊の窓辺から外へと向かっていく。真っ赤な大群は意図を持っているのか、外壁を這って何処かへ猛然と突き進んでいった。

「はー、すっきりさっぱり」

 全身の痣は消え、魔術師マグスは清々したと身体の節々をこきこき鳴らした。腰に手を当てて、辺りを見回しながらぼやく。

「さあて、これからどうしよう。今回も収穫の見込みは薄そうだし、ほとぼりが冷めるまであの子のところでお昼寝でもしてよっかなあ……」

「今の呪術は、何処へ向かった」

 青年の低く張り詰めた声で問いかけられて、魔術師マグスは後方へ振り向いた。回廊の陰から姿を現したヨークラインをその目に捉え、一瞬思案してから思い出したと声を上げる。

「君は……そうだ、君は確か、猊下の目の上のタンコブ!」

 アークォンから呪い殺すよう依頼された、その標的である若き解呪師。大勢の集う議会開催を隠れ蓑にし、標的対象を曖昧にさせて事に及ぶよう指示されていた。

 ただ、本来の目的成就のために、最高法師共々枢機部全体を巻き込んで大虐殺を図ってみせた。その筈だったのだが。

 訝しげにする魔術師マグスは、青年をまじまじと見やった。

「どういう訳なのかな。君、さっき呪い殺したつもりだったんだけど」

 ヨークラインは後ろ手に解呪符ソーサラーコードを潜ませつつ、一歩ずつ足を前へ進ませる。

「生憎だが、生き延びた。貴様は大人しく囚われろ。大勢の者の命を狙った罪は重い」

 魔術師マグスは心から驚嘆したようだった。肩を上げ下げし、ゆっくりと瞠目する。

「へえ、そう、生き残ったんだ。……そいつは、またとない僥倖だ」

 薄い色味の口元に、歓喜を隠し切れない深々とした笑みが浮かぶ。意図の分からぬ言動に、ヨークラインは不可解だと眉間にしわを寄せた。

 気の抜けたようなため息を零した魔術師マグスは、改めて興じる視線を青年に送った。

「それじゃあ君は殺せないね。お詫びに猊下は私の方で処分しておくからさ、安心して」

 愛想良く片目を瞑ってみせても突拍子もない台詞に違いなく、ヨークラインはつい声を荒立てる。

「馬鹿を言うな! 詫びのつもりならば飛んだ見当違いだ。貴様の蛮行の大義名分になる腹積もりなど、微塵もないッ!」

「馬鹿げてるかい? 私だって猊下に呪い殺されそうになったのに? 今の化け物を見ただろう、あんなものを平気で扱うんだ。見下げ果てた解呪師の、お粗末な末路ってものさ」

 侮蔑の表情で魔術師マグスから投げかけられ、ヨークラインは先だっての赤蛇の群を思い返す。絢爛なまでに明々としていたが、肌の泡立つような邪気に塗れていた。失意半分、苦々しそうに確証を口に出す。

「……先程の術は、呪詛返しか」

「まあね。だってそうじゃないか。心打つ恩義には、花々しき祝福を。反吐の出る害意には、禍々しき呪いを。それがこの世界の道理だろう?」

「だが、貴様が議会で施した呪いは、完全なる私欲だろう。何が狙いだ」

「えへ、さすがに誤魔化されないか。……そうだね、君には言っておこうか。私はね、金の林檎を探しているんだよ」

 動揺を決して出すまいと、ヨークラインは眉間を歪にひそめる程度に留めた。その果実が指し示すものは、日頃から頑なに己を縛る、ヨークライン・ヴァン・キャンベルの最たる機密だった。

 その秘めされし実態を、奇怪な術師は果実を手に取るような仕草で揚々と述べ上げていく。

「それは特異的な解毒剤。神の娘、林檎姫メーラが王家に授けた絶対たる力。故に劇毒にも成り得るおっかないものなんだ。君は何処まで知っているのかな?」

「知らん。……何故、貴様がそれを必要としている」

「そりゃあそれを治療薬エリクシールにしたいからだよ。だからね、君には期待してるよ」

 魔術師マグスの回りから、霧のようなもやが噴出し始めた。

「逃がすか!」

 舌打ちしたヨークラインは後ろ手にあった解呪符ソーサラーコードをかざして叫ぶ。

「其は天より課せられし苦難の茨――エンコード:『ソーン・バーネット』!」

 カードから飛び出した蔦が縦横に絡まり、形作られた網の目が魔術師マグスに覆い被さろうする。けれど蔓網は、虚空のみを捕えて床に落ちるだけ。その上で、優に佇むままの黒衣がおぼろに霞んだ。霧に滲んで透けてしまいそうな、その淡い硝子細工の面差しは、より繊細に、いつくしむように微笑みかける。

「じゃあね、キャンベルの若様。君の内なる豊穣を、心から乞い願おう」

 突風が吹き荒れて濃霧が辺り一面を満たした。数秒の後には呆気なく消え失せ、渡り廊下には蒼白のヨークラインだけが取り残される。

 青年は、憤るように拳を握り締めた。その手を胸部に添え、確固たる意志を今一度確かめるように、力強く唸る。

「……芽吹かせてなるものか」

 そして振り切るように背を向け、回廊の奥へと足早く歩を進めていった。彼の宿命たる、一人の少女を迎えに行くために。



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