第27話 夏 天空都市ⅩⅣ



 灯火が、硝子ランプの中で揺れている。鈴蘭の花をモチーフにした年代物だ。石壁に点々と配置され、同じデザインの卓上ランプが座卓にも置かれている。木製の卓は焦げたようなカラメル色で、行き届いた手入れにより光沢を放つまで磨かれているが、これも年季の入ったものだ。

 古びたものばかり調度品は、枢機部の外れに位置する古い塔の中では、落ち着いた色合いとなってとても良く馴染んでいた。家主と共に、ひっそりと長い時を過ごしている。

 色鮮やかなものと言えば、古びた鼠色の石壁に垂れ下がる飾り幕だ。蔓草と小花模様の刺繍で彩られる長い垂れ幕。それと似た風合いのキルト地が石床に敷かれているが、こちらは落ち着く質素な色目だった。

 詰めた綿の柔らかな感触を両脚に感じながら、マーガレットは敷物に広がる亜麻色の幾何学模様をじっと見ていた。プリムローズが時折あつらえる華やかな手刺繍もなかなかのものだが、こちらは素朴ながらも一針ずつの丁寧な仕事ぶりが窺えた。

「手慰みにこしらえたものです。普段は時間を持て余していますから」

 部屋の主が控えめな声を発した。愛らしい少女の、けれど砂の入り混じるようなざらついた声音。色素の薄い砂色の、たっぷりとした二つ結いの髪。それと同色の淡々たる眼差し。真っ直ぐに見つめられると、胸の鼓動が不穏当に揺らぐ気がしてならない。

 見た目はリーンとプリムローズの合間ぐらいの年頃として映る。つぼみが柔らかく膨らみ始める寸前の、それでいてそれを悠久に保ち続けようと、氷結晶で冷え固められたような陰のある風貌。

 ――一体いくつなのかしら。野次馬根性を抑えきれないマーガレットは、つい思考の奥で値踏みしてしまう。

 ティーセットの揃うトレイが卓上に置かれる音がして、ようやく慌てて硬い笑みを取り繕った。

「貴族のご婦人方が、言い値を振りまくぐらいには価値があると思いますわ」

「ねえちゃまの、その損得勘定な浅見はいかがなものかと思いますのよ」

 温かな紅茶を行儀良く飲むプリムローズが横槍を入れると、マーガレットは横目で睨んだ。

「いちいち茶々入れるんじゃないわよ。こちとら充分に褒めてるつもりなんだから」

「褒めてるつもりなら、素敵とかかわいいとか、ささやかでも自分の感想でいいと思うのよ」

「メグは緊張しいだからね。多少から回ってしまうのは仕方のないことさ」

 隣のジョシュアから援護ともからかいとも捉えられる言葉を受けて、マーガレットは気恥ずかしそうに咳払いした。

 それを座卓の向こう側から覗き込むエミリーは、くすりと僅かな笑みを零す。紅茶をカップに注ぎ、マーガレットの手元近くに置いた。

「そこまで緊張なさらないでください。リーンさんからあなたたちのお話を聞いて、ゆっくりおしゃべり出来ればと思っていたのですよ」

「……光栄です。あたしも気になっていましたから。あの子の内緒のお友達、エミリーちゃんが、まさかノーム・スノーレット卿だったとは……」

「ねえちゃま、前からお名前ぐらいは知ってたでしょ? 少しでも勘付けなかったの?」

「同名の他人なんていくらでもいるもんでしょ」

 またも妹から呆れ気味に突っ込まれるも、マーガレットは開き直り、入れたての紅茶を優雅な所作で口に含んだ。

「エミリーで構いませんよ。リーンさんにもそうお願いしています。私は少し長生きしているだけの、ただの一介の解呪師ですから」

「じゃあ遠慮なくそうさせてもらうのよ、エミリーちゃま」

 プリムローズがにんまりと笑みを浮かべたが、マーガレットは気難しそうな表情で肩をすくめた。

「あたしは遠慮させていただくわ。我がキャンベルの支援を買っていただいてるのは、明白な事実。何か粗相があってはいけないの、そう自分を戒めるためにね。ま、一番は、ヨーク兄さんに『枢機卿相手に馴れ馴れしい口叩くな』って説教されるのが、単純にめんどくさい」

「にいちゃまなら、絶対言いそう」

「……兄さん、大丈夫かしらね」

 背後を向いたマーガレットは、部屋の奥にある半開きの扉に目をやった。その向こうの寝室には、体力の尽き果てたヨークラインが気を失うようにして眠っている。傍らでは、少女が一人、ずっと付き添っていた。

「嬢ちゃまが傍にいるもの。問題なしなしよ」

 あっさり告げるプリムローズは、座卓に置かれたミートパイを口に放り込んだ。途端に目を輝かせ、その大口に、また一つ二つとするする入っていく。それを微笑ましく見守るジョシュアも、手元の子魚のフリッターに手を付けた。冷めてはいたが、カリッとした歯触りと香ばしさは格別だった。妹の食べっぷりに煽られて、ローストビーフサンドにかぶり付いたマーガレットも満悦の表情を見せる。何はともあれ、三人共、腹はひどく減っていた。

 食事を勢い良く貪るキャンベル家に、エミリーは穏やかな声をかける。

「今宵はここで休息なさってください。宿の方にはこちらから使いを出しておきます」

「お気遣い感謝します、レディ・スノーレット。恐れ入りますが、フラウベリーの方にもお願いしても? あちらに置いてきぼりの兵鳥バードが、今か今かと吉報を待っている筈だから」

 ジョシュアの申し出にも、エミリーは快く頷いてくれた。

「それくらい訳ありません。この街の危難に立ち向かっていただいたのです。改めて、天空都市を代表してお礼を申し上げます」

 エミリーが丁寧に頭を下げると、マーガレットが苦笑で返す。

「皆がやるべきことをやれたからこそよ。あたしたちキャンベル家も、解呪師の方々も、薬を提供してくれた薬店、それを運んでくれた兵鳥バードも。立ち向かったのは、全員一緒なのよ」

 エミリーは頭をもたげると、静謐な眼差しで三人を見やった。

「それでも、キャンベル家の功績は高いです。これだけの被害が出ていて、死者が現状ゼロ人であることは、奇跡と言っても過言ではないでしょう。魔術師マグスの術は、誰しもの手に余るものですから」

 プリムローズが途端に眉をひそめた。口の中身を一度ごくんを飲み込んでから、忌々しそうに舌打ちする。

「あの古ぼけ天外魔、狙いが度し難いのよ。人をぽっくりさせたって、精々見つかるのは己の腐った心身だっつうのよ」

 エミリーは淡々とだが、真摯に問う。

「……魔術師マグスの目的を知っているのですか?」

「金の林檎を探してるって、言ってたのよ。それを求めてる人がいるからって」

「金の林檎? サマーベリーの近くに植わってるっていう、非食用種のアレ?」

 どんな調理法でも不味いままの実を思い出し、マーガレットも片眉をひそめた。プリムローズは不機嫌そうに、「あれは違うらしい」と首を横に振る。

 エミリーが思い当たる節があるのか、一度瞬きした。

「その木は、私がヨークラインに譲った別株ですね。かつて王家の庭にあったもので、元の樹は焼け落ちてしまいましたが。――成程、魔術師マグスの狙いは、ですか」

「その食えない実が何だというのよ、エミリーちゃま」

 エミリーが考え込むように視線をずらした。卓上の鈴蘭ランプを見つめながら、ひっそりと答える。

「金の林檎とは、あくまで喩えです。王家の宝のことを示しているのでしょう。初代の王の花嫁であった、神の娘、林檎姫メーラが生み出したものと言われています。恐らく魔術師マグスは誰かの望みで、その宝を探しているのでしょう」

「人を殺めようとまでして……さぞかし宝石以上の価値があるのでしょうね」

 皮肉を込めたマーガレットの言葉に、エミリーは頷く。

「その価値はあるかと。王家の力そのものですから。そして同時に、神の力でもある。人の技では絶対に及ばぬ神の御業みわざ。王家では、代々『林檎姫メーラの呪い』と呼んで、受け継いでおりました」

 マーガレットが目を見張ったが、不思議そうに首を傾げた。

「呪いって……神さまの力なのに?」

「呪いと言わしめる程に、その扱いには危険が伴うのです。人の身に宿るエネルギーが増幅され、神と同等の能力を発揮します。ですが、代償として保有者の命を徐々に削ります。事実、王家の直系は代々短命でした。呪いの圧迫を一部取り除くために、解呪師が天空都市から派遣されていたのです」

「でも、その王家って、今は……」

「王制が解体されてからは、一族離散って話だったね」

 ジョシュアがさらりと答えると、エミリーが少し哀しそうに眉尻を下げる。

「ええ、彼らは引き離され、それぞれ遠い場所へと散り散りになりました。今となっては、行方が知れない傍系の一族も少なくありません。林檎姫メーラの呪いも、最後の王が崩御なさったと同時に王家から手放され、転々とし、今はとある場所で内々に管理されています」

 マーガレットは口元に手をやりながら、確信めいた口調で投げかける。

「スノーレット女史は、その在り処を知ってらっしゃるのね」

 エミリーは薄っすらとした微笑で返した。

「――王家のお抱え解呪師でしたから」

 プリムローズが卓上に頬杖をつき、ふくれっ面でぼやく。

「解呪師が、どうして呪いを後生大事に取っておくのか、まったくもってちんぷんかんぷんなのよ」

「元来、林檎姫メーラの呪いは神の力。天空都市は、神の力を祝福とたっとび、何より重んじるところ。呪いであろうと神の力である以上、無下に放り捨てる訳にはいかないのです」

「なーんか、解せないわねえ。ワルモノなのに手元に置いておくなんて、女史も面倒なことをしているのね」

 段々と口調が砕けてきたマーガレットへ、エミリーは気を良くしたようにくすりと微笑んだ。それでも静かな口調で告げる。

魔術師マグス林檎姫メーラの呪いを狙っているとするならば、こちらも早急に対抗手段を考えねばなりません。呪われし力を失くすために、解呪の方法を探し出さなければ」

「でも、その呪いって、神さまの呪いなんでしょう? そう簡単に解けるものなのかしら」

「分かりません。私の力量では封じるのが精一杯。……ですが、林檎姫メーラの力が未苗みびょうのままなら、呪いは進行しない」

 プリムローズが半目のまま、ふうんと頷いた。

「そんじゃあ、今ならまだ間に合うと。そんでもって、それをペラペラおしゃべりするエミリーちゃまは、あたしたちに解呪のお手伝いをしてもらいたいと」

 妹の遠慮ない物言いに、マーガレットはしかめ面した。

「あんた、良くもまあ物怖じせずに切り込めるわね」

「ねえちゃまだって気付いてるくせに。キャンベル家の支援を買って出てるのは、そういう狙いもあるからでしょ?」

「ええ。御明察に、近いです」

「近いって何なのよ」

 ふくれっ面する幼い少女に向けて、エミリーは機嫌を取るように糖蜜菓子をすすめた。

「私が助力を仰ぎたいのは、もう一人いらっしゃいます。神の力、林檎姫メーラの呪いに対抗出来得る可能性を秘めた、王家に連なる一族。ガーランド家直系、神の花嫁エル・フルール

 思わず食事の手を止めるキャンベル家を見つつも、エミリーは彼ら以外の誰かに聞かせるように、声色を強めた。

「代々の彼女たちは仰っていました、これは神から授かりし力だと。そして王家は、敬愛を込めて称えました――『白百合リブランことぎ』と」

 ごとん、と床に重い音が響いた。

 キャンベルの皆が一斉に背後へ振り向くと、柔らかな布生地の上に、空っぽの水差しが転がってきた。奥間の入口に佇むリーンの手にあったものだった。抱える手付きをそのままにして、青ざめた表情でエミリーを見つめている。

 エミリーは、リーンに淡々とした笑みを向けた。

「彼は目覚めましたか?」

「……まだ、だけど。……その、起きた時に、お水がいるからと、思って……」

 たどたどしい声音は、今にも泣き出しそうに震えている。見かねたプリムローズが、少女の傍へ寄り添った。

「嬢ちゃま、どうしたの? にいちゃま、苦しそう?」

「う、ううん……ヨッカは平気よ。大丈夫……」

 リーンが弱々しくもかぶりを振るので、プリムローズは不安そうに見上げつつもそれ以上問うことはなかった。

 エミリーは立ち上がり、その仄暗く静謐な瞳で、少女をひたむきに見つめた。

「お聞きになっておりましたか?」

「こ、声、隣まで響いていたから……」

「あなたをこの街に呼び寄せたのは、元よりそれが理由なのです。ガーランド家に代々受け継がれる秘術、白百合リブランことぎ。それを用いて、林檎姫メーラの呪いを解いてもらいたいのです」





 夜天に星がまばらに散る中、仄かな月明かりを光源にして足を進めていく。目的の水汲み場は、塔の裏口から出たすぐ傍にあった。

 リーンは栓をひねり、ちょろちょろと流れ出る水を水差しへと注いでいく。玉のようなしぶきが手にかかるも、その爽快な冷たささえ今の少女には虚ろなものとして感じる。

 ――白百合リブラン

 数年ぶりに耳にする純潔の花の名は、あだ名のように呼ばれていたもの。かつて暮らした場所で、親しみを込められて。孤児院よりずっと多くの月日を過ごした、世界の果ての塔の中で。

(私の家には……ガーランド家には、最初から白百合リブランと呼ばれる所以ゆえんがあったんだ……。だから私は、あの『塔』で、必要とされていたんだ……)

 ヨークラインが引き取ってくれたのも、それが理由だからだろうか。ガーランド家の力を欲しているとするのなら、己をキャンベル家に召致する理由として納得出来た。

(でも、そんなもの、私は知らない。分からない……)

 水差しが満たされてしまい、溢れる清涼な水が静かに両手を覆っていく。流れ落ち行く先の、人差し指の切っ先を見つめる。『何か』の在り処を差し示すだけのこんなものしか、自分は持っていないというのに。

「少々、脅してしまったでしょうか」

 背後から唐突に声をかけられて、リーンは肩をびくつかせた。砂混じりの声には聞き覚えがあったので、ゆっくりと振り向く。

「……ううん、エミリーからちゃんと聞きたかった話だもの。私こそ、いくじなしでごめんなさい」

 つい思わず、『水汲みの途中だから』と言い訳丸出しの理由を告げて、ここまで逃げてきてしまったのだ。思い返せば、目尻がやるせない熱を持つ。

 弱々しく俯くリーンに、エミリーはゆっくりと歩み寄った。感情の見えない抑揚で告げる。

「切り出す機会が今までになかったと言えば、嘘になりましょう。ですが、これ以上の猶予はありませんので」

 水差しに視線を落としたまま、リーンは途方に暮れるような表情になっている。

「でも、その、解けるなんて思えない。林檎姫メーラの呪いなんて、恐ろしそうなものを、私なんかが。……だって、そんな方法、知らない。何ひとつ知らない。お母さんだって教えてくれなかった……」

「口伝であるかは定かではありませんが、一子相伝なのは事実です」

「エミリーは、何処まで知っているの? あなたは長生きなんだから、私よりずっと詳しい筈だわ」

 拗ねたような口振りの少女に向けるエミリーの微笑みは、相変わらず仄かで静やかだ。

「ガーランド家の女性は、神に通じる祈りを捧げられる力があります。その能力は、世界全てのものへ効果をもたらす。願えばどんなことでも叶えられる。万能オールパーパスの御業なのです」

「……魔法使いみたい」

 リーンはただぼんやりと呟いた。どうしたって、お伽話を語られているような気分にしかならなかった。

神の花嫁エル・フルールであるあなたには、その素質があるのです」

「でも、私、何も出来ないと思う。エミリーが望んでいるなら、力になりたいと思うけれど……」

「別に期待に応えていただかなくても構いません」

「えぇ?」

 思わず戸惑いの声を上げてしまった。願っておいて、期待しないという矛盾を、エミリーは何でもないことのように告げる。

「これは私の単なる願い事にすぎませんから。本来、あなたが背負うべきものではないのです」

「で、でも、聞いちゃったからには、今更聞こえないふりは無理よ。エミリーの顔を見るたびに思い出すわ」

 おろおろとしながらもリーンはもどかしそうに言葉を重ねる。

「エミリーは、孤児院で泣いてばかりいた私を辛抱強く慰めてくれたもの。だったら、今度は私が何とかしてあげたいって思うわ。 ううん、それでなくても、エミリーは私の友達だもの。自分のことみたいに、気が気でなくなるのは当然でしょう?」

 エミリーの仄かな笑みが、ふわりと柔らかくなった。

「……ありがとうございます。だからこそ、あなたは神の花嫁エル・フルールに相応しい」

「相応しいかは分からないし、力になれるかも分からないわ」

 リーンは頼りなく、けれどつられるように己の口元を綻ばせた。そして何かを考え込むように沈黙し、やがてひらめいたと両手をひとつ叩いた。無邪気な声でエミリーに投げかける。

「毎晩寝る前に祈ればいいのかしら。呪いが消えますようにって。神さまにそうお願いしたら、叶えてくれるかも」

「それもいいかもしれませんね。でも、あなたはとっくにその方法を身に着けていますよ」

 エミリーは恭しい動作で少女の右手を掬い上げた。白いほっそりとした、その人差し指だけを指し示すような形にして、己の顔中心に当ててみせる。

 きょとんとしたリーンだったが、突き付けるようなその所作には覚えがあった。

 ふと脳裏をよぎるのは、初老の男の真っ青な顔。輪郭が細やかに打ち震え、紫の腫れぼったい唇からはただ『死にたくない』と口零す。世界の終末へと浸り落ちてしまったかのような絶望を、形相の全面に押し出して。

 絶望したのはこっちなのに随分身勝手だと、ざわめく心は何を願ったか。

 嵐に塗り潰された胸奥は、男がこの手でどうなってしまうことを願ったのか?

「間一髪、でしたでしょうか」

「……ッ!」

 凍り付いたリーンとは裏腹に、薄い月影にさらされるエミリーの微笑みが殊更に深くなる。

「言ったでしょう。あなたの願いは何であれ、あなたの思う通りに叶えられます。それがたとえ、誰かを苦しめる結果になろうとも」

 ――は、確かにあなたが望まずに培ったもの。ですが、それそのものに善悪はありません。生かすも殺すも、あなたの選択次第。

 昼間に告げられたエミリーの言葉の本質を、少女はやっと思い知る。小さな手に包まれたまま、震える手指を力なく握り締めた。

「そう、その通りだわ、エミリー……」

 エミリーの淡々とした眼差しに、やがて冴え冴えとした光がほのめき始める。

「祈りは尊いもの。ですが、時に人を縛ります。善悪を識別しない力なのです。そこに神も人も関係ありません。力はただ力として、信じる分だけ、思い込む分だけ、その人の真実となり、運命となります。その大いなる力は、この世界において人だけが使えるすべです」

「人だけが使える……」

「あなたの真心を信じています。昏い囁きに耳を傾けず、あなたの心が呼応する、愛するもののために使ってください」

 エミリーは抱えたままのリーンの右手を強く握り締め、己の額に寄せる。それは、どうかどうかと祈り捧げる姿と似ていたが、唇から零れるのはあまりに怜悧で酷薄な音色。

「人の祈りほど運命を捻じ曲げる術法はないと思いなさい。その力を、人は『呪い』と呼ぶのです」





 リーンが水差しを抱えて客間に戻ると、部屋の灯りが一つを残して全て消えていた。

 部屋の隅ではキャンベル姉妹とジョシュアが眠りに落ちていた。柔らかなキルト地の寝心地が良いのか、酷く疲れているのか、少女の足音にも気付かない程にぐっすり寝入っている。穏やかな寝息を立てる三人に、ほっとした気持ちになりながら、傍にあった薄手の毛布をかける。

 奥間から、カタンと物音が鳴った。リーンはなるべく足音を立てないように、小走りで向かっていく。

 寝室ではヨークラインが身を起こしてた。寝台に腰掛け、胸内に手を置いてじっとしていたが、やがてほうと小さな息をつく。

 リーンはひっそりと、明るい声音で呼びかけた。

「ヨッカ」

「……ああ、君か。ここは?」

 硬い表情の青年は、周りの風景を訝しげに見回した。ここまで運び込まれた記憶がどうにも薄いらしい。道中では、すでに気が遠くなっていたようだ。

「エミリーの塔の中よ。隣に皆もいるわ。ヨッカ、身体はどう?」

「大事ない。ゆっくり寝たからな」

「そう。……ねえねえ、喉乾いてない? お水飲む?」

 リーンは心を弾ませながら、水差しからグラスに冷たい水を注いだ。ヨークラインは小さく礼を言いながら受け取り、少しずつ口に付ける。やがて渇きを思い出したように一気に飲み干した。

「ヨッカ、お腹空いてない? エミリーの作ってくれたものがまだあるの。紅茶が欲しければ入れてくるわ」

 リーンが浮ついたように駆け出そうとするので、ヨークラインがぴしゃりと諌める。

「いらん。腹も今は減ってない。俺の身体は、寝れば大体どうとでもなる」

「そ、そう? 何か、他にいるものある?」

「必要ない。君はここで大人しくしていたまえ」

「そう……」 

 少しつまらないような気分で、リーンは寝台近くの小さな腰掛けに座った。寝入るヨークラインを見守っていた時と、同じ場所だった。

「でも、元気になって良かったわ。蛇に丸呑みされた時は、もうだめかと思っちゃったけど」

「……取り込まれた中でも、君の泣き喚く声が良く聞こえた」

「そ、そうなの? やだな、そんな大きな声だったかしら……」

 あの時は只々必死だったが、今になって自分の振る舞いが恥ずかしくなってくる。思わず俯いたが、ヨークラインはその頭に手を優しく置いた。なだめるような仕草だった。

「その声が聞こえたから、俺は出られたんだ。君には大変助けられた。感謝する」

「ヨッカ……」

 潤んだ月明かりのおかげなのかもしれない。黒曜石の冷然とした眼差しが、今は柔らかく溶けているように見えた。そんなことで、少女の心はほろりとほどけてしまう。何もかも、それだけでもう大丈夫なのだと、思えてしまう。

「ヨッカ、ごめんなさい」

 リーンが小さく目を伏せるので、ヨークラインは不思議そうに瞬きする。

「……何故謝る?」

「気付いたことがあってね。……私、ヨッカに内緒にされてることが、なんだか寂しくてたまらなかったの。だから私のことも話したくなくて、いじけてしまっていたの。まだまだ子供だって言われるのも、しょうがないの」

 ヨークラインの表情が僅かに曇ったが、何も言い返さなかった。少女の言葉に耳を傾け続ける。

「でもね、それでもいいって思ったの。ヨッカが、笑ってくれたから。昔みたいに、笑顔を見せてくれたから」

 堰き止められない寂しさを癒すには、たったそれだけで良かったのだ。何でもないことで、自分を見て、笑ってくれる。そうすれば満ち足りてしまう。

「ヨッカが言いたくないならもう聞かないし、言おうと思える時まで楽しみに待ってるわ。だからね、もっと、楽しく笑ってるヨッカが見たいの」

「……リリ」

 吐息のようなかすかな囁きは、思いがけず零れ落ちる。己の吐露に戸惑う青年は、そっと口元を覆った。

 リーンは、ただ穏やかに言い続ける。

「ねえ、ヨッカ。あなたの笑っている顔を、もっと見せてほしいわ。私子供だから、それだけでとんでもなく嬉しくて、はしゃいじゃうの。どんなことでも、どれだけのことがあっても、どうにかなっちゃいそうなの」

 少女はふわりと笑う。表情に喜びが滲み出る。

 雪化粧の肌にバラ石英の頬、アイスブルーの濡れた瞳、桃珊瑚の唇、その全てが色鮮やかに花開いていく。

 ヨークラインは自然と息を呑んだ。宵闇でも光り輝く晴れやかな微笑みを、瞳の奥へと焼き付けていく。かつてから望み、俺の宿命であるならばと、いつまでもどうしようもなく乞うてしまうもの。

 ようやくの時を経て思い知る。それは何処までもささやかで、他愛のない願いで叶うものなのだと。

 叶えるためには、少女を満たし、守り、高い所へ臨まなければならないと思い込んでいたヨークラインは、拍子抜けの気分だった。そもそも高い所とは一体何処の幻想郷だと、皮肉る心地さえ覚える。

 そんな己の頑なさを許し、受け止めてしまう心根もいつの間にやら育んで。苦々しいため息までつきたい気分でもあった。子供なのは、果たしてどちらなのだろう。

「元来、口元を緩めるのは得意ではないんだがな……」

 弱るように頭をかいたヨークラインだったが、やがて渋面の口の端を、ほんの少しだけ上向かせた。

「……それで、君が笑うのなら」



 歓びでも、涙が零れそうになるのはどうしてなのだろう。

 幼い記憶と溶け込むようにして重なっていく、困ったような優しい微笑み。かつて向けてくれたものが、変わらずここにある。

 そんなあなたがいれば他に何もいらないと、花も嵐も呼び起こす心が甘い息苦しさでいっぱいになる。満たされてしまえば、溢れるしかない。

 この感情の名を、少女はまだ定められていない。けれど思った通りのままに、言葉に乗せることは出来る。

「ありがとう、ヨッカ……大好きよ」


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