第8話 初夏 サマーベリーの呪い樹Ⅰ


 肌寒さがすっかり感じられなくなり、肌を差す陽光がほのかに強くなり始めた。

 それでもキャンベル家の屋敷内は相変わらずひんやりとしていて、居心地の良い涼しさを感じさせる。玄関ホールを通り抜ける風が、少女の黒い髪をゆるく撫でていく。滑らかな一房が、ひっそり踊るように、のびやかに舞う。頬に触れる髪をそのままに、少女は簡素な椅子に座っていた。チェストに置かれた電話機の、その傍にぴったりと身を寄せている。

 膝の上には、分厚い書物。見入るように俯く頭は、こくりこくりと船を漕いでいた。午後の緩慢な空気で誘われた睡魔に、まんまと降伏していたのだ。

 気怠い心地を一刀両断するように、少女の隣にあった電話機が突如鳴り響いた。少女は肩を跳ね上げて飛び起き、自然と膝に乗せていた本は、床に転がり落ちる。慌てて拾い上げてから、鳴り響く音に焦りつつ、受話器を取った。寝起き間もない舌足らずのまま、大きな声を張り上げる。

「ふぁい! こちらキャンベル家れす!」

『――電話はなるべく早く取りたまえ、リーン=リリー』

 耳の奥までじんわり届く、のびやかな低い声は見知った青年のもの。キャンベル家当主、ヨークラインからの電話だった。知らない人でなくて良かったと、リーンは少しだけホッとする。

「ヨッカ……。ほめんなさい、いきなり鳴ったから、ひょっとびっくりしちゃって……」

『電話は突然鳴るものだ、それを何故慌てる必要が? ……さては君、居眠りしていただろう」

 指摘する声が一段と冷淡だ。ぎくりとするリーンは、慌てて取り繕おうとする。

「そ、そんなことないわよ? 風が気持ひ良くって、ちょっとぼんにゃりはしてたけど……」

『自覚がないのか。いつになく口調がふにゃふにゃしている。その声で応対するつもりならば、君から電話番の役目を取り上げるぞ』

「ええっ、それはだめ!」

『電話は、我がキャンベルの重要な窓口の一つだ。受付である君が、まずしっかりしていないと困る』

「……ごめんなさい、ヨッカ。今度からは気を付けます……」

『ならば結構。それで俺からの用件だが、今日の視察が思いの外早く終わったので、今から戻る』

「分かりました……」

『ではな』

 説教よりもごく簡潔に用件を述べると、ヨークラインはすぐに電話を切った。受話器を元に戻したリーンは、しょんぼりと肩を下げた。キャンベル家で出来る、数少ない役割を与えられたというのに、きちんと果たせていない自分が不甲斐なかった。

「本を読んで、眠くならないようにするには、どうしたらいいのかしら……」

 電話代の隅に置いた本を手に取り、リーンはため息と共に唸った。ヨークラインから、『解呪師の基礎知識』として与えられた本である。序章からして分量が多く、分からない単語が多い。辞書も与えられたが、それを片手に読み進めるのだから、なかなか前に進まないのだ。


「誰からの電話だったの?」

 リーンの様子を見に来たのだろう、マーガレットが声をかけてきてくれた。

「ヨッカからでした。今から戻ると……。予定より早く帰って来るみたいです」

「そう。なら夕食は全員一緒ね。――あらちょっと、なにやら懐かしいもの持ってるわね」

 マーガレットがリーンの持つ本に気付いて、手に取った。

「これ、あたしが学校で使ってたやつじゃない。とっくに捨てたと思ったけど、兄さんたら、ちゃんと書斎に保管してたのね」

 本をいたずらにパラパラとめくりながら、げんなりした口調で言う。

「この本、超眠いのよ。授業中は、睡眠導入剤として良く効果を発揮したわ」

「そ、そうなの? メグも眠くなったの?」

「当たり前よ。これは知識が身についてから読まないと。今のあなたが読んでも、あんまり面白くないでしょう?」

「う、うん……」

 リーンが正直に答えると、マーガレットは本を閉じ、深く微笑みかけた。

「頑張って理解しよう、なんて思わなくていいから、少しずつ読み進めなさい。それより、ちょっと来てもらえるかしら?」



 リーンが手招かれたのは、マーガレットの自室だった。普段は立ち入り禁止と言われているのもあって、一度も踏み入れたことはなかった部屋だった。窓辺はレースのカーテンで陽が遮られており、仄かに薄暗い。

 壁には作り付けの棚があり、物珍しい植物や鉱物の標本が沢山並んでいる。

 部屋を囲むようにして存在するのは、背の高い植物。葉を広げて天井近くまで伸び上がっている。

 仕切りがしてあって良く見えないが、最奥の長細い作業机には、何かの実験器具なのかフラスコや試験管と、古びた色の書物が所せましに置かれていて、雑然としている。

 仕切りの近くには小さな書斎机があり、そこは比較的整頓された空間になっている。それでも、ここも多くの書籍が積み重なっており、柱状になったものが二つ三つとアンバランスに組み立てられていた。

 書斎机の傍の簡素な椅子にリーンを座らせ、その向かいの回転椅子にマーガレットが腰を落ち着ける。


「そろそろ経過が出るぐらいだと思うの。左腕を見せてもらえる?」

「は、はい」

 リーンは、己の袖を捲ると、マーガレットに見せるよう腕を持ち上げた。白い肌には、数か所の紅い斑点がついている。

「……ふうん、そう。大方予想通りね」

 得意気に呟いたマーガレットは、作業机に置かれた一冊の薄いファイルを手に取り、文字を書き込んでいく。

「あの、どういった判定が……?」

 リーンが、恐る恐ると言う風に呼びかける。数日前から、体調に関する質問を重ねられ、髪の毛を一本拝借され、腕には数種類の薬品が一滴ずつ並ぶように落とされて、何やら不穏な診察が行われているのだ。

 マーガレットは、面と向かってあっさりと告げた。

「持病はなし、弱っている器官も特になし、極めて健康的で、現在の気にかかる症状も、特にコレと言ってなし。健康優良児の見本みたいなものね。健診結果は、文句なしのトリプルAよ。おめでとう良かったわね、健やかさん」

「あ、ありがとうございます……」

 仰々しい検査の割には、拍子抜けの良好結果で、リーンは胸を撫で下ろしながらも複雑な心地を覚えた。

「でも、あなたの場合、体内の雪のマナの割合が多いから、少し暑さには弱いみたい。南国暮らしには向かない体質ね」

「そうなんですか……。だから、昔に暮らしていたところでは、暑くて元気が出なかったんですね」

「小さい頃は、特にマナの影響を受けやすいのよ。今なら、昔より負担が少ない筈だわ。――体内のマナは、必ずしも均一的な割合を保っているわけじゃないの。生まれながらの体質もあれば、土地の風土や季節にも左右されるし、日々の健康管理も重要ね。不規則な生活してると、バランスは崩しやすくなるから、気を付けなきゃだめよ」

「そのセリフは、宵っ張りのメグねえちゃまが言っても、説得力がないと思うの」

 マーガレットに呆れる言葉を放ったのは、部屋に入ってきたプリムローズだった。エプロンドレスのポケットの中に収まるクッキーを取り出し、美味しそうに頬張っている。

「あらプリム。夜になればなるほど、あたしの思考回路はすっきり明瞭な理論を導き出せるのよ」

「血迷った方向に、の間違いじゃん? ねえちゃまは、深夜に書いたお手紙を、恥ずかしげもなく手渡せるのね」

「あんたみたいなお子様体質には分からないでしょうね。そうね、あたしも分からないもの、三秒で眠れるような単純で図太い心は持ち合わせていないし」

「ねえちゃまの神経は細すぎるって、認めるわけね。無神経のくせに神経細かいとか、超たてほこ~」

「それを言うなら矛盾でしょうが。見た目で舐められたくなかったら、ちゃんと物覚え良くしなさい。中途半端に知ったかぶってまあ、嘆かわしい」

「ねえちゃまの、上から目線な頭ごなしの説教は、正直結構ばばくさい」

「何よ、この万年幼児」

「何なの、この若年寄」

「……あ、あの、二人ともその辺に……。ケンカは良くないよ?」

 二人の小競り合いに気圧されつつも、リーンはとうとう口を挟んだ。睨み合いをする姉妹は、リーンに振り向くと、お互いにきょとんとしながら答える。

「ケンカじゃないわよ? これ如きの些細な文句、ケンカに失礼よ」

「そうなのよ。これごときの軽口は、ケンカって言わないものなのよ」

「……そ、そうなの……」

 納得しかねる表情を浮かべるが、姉妹の認識が一致しているのならば、リーンは頷くしかなかった。この応酬が、口喧嘩に属しないのであれば、本気の場合はどれだけの罵詈雑言が聞けるのだろう。自分に向けて言われでもしたら、恐らく泣いてしまうかもしれない。


 プリムローズが、人差し指をリーンに向かって突きつけた。

「でもリーン嬢ちゃまは、メグねえちゃまのマネしちゃだめよ。ねえちゃまは、月のマナの属性だから、宵っ張りでもへっちゃらなだけなんだもの」

「月のマナの属性だから?」

 リーンがそのままに言葉を繰り返すと、マーガレットが口を挟む。

「リーンの体内に雪のマナが多いみたいに、あたしの身体には月のマナが多いし、プリムには花のマナが多いわ。それぞれのマナが特出していると、その属性に見合った性質になりやすい。月は夜中を司るし、花は日中、みたいにね」

「……そうなんですね……」

「んふふ、嬢ちゃま、あんまり良く分かってないって顔してる」

 プリムローズが、にんまりと含んだ笑みを浮かべる。内心を言い当てられたリーンは、すまなさそうに告げた。

「あ、あの、初めて聞いた時から不思議だったんです。エネルギーであるマナを、雪と月と花と言い表すのが、あまりピンと来なくて……」

 マーガレットは何か考えるように口元に手をやり、静かに話し出す。

「――いにしえの人々はね、自分たちは、神の力で生き長らえているのだと、信じていたの」

 一冊の本を手に取り、すぐに開かれたページをリーンに見せた。女神と思わしき三人の見目麗しい女性が、それぞれ独特の紋様で囲まれている挿絵である。

「傷付いて血が流れても、やがて固まって癒える。その肉体は、時を重ねる毎に姿を変える。やがて衰えて死んでも、産み出された新たな命が代わりに生きる。変化と再生、生まれ変わるその繰り返しを、冷え固まっては熱で溶ける雪、満ちては欠ける月、咲いては枯れゆく花、それぞれになぞらえて、神さま――マナとして、心から敬ったの。月のマナが司るのは、体内に必要なものを運んで巡る、循環の力。花のマナが司るのは、体内の代謝、食べ物の消化を行う、変換の力。雪のマナが司るのは、体内の免疫や体力、構造を維持する力。そういう風に人の命は、一つの力だけで組み上がっているわけじゃないって、人々は昔から知っていたのよ。こうして考えてみると、あたしたちの身体って、色々な機能が合わさって構成されているのよね。実に興味深いわよねえ」

「命は、おもしろフシギなのよ」

 キャンベル姉妹は、うんうんと深く頷き合った。口先悪くとも、彼女たちは基本的に気が合う同士なのだと、リーンは思い直した。喧嘩のようなやりとりも、姉妹にとってはコミュニケーションの一種なのだろう。

 マーガレットは解説に戻った。

「で、その雪月花の神さまの話は、万国共通じゃないってことも一応覚えておいてね」

「そ、そうなんですか!?」

「そりゃそうよ。あなたのいた孤児院では、そんな神を敬えと教えられたかしら?」

「……教えられていません」

「そうやって、神さまを三つに分けて崇めた一族がいた。それが我がキャンベル家の秘技の基盤として、今日に受け継がれているというだけのこと。マイナー教義と言われても当然なんだから、あまり外に喋らない方が良いかもね。ピンと来ない顔されるわよ」

「……何というか、すみません」

 自分の放った言葉で締めくくられて、肩を縮こまらせたリーンを、マーガレットはからからと笑った。

「意地悪い言い方だったかしら? ま、あたしもヨーク兄さんから伝え聞いた話だから、深いところまではちゃんと知らないの。もっと詳しく聞きたいなら、兄さんから教えてもらいなさい」

「分かりました、そうします」

「じゃ、今日の講義はお終いね。それはそうと、プリム、何か用事だったの?」

「ん、お庭にすら出たくない引きこもりのねえちゃまのために、郵便物を持ってきてあげたのよ」

「それはそれは、ご足労どうもありがとう」

 認めたことには口答えをしないのか、マーガレットは苦々しい顔をしつつも礼を述べて、封書を受け取った。

「それで、こっちは嬢ちゃまに」

「私にも?」

 キャンベル家へ来て間もない自分に、宛てて届けられるとは思わなく、驚きつつも二つの手紙を受け取った。

 まずは一つ、薄い方から開いてみる。


 ――先日は、本当にありがとう。体調はすっかり良くなったから、ちゃんとお礼をしたいわ。新作のジャムがあるの。ごちそうしたいから、いつでも遠慮なく遊びに来てね。 リコリス・カムデン――


「リコリスさんからだ……! 良かった、元気になったんだ……」

 リーンは笑顔を見せながらも、込み上げる気持ちをなだめるように胸をそっと押さえ、少しだけ涙を浮かべた。初めて気さくに声をかけてくれた時の、リコリスの表情を思い返す。その穏やかな笑顔で再び出迎えてくれるのだろう。

 内容を覗き見するマーガレットは、おやと意外そうな顔を見せた。

「あら、あのジャム屋のご婦人って、カムデンさんの奥方なのかしら?」

「そうなのよ、あのカムデンしゃんの奥しゃまみたいなのよ」

 プリムローズも少し興奮気味に言い重ねる。

「あの、メグ。カムデンさんって?」

 リーンがおずおずと訊ねると、マーガレットが嬉しそうに話し出す。

「カムデンさん――ミセス・カムデンの旦那さんがね、ウチに良くいらしてくださるの。行商人で、国中を旅していて、色んなものを売りに出しているの。商売人にしては、あまりがっついてなくて、あたしは好きよ。面白いお話も沢山聞かせてくれるしね」

「へえ、素敵な人ですね……! 会ってみたいです」

 リーンがうきうきと言いながら、リコリスの手紙を封筒に戻し、もう一つの封筒に目を留めた。封が施された面の下部に、小さく送り名が記してある。――エミリー・スノーレット、と。

 この差出人も、リーンには全くの予想外だった。目を丸々と大きくする。

「エミリーからだわ……!」

「あなたのお友達?」

「ええと、はい、孤児院の時に、良くお話していて……。でも、私、キャンベル家の住所を伝えたかしら……」

 リーンが首を傾げながら言えば、プリムローズが胸を張って応える。

「伝書鳩使って、郵便局に投げ込めば、キャンベルの名前ですぐに届いちゃう!」

「便利よねー、伯領の名前は」

「べ、便利ですね……」

 その一言で片付けていいものか、リーンは少しだけ迷ったが口にはしなかった。

 封を開けようとしたが思い直し、姉妹たちに申し訳なさそうな笑みを向けた。

「あ、あの、これは一人で読みますね。きっと、大事な内容だと思うから……」

「ああ、デバガメしちゃってごめんなさい。電話番でもしながら、ゆっくり読んでなさいな」

「はい。ありがとうございました。じゃあ、失礼します」

 リーンは一礼し、マーガレットの部屋から小走りして出て行った。手紙の内容がとても気にかかるようだった。

 にこやかに手を振って見送った姉妹は、二人きりになると、控えめな声で言葉を交わす。

「……で、嬢ちゃまは、実際問題どうなのよ?」

「……雪のマナの割合は、少し多いようだけれど、体内マナの含有量自体は平均値。異常体は見つからないし、特出するものも、コレと言って見当たらずってところかしら。……マズいわね、ヨーク兄さんを乗り気にさせる売り文句が、ちっとも思い浮かばない。だから、プリム――あんたの見極めを、最終判断とするわ」

 凛とした声で指名され、プリムローズは、思わずマーガレットをまじまじと見上げた。姉は、いつになくぎらぎらと、琥珀色の瞳をきらめかせている。これは本気で頼まれている案件なのだと、感じ取った妹はそっと視線を戻し、ポケットのクッキーを一口かじった。


「明日、決行しましょう。口実は、ミセス・カムデンの定期診察。いけるわね?」

「それでなくても、遊びに行くってだけで大丈夫よ。嬢ちゃまと、リコリスしゃんは、もうお友だちなんだもの」

「それもそうね。……例のモノも作ったから、思う存分、好き勝手やってらっしゃい」

「ヨークにいちゃまに、怒られない程度に?」

「あら、兄さんの怒りが怖くて、伊達にキャンベル姉妹やってるつもり?」

「つもりじゃないもん、ほんとの本気だもん」

 煽るように言えば、すかさずプリムローズから息巻く声が上がった。マーガレットの口元が、上品に弧を描く。

「そ、安心したわ。後で一緒に怒られてあげる。だから、お願い。ちゃんとあたしたちに、彼女の在り方を示してあげて」





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