第5話 春 常花の村Ⅴ
診療所は大通りにある三階建ての建物で目立ちやすく、すぐに見つけられた。
普段見かけないリーンの姿を受付の女性は不躾に見やったが、リコリスの診察券を差し出されると、その視線は少し和らいだ。
「ああ、ジャム屋のね、ええ良く知ってますよ。昔からの発作です。横になっていればすぐに元通りになりますから、そんなに気にかけなくても問題ないですよ」
受付の女性は何でもないように答えるが、リーンは食い下がって頼み込む。
「あの、でも、リコリスさんすごく苦しそうだったし、どうかお医者様にお目通りを……」
「先生は回診で外に出かけております。戻りましたら今日中に伺うように申し伝えますから」
「どうかよろしくお願いいたします!」
億劫そうに告げられて、リーンは不安でたまらなかった。頭を下げて必死に伝える以外に、自分に出来ることがこれ以上見つけられないのも嫌でしょうがなかった。
診療所から外に出ると、いつの間にか陽が西へ大きく傾いていることに気付いた。夕刻を知らせる鐘が、遠くの高台から響いてくる。
お前の出来ることはこれまでだと告げられたように思えて、リーンはとぼとぼとキャンベル家へ戻る道を歩いていった。
「お医者様、今日中にリコリスさんのところへ行ってくれるって言ってたし、大丈夫だよね……」
――どうしても困っていることがあると、キャンベルの家の方々にお願いしに伺っているの。
とっさにリコリスの言葉が頭に浮かんで、リーンは迷いながらも呟いた。
「ミスターに言えば、どうにかなるものかしら? でも、そんなものは医者に任せておけばいいって言うかも……」
ヨークラインの冷たい態度ですっかり萎縮してしまっているのを、リーンはまだ自覚出来ずにいるのだった。
*
何枚かの書類を睨み続けたままで、視線を動かさないヨークラインは、カップソーサーの置かれる音でようやく自分の巡らせる思考を止めることが出来た。白磁器にうっすらかかる茜色が、夕暮れまで間もないことを気付かせてくれる。
「やあ、ヨーク。随分悩ましく考え事をしているね」
紅茶を運び込んだジョシュアが穏やかな声で訊ねてくる。それに応じず、黙ったままで紅茶をすする。すぐに返事をしないのは、あまり機嫌が良くない時のヨークラインの悪癖だったが、それに慣れているジョシュアは全く気にしない。ヨークラインの手にある書類をあっさり奪った。
「おい、勝手に触るな」
「『セントジョンズワート・カレッジ』、『アンジェリカ・アカデミー』…? 全寮制の女学校の願書じゃないか。……もしかして彼女の?」
「だったら何だ」
まるで哀れむような眼差しで、ヨークラインに問いかける。
「入れようと思ってるの? まだ来て間もないのに?」
「……その方が適しているのかもしれないと、考えてもいる」
「煮え切らない言い方だね。お前らしくもなく、ひどく慎重的だ。いや、初めてのことだから慎重になっているんだろう」
「初めてではないだろう。マーガレットやプリムローズも通っていた」
「そういう意味じゃないんだけどね」
ジョシュアは肩をすくめて、自分もポットから紅茶を注ぎ、角砂糖を五つ入れてから飲み込んだ。
「彼女らは聡明だし、元からそれほど心配していないじゃないか。けれど、あの子は違うだろう。何も分からず、知らされずの二重苦だ」
「……何も知らない方が幸せかもしれないだろう」
「だからって、まだ目隠しのままの道を歩ませるのかい? 過保護すぎやしないかい、ヨーク。気持ちは分かるけど、お前のやり方では天使の翼をうっかりもいでしまいそうだ」
「その気障な言い回しはやめろ。背筋がむず痒い。……俺さえ考えあぐねているのに、自分の気持ちが簡単に分かられてたまるか」
「他人事の気持ちは、存外冷静に分かるものさ。『生き残っていてくれて、安心した』。そんな単純な文句で済まされる」
「……そこまで単純でもない」
低い声で告げ、願書を乱暴な手つきで取り戻す。応酬を振り切るように立ち上がると、ふとジョシュアを見つめて訊ねてくる。
「そう言えば、彼女は今、何処にいるんだ?」
「お弁当を持って、外に出かけていったんだよ。夕飯までには戻るんじゃないかな」
相変わらずのんびりしたジョシュアの台詞に眉を寄せ、呆れた口振りで言い放った。
「お前な、彼女をマーガレットやプリムローズと同じように扱うな。村の地理もほとんど分かっていないだろうに、一人で外に? 誰もついていかなかったのか」
「彼女が決めたことだよ。やりたいことがないと悩んでいたから、それなら外に出かけるぐらいしか、今やれることはないだろう」
「そうじゃない。お前が付き添えばいいだろう」
「何故? 僕のお役目はキャンベル家の台所番だ。あのレディの世話を焼くのは、
思わず苦々しい顔になるヨークラインに、ジョシュアはにっこりと優美な笑みで応じた。
「そこで後ろめたさを感じるなら、やっぱりお前は過保護だよ。彼女を甘く見ていやしないかい、ヨーク。レディは総じて、気高く聡明な人種であることを肝に銘じるべきだ」
ドアをノックする音がして、ヨークラインが入室の許可を告げると、プリムローズがひょっこり顔を見せた。ジョシュアは窓から差す夕焼けをちらりと見やり、夕餉の準備がまだ終わっていないことを思い出す。
「やあ、お帰りプリム。ごめんよ、お腹空いちゃったかい?」
「……それもあるけど、にいちゃまたちにお話ししたいことがあるの。すてきなお知らせと悪いお知らせ、どっちから聞きたい?」
眠りから覚めて間もない、揺蕩うようなプリムローズの眼差しがそこにあり、ヨークラインとジョシュアは顔を見合わせた。
「じゃあ素敵なニュースから頼むよ、レディ」
「オッケー、ジョシュアちゃん。すてきなお知らせとは、ずばり、リーン嬢ちゃまのこと! 評判は、おおむね良好だって。あの子の周りには、気持ち良いマナがあるんだって」
「そうか、それなら何よりだ」
気がかりが一つ良いように収まってくれて、ヨークラインはほっと安堵の息をつく。
とろりとした眼差しが、やがて憂いの色を帯び始めたプリムローズは、勢いを少し弱めた声で言う。
「続いて、悪いお知らせ。村周辺の、マナの廻りがまたおかしくなったって」
今度こそ、二人の青年の目が険しい色を帯びた。
ヨークラインが厳しい声で問いかける。
「場所は何処だ?」
「……分かんないって。場所がおかしいわけじゃないみたい。やっぱりまた、村の人かも」
「今夜あたり、急患が来るかもねえ」
ジョシュアがさらりと告げると、少し早い足取りで書斎を出て行こうとする。
「先に支度をしておくよ。プリムも一緒に来ておくれ。ヨークはあの子が帰ってきたら、決して部屋を出ないように言い聞かせておいてよ」
「元からそのつもりだ」
プリムローズは、目を瞬きさせてから、小首を傾げて訊ねる。
「……リーン嬢ちゃまは、お手伝いしないの?」
「元からそんなつもりはない。前にも言った通りだ」
「ふーん……。ヨークにいちゃまはそういうつもりでも、周りがほっとかないよ?」
一睨みするヨークラインの視線に、プリムローズはつんと顔を背けてジョシュアの後ろに逃げ隠れた。
「プリム、ヨークの意志を曲げるのは一苦労以上の根気がいるよ。それよりお菓子を食べながら、仕事の支度をしようじゃないか。ひとまず部屋に篭っているメグを呼んできてくれないか」
「分かったわ、ジョシュアちゃん」
プリムローズを引き連れて、ジョシュアは今度こそ書斎を後にする。
ヨークラインは盛大にため息をついてから、手元に残る願書の書類を大事そうに封筒へしまった。
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