第9話 女

 コンクリートで覆われた部屋にクチュクチュと水音が反響する。

 その灰色の部屋を照らすのはいくつかのキャンドルの灯。その中央に置かれたソファには女が座っている。その女の正面には床に両膝をつけた上半身裸の男が一人。両手で女の左足を大事そうに持ち上げて足の指に吸い付いていた。


 親指を口に含み、時には足の指の間を舐めあげる。男は足の裏から甲に至るまで舌を這わせた。唾液にまみれた足が灯火に照らされて妖しく煌めく。


 恍惚を浮かべた女からは溜め息に似たような吐息が漏れる。


「もういいわ……こっちにおいで」


 女はそう言うと両手を前に伸ばした。

 男は立ち上がり、ソファの上の女に体重がかからないようにまたがる。

 女は左手で男の肩の辺りに触れ、右手は背中に回した。赤い唇の間から舌を出して、男の胸元に近づけていく。

 舌の先がピンと上を向く。そのピンク色の舌から今にも唾液が滴り落ちそうだ。

 男はビクンと反射反応を見せ、苦悶の表情を浮かべる。それは女が右手に持っていたナイフが男の背中から胸を突き抜けたからだ。

 女は少しナイフを抜き、胸元から流れてくる血を舌で受け味わう。


「はあぁぁ」


 虚ろな目で女は悦ぶ。


 しばらく血を飲むと満足したのか、女は男に刺していたナイフを勢いよく抜いた。その反動で男はソファの前に崩れ落ちる。先程までその男が舐めていた唾液まみれの足を男に乗せて女は足を組んだ。


「どんな味なのかしら。あぁ、待ち遠しいわぁ」


 そう言うと中指と親指でナイフを顔の上にぶら下げて、滴り落ちる血を舌先で受け止めた。


「早くいらっしゃい……その為に坊やを生かしてあげたんだから」


 *****


 その頃、SBの医療部隊フロアではハジメの手術が行われていた。


 銀次と鉄平、サラ、そしてコウタとノエルが手術室の前でハジメの手術が終わるのを待っているところへ、血相を変えたルナが駆け寄っていく。


「ハジメは!」

「今、手術中だ……どんな容態なのか、分からん」

「何があったの?」


 首を横に振った銀次が拳を握り締める。

 ハジメを襲ったのは誰か。何か出来る事はないのか。いくら考えても答えは出ない。出来る事は待つだけだった。この場にいる全員がもどかしさを感じていた。


「クソ!」


 ルナは通路の壁に拳をぶつけて悪態をつく。


「二時間前にハジメ君から電話があったの。でも何も喋らなくて……それで何かあったんだと思って、GPSで追跡して……行ったら、血が……」


 ハジメを見つけた時の事を真っ赤な目をしたサラが説明しようとするが、その光景を思い出したのかそこから先の言葉が出て来ない。


「どこにいたの?」

「市街地、から、少し離れた、廃ビルが並ぶ、地区よ」

「ハジメの奴、何でそんな人通りの少なそうな場所に……」


 それからどれくらい経っただろうか。手術中と書かれた赤いランプが消え、手術室からフィリップが出てきた。

 銀次が立ち上がって問いかける。


「ハジメは?」

「命に別状は無いよ……ただ今までと同じようには戦えないかもしれないねぇ」


 戦えないかもしれない、その言葉に空気がより一層重くなる。それほどまでにハジメの容態が悪い、そう理解したからだ。


「ハジメに会えますか?」


 銀次の問いにフィリップは少し間を置いた。そして一度閉じた瞼を開いてからフィリップがそれに答えた。


「今はやめておいた方がいいねぇ」


 それだけ言うとフィリップはその場を後にした。

 入れ替わるようにハジメを乗せたベッドが手術室から運び出されてくる。目を閉じたままのハジメが運ばれたのは手術室の近くのICU。

 皆がハジメに呼びかけるが反応が無い。


「今はまだ術後ですので時間を空けてから面会していただけますか?」


 医療部隊の一人にそう言われて、皆は曇った表情のままICUを出た。それから、一人だけなら付き添ってもいいという事でサラが残る事になった。


 付き添う者、自分の部屋に戻る者、オフィスで待つ者。それぞれが足取りの鈍い時間を過ごすしかなかった。


 そして、ハジメが目を覚ましたという報せがメンバーに届いたのは夜が明けてからだった。


 ルナはICUに入るとすでにサラと銀次が椅子に腰を下ろしていた。部屋の隅にはフィリップもいる。ルナに少し遅れて鉄平とノエル、コウタも駆けつけた。


「ハジメ、痛みは?」

「平気です。すいません、こんな事になって……」


 ハジメの表情は明らかに痛みを堪えている。だがそれよりも迷惑をかけているという罪悪感の方が強い。銀次にはそれがよく分かる。しかし、それでも聞かなければならない。


「外に出たいきさつは聞いた。その後、何があったか聞かせてくれ」

「はい。市街地まで行ったら……女のヴァンパイアに会いました。ただ人通りが多く、場所的に戦いづらいと判断して人通りの少ない地区まで誘導して戦ったんですが……俺の撃った弾は避けられて」

「銃弾を? 避けたのか?」

「はい。あの時……」


 そのままハジメは昨夜の事を話し始めた。


 *****


 肩を上下に揺らしたハジメが女に銃口を向ける。しかし、女の素早い動きにその照準が定まる事は無い。


 ――――クソ! 速すぎる。


 それからもハジメは何度か銃を撃ったが、女を捉える事は出来ない。


「そう言えばまだ名前教えてなかったわね。私はフリーダよ。よろしくね」


 フリーダと名乗った女はハジメの左腕をナイフで切りつけた。徐々にハジメの体に傷が増えていく、だが致命的な傷はまだつけられていない。殺そうと思えば殺せるはずなのだ、にも関わらず女はそうしない。


 ――――完全に遊ばれてる。


 ハジメが持っている武器は、今手にしているハンドガンだけだ。サブマシンガンでもあれば弾幕を張るような戦法も考えられる。しかしそれは、持っているセミオートのハンドガンでは出来ないのだ。


 ――――出来ない事を考えるな。


 フリーダが再度ハジメの背中にナイフを這わせると、ハジメの呻き声が漏れる。それを悦に浸る表情でフリーダは聞き入ると、ナイフから零れ落ちそうな血液を濡れた舌で舐め上げた。


「あぁん……最高。思った通りねぇ、私好み」


 ――――いくら速くても銃弾より速い訳じゃない。


 ハジメは元F1レーサーだ。高速の世界、一瞬の判断が命取りになる世界で生きてきた。特に動体視力には自信がある。しかし、眼前の女はそんな自信を簡単に打ち砕いた。


 ――――動きを読む、それだけに集中しろ。


 ハジメは銃を撃ったあと、すぐに自身の左側に蹴りを繰り出した。フリーダは銃弾を躱した後、ハジメの左側を抜ける事が多い。それを予測しての蹴りだ。そして予想通りの動きをしたフリーダはその蹴りを手で振り払った。


「あら……なかなかのセンスね」


 ――――いける。


 動体視力では足りない部分を予測で補う。

それによって状況は変わり始めていた。相変わらず銃弾は当てられない。だが徐々にハジメの負う傷が減り、反比例するようにフリーダの動きが止まる。


 ――――捉えた!


 そしてついに、ハジメはフリーダの眼前に銃口を突きつけた。後は引き金を引けばフリーダの額に穴が開く、はずだった。


「……ゴホッ」


 ハジメの口から血が溢れる。ハジメが視線を落とすと、脇腹にフリーダの左手で持つナイフが突き刺さっていた。激痛と共に食道から駆け上がってくる鉄臭い血液。


「惜しかったわねぇ」


 フリーダは血液にまみれたハジメの唇を舐めあげた。まるでワインに酔いしれるように、その表情には悦が浮かんでいる。

 それでもハジメは痛みをおして右手の銃をフリーダに向けようとした。


「もう、悪い子ね……でも嫌いじゃないわ」 


 お互いに息のかかる距離でフリーダが濡れた声を発すると脇腹に刺したナイフ抜いた。さらに激痛がハジメを襲い、その場に崩れ落ちてしまう。


「仲間になれば傷は癒えるわよ? ここから何キロくらいかしら……少し遠いけど廃工場があるの。そこの地下にいるから、いつでもいらっしゃい」


 その言葉の後、ハジメは右腕に感じた強烈な痛みと熱に体を痙攣させて意識を失った。一度意識を取り戻した時にサラに電話をかけた事も覚えてはいなかった。


「それから……気がついたらサラがいたんだ」

「フリーダ。三体のリッターにゲヒルン……か」


 ハジメの説明から、ルナは倒すべき相手を口に出した。

 部屋の隅にいたフィリップも補足するように呟く。


「ドイツ語だねぇ……騎士と頭脳」

「術後すぐなのにすまない……後は任せてくれ。今は体を治す事に専念しろ。治ったらまた……」

「俺はもう戦えません」


 銀次の言葉をハジメが遮る。そして少し間を空けて掛けられた布団の端から右腕を挙げた。

 サラが口をおさえて目を伏せる。

 その光景に皆が言葉を失った。


 ハジメの右腕が無いのだ。


「この腕じゃ戦えない……すいません……すいま……」


 ハジメの口から謝罪の言葉と涙が零れる。


「アンタ馬鹿?」


 唐突にICUに響くルナの言葉。この場に相応しいとは思えないその言葉に、ハジメを含む全員の目が丸くなった。


「右腕が無いから何? まだ左腕があるだろ! 勝手に諦めんな! 第Ⅶ班には……ハジメが必要なんだよ」


 思いがけない言葉にハジメは顔を横に背けた。そんな小さく震える背中にルナが続ける。


「だから、今はゆっくり休んでて」

「……人使いが荒いな」

「悪魔の子だからね」


 ルナは皮肉混じりの言葉を発して、ICUを後にした。


 ――――悪魔にだって……何にだってなってやる。


 廊下を歩くルナは武器庫へと向かっていく。その表情はICUで見せたものとは真逆のものだった。


 ルナはこの上なく怒っていたのだ。

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