『穢鬼』

ある雪国では夏になると、夜の無い日が見られるようになる。


既に原理の解明された自然現象であるが、その地方に伝わる土着信仰では、現代とは全く異なる解釈がされていた。いわく、男と女、昼と夜、生と死、あらゆる存在は同一の力によって制御されている。力が均衡を失えば、死者が甦ったり、昼が永遠に訪れなかったりと、種々の異常が生じてしまうという。

夜の無い日もまた、それら非常事態の一部であった。




木々を殴るような盛夏の日射しも、午後にはすっかり弱まり、群生する野草の葉を優しく照らすだけになっていた。

遠い山峰から吹く風を受けて、頭を垂れた鈴蘭キエロや、バターのように黄色い蒲公英ヴォイクッカが踊る。


そのように、緑のざわめきが絶えない林道を、一人の若者が歩いていた。

動きやすい革の胴衣を着て、大きな石弓を背負っている。白光を浴びて揺れる髪に、赤く潤んだ兎の眼。美麗さを持つ顔と引き締まった肉体が合わさり、神話の英雄を思わせる姿であった。

彼は黙々と進み続け、荒々しい霊樹の根元を過ぎ、ついに目指す場所へ辿り着いた。


森神の寵愛を受けた地、ホペア教会である。


人境ならざる精気に圧倒され、若者はしばし、木立の中にぼんやり立ち尽くしていたが、突然、双眼を大きく見開くと、林の影へ飛び退いた。

彼は何かを恐れるように息を荒げ、背中の弓を慎重に降ろした後、太い幹の間から顔を出した。


あちこちにつたを生やす古教会の周りを、小さな人影が跳ね回っている。

野兎のようなそれは、年端もいかぬ少女であった。

可愛らしい裸足で地面を蹴り、鳶色の髪を揺らすたび、服についた飾りがジャラジャラ鳴る。


それを見た若者は、少し恥じ入る様子で、


「ヘエ、キミが噂の暖炉カミーナちゃんか」


少女はすぐに動きを止めた。


「おにいさんだれ?」


「俺はタルヴィ。村の狩人さ。神父様に用事があって来たんだが……」


若者が言うと、彼女の顔に柔らかな色が浮かんだ。


「きょうはおでかけしてるの。となりのまちにいくんだって」


「そうか。お嬢ちゃん、一人でお留守番してて大丈夫かい?」


「うん! だって……」


突如、二人の間を冷たい風が通り抜ける。

彼女の返事は、梢の触れ合う音にかき消された。


同時に、若者の表情が変わった。

彼は反射的に弓を構え、森がざわざわとうめいている方に向けた。


(ここまで大胆に出てくるとはな。随分、肝が座ってるじゃねぇか)


彼が見つめる先は、緑葉の最も密集した地帯であり、暖かな陽光はおろか一片の木漏れ日さえ差していない。林間を凝視したまま石のように動かない彼を見て、少女は不安そうに声を上げた。


「タルヴィさん?」


その瞬間、彼の石弓が弾けた。

遅れて、何かが千切れるような音が響き渡る。驚いて飛び上がった少女を尻目に、若者はニヤリと、白い歯を見せて笑った。

純粋な歓喜と増悪の混じった、恐ろしい笑みであった。


「当たった」


教会を囲むように広がる、黒ぐろとした闇の中で、静かに動く物があった。

それはあまりにも巨大で、森に溶け込むように存在しており、思わぬ負傷の為か、肩らしき部分を激しく上下させ、こちらを睨んでいた。


若者は暫く、この生物を卑下するような目で見ていたが、不意に武器を構え直し、雑木林に向かって駆け出した。すると少女が、彼の腕を掴んで引き止めた。


「おい、離せ!」


「やめて! どうぶつじゃないよ! うっちゃだめ!」


悲痛な訴えに、若者は苛立ちを抑えるようにして言った。


「そうだ。あれは動物でも人間でもねえ。だから、情けなんて必要ねえんだ」


「ちがうよ、にんげんだよ! おしゃべりはできないけど、なんにもこわくないって、しんぷさまがいってたもん」


「………神父様、だと?」


少女は目を伏せる。


「みんな、やさしいひとだってしらないの。……それで、むらにもはいれないし、いじめられてるんだって」


「よく聞け、お嬢ちゃん」


彼女の手を優しく撫で、若者は言った。


「神父様になんて教わったか知らねえが、あれはな、人の形をした化け物なんだよ。その証拠に………。どんな大怪我をしても、ほんの数時間で元に戻る。痛みは感じるらしいがな」


再び、森に銀色の風が吹く。

少女は一瞬だけ戸惑うと、すぐに声を上げた。


「……じゃあ、もういいじゃない! やっつけられないんでしょ!」


「あれを一度見つけたら、俺はトドメを刺さなきゃいけない。……殺せはしないが、それと同じ苦痛を与えられる」


若者は、諦めたような顔をした。


「そうやって、奴を遠ざけておくのが、俺のなんだ」



*     *     *



鬱蒼うっそうとしたセイナの森で、更に禁足地とされる場所には、文字通り虫の一匹すら寄り付かなかった。昼夜を問わず死肉のような臭いが立ち込め、それは、森の奥に存在する魔境より発せられていると、付近を通り掛かる人々は考えた。


少女の制止を振り切った若者は、瞳を嫌悪で真っ赤に燃やし、薄暗く湿った大地へ踏み込んでいく。蜘蛛のように目を剥き、執念深く探ると、幾つか、怪物のつけたであろう爪跡が汚らしい大樹の表面に見つかった。また彼は逃げる途中、幹に頭をぶつけたらしく、黒い血の痕が樹液のように光っていた。


「……見失ったか」


それ以上の痕跡は望めないと悟り、若者は樹林に背を向けた。

去り際、ふと足元を見やると、絡まり合った雑草の隙間で、黄金に輝く塊のような物が見えた。鳥の卵ほど大きな石で、装飾などは無いが、形が不自然に整っており、明らかに人の手で加工されているらしかった。

若者は、言いようのない怒りを感じて、


(価値も分からない奴が、持っていても無駄だ)


おもむろにそれを拾い、多少の喜びを覚えながら持ち帰った。

教会へ戻る頃には、天日が半ば地に喰われ、先程までの温もりは失われていた。寂しげな空気の中、あの少女が、両目を若者に負けぬ程赤くして立っている。


「……ここに神父様が居る理由を、まだ聞いていないのか?」


若者が問うと、彼女は目を合わせずに言った。


「そんなのしらない。でも、ハンキはにんげんなの。……むらのひとも、タルヴィさんもまちがってるよ」


力ない言葉を聞いて、彼の荘健な心はとうとう元気を失ってしまい、何も言わずに引き下がる他なかった。陰の多くなった林道を、腐った落葉の匂いを振り払うように、早足で進む。

ふと彼は足を止め、こう思った。


(神父様は…気が触れちまったのか……?)



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銀のプータルハ 黒河魚心 @whitefish76

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