番外編4 ひな子とクロベエ

 クロベエが初めてその人間と出会った時は、恐怖で心臓が凍るかと思った。


 人間が子猫たちを餌で釣りながら、その背中に手を伸ばそうとしていたからだ。


 この島の人間は黒猫に殺意を持っているらしい。


 過去に人間に殺された黒猫はたくさんいるが、皆ロクな死に方をしていないと聞く。


 首をへし折られるか、地面に叩きつけられるか。


 そんな恐ろしい化け物の魔の手が、子猫たちに迫っている。


 阻止しようにもここから距離があり、全速力で走っても間に合わないだろう。


 仲間の猫たちも、恐怖に顔をこわばらせて硬直していた。


 しかし恐怖に固まっていたクロベエは、次の瞬間、あっけにとられることになる。


 人間が、子猫の背中をそっと優しく撫でたのだ。


 人間との接点がないクロベエには、奴らの表情は全く読めないが。


 黒猫を見た時の他の島民たちとは、全く違う表情をしているように見えた。


 とはいえ奴をこれ以上、大事な子猫に近づけるわけにはいかない。


 最悪な事態を想定して凍り付いていた黒猫たちは、いっせいに駆けだした。


 精一杯体を大きく見せ、威嚇の声を上げて人間と子猫の間に割り込む。


 仲間を守るように矢面に立ったクロベエは蹴られるのではないかと身構えたが、何もされなかった。


 人間は目を見開いて小さく嘆息すると、黒猫たちを見て、何か良く分からない鳴き声をもらした。


 それからしばらくして、人間は子猫たちから離れて去って行った。


 両手を上げて後退りしているのは、身体を大きく見せようとする威嚇のポーズだろう。


 猫たちを刺激しないようにソロソロと後退しているあたり、腹を見せて敵意がないことを表そうとしている可能性もあるが。


 しかし、そんなことはクロベエ達とってどうでも良かった。


 大人の黒猫たちは、子猫たちの首筋をくわえて全速力でその場を去った。


           †


 その翌日。


 例の人間が、再び姿を現した。


 放棄され、荒れ果てた土地をかき分けるようにして、何かを探しているようだ。


 大きな包みをガサガサ言わせながら、時折控えめな鳴き声を発している。


 黒猫たちが茂みに身を隠して息をひそめていると。


 人間は地面に銀色の器を置き、袋の中身をザラザラと出し始めた。


 仲間たちがゴクリと唾を飲む音がする。


 風に乗って運ばれてきたのは、これまでに嗅いだことがないような風味豊かな食べ物の香りだった。


 大きな器が茶色の粒で山盛りになると、奴はもう一つ器を取り出した。透明な容器から綺麗な水を注ぐ。


 それで満足したのか、人間は元来た道を戻っていく。


 人間の姿が見えなくなるや否や、黒猫たちは熱に浮かされたように、ジリジリと誘い出されるように集まり始めた。


 ここ数日、獲物が全く取れず、死ぬほど空腹だから無理もないだろう。


「おい、それは食うなよ。きっと毒餌だ」


 冷静なクロベエの言葉で、夢を見るような顔をしていた猫たちが我に返る。


 だが、一匹だけヨロヨロと進み出る猫がいた。


「何やってるんだ、クロスケじいさん。そいつは毒――」


「クロベエよ」


 年老いて痩せこけた猫は、静かな顔でクロベエの顔を見つめた。


「お前は皆を食わすため、十分によくやってくれた。若いのに、長として立派に働いていて、本当に偉い子だと思うよ。だが、オレはもう長くはないんだ。痩せ細ったこの体を見てくれ」


「じいさん……」


 一同が項垂れる中、クロスケは言葉を続けた。


「ワシはきっと、今年の冬を越すことはできないだろう。しかし、それはどうすることもできないことだ。ワシは十分すぎるほど生きた。ここでの生活は過酷だ。年には勝てないよ、クロベエ」


 仲間たちが押し黙っていると、クロスケは再び口を開いた。


「ワシにはな、死ぬまでに一回だけやってみたいことがあったんだ。満腹だ、もう食えねぇって言ってみたかったんだよ。こんなに山盛りの食い物を見るのは生まれて初めてだ。きっとこの機会を逃したら、一生巡って来ないだろう。細々と生きながらえて希望を見ないまま苦しんで死ぬよりは、腹いっぱいになって幸せなまま逝きたい」


 クロスケが食事を始めた時、仲間は誰も止めることができなかった。


 きっと毒が回ってすぐに死ぬだろう。


 これでお別れだ、と覚悟を決めていたクロベエたちだったが。


 予想外の結末が待っていた。


 腹が膨れたクロスケは一晩すやすや眠り、そして翌朝、元気に目覚めたのだった。


 しかも、今回限りと思っていた食料を、あの人間が再び運んできたのである。


 奴は雨の日も風の日も休むことなく、毎日のように欠かさず現れた。


 遠巻きに見ていた猫たちも、その顔をすっかり覚えるくらいになったころ。


 一匹、二匹と根負けした猫たちが食事をするようになった。


 その年の冬が来る頃には、クロネコ団の全員がふっくらとした健康的な身体を取り戻していた。


 今にも死んでしまいそうなほど弱っていたクロスケも、あの時のことが嘘みたいにピンピンしている。


 仲間の前であんなことを言った手前、本人はすごく気まずそうな顔をしているが、クロベエは嬉しかった。


 栄養不足で育ちが悪かった子猫たちも、しっかり大きく成長している。


 しかし、クロベエには理解ができなかった。


 ――あの人間は何のために、こんなことをしているんだろうか?


 あの人間はこの島の住民のはずだ。クロネコ団を救う理由があるようには思えないのだが。


 もしかして、油断させた頃に全員を毒餌で根絶やしにするつもりだろうか。


 あの食べ物のおいしさを知ってしまった今では、とてもじゃないが元の暮らしには戻れない。


 普段とは違う怪しい匂いがしたとしても、我慢できずに食いついてしまうんじゃないか。


 クロベエは恐怖を振り払うように、全身を奮い立たせた。自分がしっかりしていなければ。


 選択を間違えば、仲間の命を失うことになるかもしれない。


 ――奴の真意を確かめなければならない。


 その日、クロベエは単身で討って出た。逃げ隠れをするのをやめ、人間の目の前に姿を現したのである。


 その女は、重そうな袋を抱え、ふうふう言いながら作業をしていた。


 いつものように水と食べ物を設置していた人間は、クロベエの姿に気付くと驚いたように身じろいだ。


 奴は穏やかな鳴き声を発しながら、ゆっくりと距離を詰めて来る。


 そっと手のひらを向けられたとき、クロベエは反射的に目をつぶった。


 リーダーとして、仲間のためにできることは、これしかないと思った。


 自分だって、もはやこれを食べないという選択ができそうにないのだから。


 自分が人間に攻撃される姿を見せれば、夢のような生活に目が眩んだみんなの目もきっと覚めるだろう。


 この食べ物に夢中になっている仲間のためにできることは、もはや体を張って示すことしかない。


 ――こいつが俺に暴力を振るったら、その姿を見た仲間も考えを変えるだろう。


 しかし、恐れていたような痛みはなかった。代わりにクロベエを襲ったのは、奇妙な感触だった。


 頭に何か温かいものが触れているのが分かる。


 未知の感覚だが、意外と気持ち良い。


 目を開けると、その人間は、やはり他の島民と違う表情でクロベエを見ていて。


 しかし、人間のことを全く知らないクロベエには、彼女の発する鳴き声の意味は理解できなかった。


 その声を聴いていると、なぜか安心する。


 特に根拠はないが、明日も自分はこの女が用意する食事を食べるのだろうな、と何となく思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ニャゴン(猫vs冒涜的な存在) なみっち8 @namicchi8

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画