第37話 ファイトクラブ 12

 ここ最近はいつになく仕事が順調だった。数年前に始めたレストランは開業資金を無事に回収できたし、差し押さえたまま使い道のなかった不動産は売却が成立、海外への中古車の販売台数は上り調子で、直営の風俗店も評判がよく採用に関してもまずますといったところ──普段ならば何かしらささやかな祝いの場を設けてもいいところで、現にまったく個人的な趣味から店の地下に作らせたワインセラーから一本持ってきて目の前に置いていたが、幸運の揺り戻しのように降って湧いた一つの懸念事項のせいでそれを開けるかどうかを躊躇っていた。フェーブルチーズにもナイフを入れずにそのままにしている。


 想像の中でコルク栓を抜いて慎重な手つきでグラスへ注いだ。フルーツの香り/ほのかな甘さ/強い酸味──通話の呼び出し音。幸福な妄想に浸るのをやめにして応答する。


『あっ、あの、お預かりしたものはお医者さんにお渡ししました。作業の方はうまくいったとのことです。その、よくわかりませんが』


 羽瀬川は喉の奥に何かが詰まったように小さく喘いでいる。赤星は要領を得ない報告に粘り強く耳を傾ける。


『それで?』

『ええと、その、ですね……かっ、帰る途中にですね、佐藤さんと鉢合わせしちゃって──あっ、あっ、佐藤さんというのは、ですね、えっと、弥永先生のところに、新しく入ってこられた方なんですけど、もともと軍隊にいらしたみたいで、それでですね、どうしてか、その……佐藤さんに、病院から帰る途中で呼び止められてしまって、それで、慌てて逃げてきてしまって──』

『わかりました。急なお願いをしてすいませんでした、ゆっくり休んでください』


 どうやら懸念が現実のものなったらしい。どうにか平静を装って伝えて通話を終え、ボトルを保冷剤の効いたワインクーラーに戻した。


 足音を立ててデスクまで戻ってPCの画面を食い入るように見つめた。教授に提出する論文に瑕疵がないか目を皿にしてチェックしていた20年以上前の学生時代のことを思い出しながら、急遽でっち上げた戸籍データを頭から再度見直していく。


 昼間に羽瀬川から弥永とニアミスしたとの報告を受けた際に嫌な予感がした。それから10分もせずに警察が現場に駆け付けたことを知って予感は確信に変わった。彼女の目的は定かではなかったが、犯罪行為を知れば──たとえそれが多少は交友関係のある相手であっても──摘発するチャンスを逃そうとはしないだろう。


 あのビルにたむろしていた連中と自分との接点──ファイトクラブ。赤星は午後に予定していた仕事をすべてキャンセルし、八巻との間で交わした数年分のメールをすべて流し見した。ビジネスの過程において融通したもの、その中で他人に見られては困るものを個別にリストアップした。一番のアキレス腱になりそうなもの=偽造した戸籍。


 八巻は後ろに手が回るような人間を自分の店のリングに上げることも少なくなかった。そういった連中も試合で怪我を負う。彼らにまともな病院で治療を受けさせるには、経歴を誤魔化してやる必要があった。赤星は困窮している人間から戸籍をレンタルして手を加え、身分証の偽造を行って半ば尻拭いをする形でそうした問題に対応していた。


 元の戸籍の持ち主が死亡や失踪をして整合がとれなくなったものをチェックし、改めて別人の名義と差し替える。昼過ぎに始めた作業が終わった頃には既に日が暮れていた。このデータを使って診療記録を書き換えるのは、金で首根っこを掴んでいる病院関係者に任せるしかなかった。


 再チェックを終える。データに不備はなく、そう簡単には偽造されたものだとは気づかれないはずだ。少なくとも迎え撃つ準備はできた。意味もなく冷蔵庫と仕事用のデスクがあるだけの飾り気も何もない部屋の中をうろつく。我ながらまったく面白みのない風景だと自嘲したが、さりとて飾り立てるインテリアを思いつくこともできない。


 呼び出し音が鳴る──赤星は表示された相手の名前を見ず、咳払いをして喉に引っかかっていた痰を吐き捨ててから電話に出た。『もしもし』

『夜分遅くすいません、赤星さん』

『いえ、仕事中でしたので構いませんよ、弥永先生。それで、今日はいったいどんな要件で?』

『つい先ほどの話なのですが、そちらの羽瀬川さんとうちの所員との間に少しトラブルがありまして』

『そうなのですか?』赤星は大きく息を吐いた。『それは……大変申し訳ありません。その方はご無事でしょうか? どこか怪我をされたのであれば、治療費をご請求ください』

『怪我と言いますか備品の破損と言いますか、まあそれはお互い様ではあるので今回は結構です。それで、羽瀬川さんを使ってあんなところで何をされていたのですか?』

『何を……と、言いますと? すみません、仰っていることがよく理解できないのですが』


 見え透いた嘘を無視して弥永が言った。


『渋谷区の1-22−26のビルをご存じですか?』


 まったく聞き覚えのない住所──念のため過去に自分が取り扱ったかどうかを確認したが、やはり該当の建物についての情報はなかった。赤星は率直に言った。


『いいえ。そちらが何か?』

『田坂記念病院の医師が臓器の横流しに関わっている可能性があるのですが、送り先がそこになっていたんです』


 寝耳に水──さもありなん。自分が彼のトラブルに付け込んだのが始まりとはいえ、結果としてヤクザに手を貸して金儲けにいそしむような医者だ。他に副業を始めたとしても驚きはない。


『宛名はそれらしい研究機関名で、軽く調べてみたところ省庁の支援先として認定されていて助成金も受け取っているのですが、その住所が繁華街というのはあからさまにおかしいですよね?』

『そういうものですか』

『研究機関が対外的な事務処理を行ったり一部業務を委託するために外部に拠点を構えるというのは別に変わったことではないのですが、公文書に根拠地として記載するのは通常あり得ません』


 仕事相手の身辺は念入りに調査しているが、あの医者、ひいては病院も他の同輩が手を出しているようには見受けられない。つまり、自分ではない=八巻の仕業。


『少々お待ちください』


 赤星は組に所属していたころから付き合いのある不動産会社に片っ端から連絡を入れた。弥永との間で通話越しに5分間の沈黙が過ぎる。この時間帯だというのにすぐに返信があったのが4件、うち実際に取り扱ったことのある業者が1件──弥永の幸運のなせる業。八巻が独自の人脈を築いていたらお手上げだったが、自分の手元のビジネスを手掛けるだけで精いっぱいらしい。


『伝手をあたってみたところ見つかりました。いまお送りします』


 暗号化した不動産登記情報を弥永の仕事用のメールアドレスに送信する。しばらくして弥永が言った。


『ご協力感謝します』


 生贄はお気に召したらしい──赤星は内心胸をなでおろした。結果、八巻のビジネスが潰されたとしてもそれは奴の器量の問題だ。気が緩んだこともあって、普段ならば絶対にしない無駄話が口を衝いて出た。


『先生はいまその臓器の密売を追っていらっしゃるのですか?』

『あー、いえ、これは行きがかり上というか、ついでというか。お教えしても差し支えないので言ってしまいますが、リバティ・プレイスという教会の牧師さんに頼まれて人探しをしていまして』


 左頬の刀傷が疼いて赤星は目元をひくつかせた。


『なるほど、ご苦労様です』


 会話もそこそこに切り上げ、赤星は冷や汗を拭って私費や表に出せない金品から捻出した寄付金の贈り先のリスト、履歴に目を通した。


 履歴=20XX年11月16日/翌年3月/同年8月/さらに翌年の1月。今までに何度も寄付を行っている。リバティ・プレイス教会──子供たちにボクシングを教えている元ボクサーの人品卑しからぬ牧師が運営している赤貧の宗教法人。


 赤星は椅子を蹴倒しながら立ち上がり、ノートPCが浮き上がるほどの強さで両手をテーブルに叩きつけ、ワインクーラーに入ったボトルのネックを掴んで思い切り執務室の壁に叩きつけた。

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