第34話 ファイトクラブ 09

 渋谷区の桜丘町8丁目──裏に駐車場のある地上14階建てのマンション。仲介人から聞き出した番号の保証人の住所。


 入り口からまっすぐ進んだところにあるエレベーターのボタンを押して待っていると、到着したカゴ室から男が飛び出してきた。恵三は面食らって思わず飛びのき、男の行き先を反射的に目で追う。男は恵三たちには目もくれずにエントランスをまっすぐ横切り、ゆっくりスライドする自動ドアに手をかけて無理やり開くと、足をもつれさせながら外へ飛び出していった。


「血の臭いだ」


 ただごとではない様子を注視していた田中が鼻をひくつかせた。恵三も真似をして臭いをかいでみたが、充満する消臭芳香剤のもの以外を感じ取ることはできなかった。


「怪我をしてるようには見えませんでしたがね、あの走りっぷりは」

「では加害者か、あるいはまた別の何かか」


 明確なイメージがあったわけではないが、恵三は自分の頭のスイッチが切り替わったのを感じた──恐らくは田中もそうだろうという妙な信頼がある。エレベーターに入って12Fのボタンを押し、入り口から陰になる位置に弥永を寄せて盾になり、ジャケットの内側のホルスターに手をかけた。


 エレベーターのドアが開いて田中が飛び出す。恵三は右手で弥永の前を遮り、左手のH&Kのマガジンの底を操作パネルの〝OPEN〟に押し付ける。


 田中が戻ってきてエレベーターから出るよう告げる。「直接見てはいないが、恐らくひどい有様だ」


 花をあしらったブラウン系の壁タイルと、それよりはやや淡い色の天井の通路を通った先にある部屋番号Wー1211のドアを開けた瞬間、顔中にまとわりついてきた血の臭いに恵三はむせて咳き込んだ。玄関から伸びる廊下に繋がる3つの部屋のうち、入ってすぐの左手の部屋と奥のリビングからおびただしい量の血が流れ出している。


 恵三はドアから距離をとり、顔を背けて新鮮な空気を肺に入れた。「確かに、ひどい。なにかのトラブルですかね?」

「どうだろうな」田中が鼻先を差し込むようにして中を覗き込む。「見える範囲に死体がひとつ。微かな心音がふたつ。臭いからして他にもいそうだ」


 部屋の中に入ろうとする一人と一匹の前に躍り出て、弥永は指で×を作る。


「残念ですが、今の私たちには捜査権がありません。単なる一市民であることを忘れないでください。ここで好き勝手に振る舞うと後で色々と問い詰められることになりますよ」


 臭いのせいでやや顔色の優れない弥永が110番に連絡を入れる。警官がやってくるまで数分といったところ。黒いレトリバーはしばらく弥永に視線を送り続けていたが、自分の要望が通るみこみがなさそうだと悟ると、今度は恵三のブーツを前脚でひっかいてせっついた。


「分かってますって」


 恵三は部屋に立ち入らず、周波数を変えながら電波を飛ばして内部をサーチした。中にはPCが一台もなかったが、住人たちが持っていた個人用のデバイスが検知できた。薄っぺらいロックを突破して中に侵入し、通信履歴/チャットログ/SNSへの投稿を抽出。膨大な量──〝久瀬〟あるいは〝陽平〟を条件に、文章データを解析ソフトに送る。


 黒いレトリバーは狷介さをたたえた横顔で言った。「冷凍のピザ、フライドチキン、安いアルコールの類が血の臭いの中に混じっている。それと煙草と、アンフェタミン系の薬物。これといって特徴のない、よくあるチンピラの集まりのように感じるが……少し気になるのは、これだけ派手に殺されているのに、見える範囲では部屋が綺麗だということだ」

「あー、つまり、こう、争いのようなものにはならなかった?」

「そうだ。一方的に殺されたように見受けられる。おっと、まだ死んでいない人間もいるか。だが、あの出血量だと救急が駆けつけるまでに生きていられるかどうか」


 会話の隙間を見計らっていたかのようなタイミングで解析ソフトが結果を出力する。そこにあったのはこうだ──『日取りは?』『8日、4日後の22時からだな』『相手は?』『チャンピオン。心配するなよ久瀬、ちゃんとお前と同じ生身だ』『俺が勝ったら──』『分かってる。二度とお前と女に近づかない』


 言葉少なに交わされた二人の会話。端末に登録された通話相手の名前には久瀬と表記されている。今しがた手に入れた情報を一人と一匹に送り付けると、警察への連絡を終えた弥永が大きい歩幅で廊下を行き来しながらつらつらと喋り始めた。


「会話の雰囲気は友好的なものではなさそうですね。8日というと、つい一昨日ですか。そこで何かを予定していた。さて……久瀬陽平さんは後ろ足で砂をかけたかつての師に頼るくらいに切羽詰まっていました。その目的は、より実戦的なボクシングの練習をするため。なぜか? 答えは簡単。練習に、本番に備えるため以外の理由などありません。8日というXデーがその本番であると考えるのは、そう突飛ではないでしょう。佐藤さん、〝8日〟、〝試合〟、〝ボクシング〟、〝チャンピオン〟をキーワードにもっと詳しく調べられますか?」


 言われた通りに会話のログに再度の検索をかける。「試合をやった場所ですが、どうやら新宿のようですね」

 弥永が足を止めて振り返った。「新宿というと、後楽園ですか? それとも国立の体育館?」

「いえ、どうもそういう立派なところじゃなくて……あー、どこかの店、なのかな? これは?」

「お店、ですか」弥永は首を傾げていたが、気を取り直したように頷いた。「なんというお店なんです?」

 恵三は会話ログに頻出する単語を口にした。「ファイトクラブ、だそうで」





 店は悲鳴とも嬌声ともつかない騒音で充満していた。聴覚の感度を下げて建物内を見回す──すり鉢ぎみに中心部が低くなった建物の中央にはリングが設営されていて、それを取り囲む透明な壁には赤青緑といった色とりどりの汚れがへばりついている。床に散らばるガラス片を見るに、ヒートアップした観客が飲んでいたドリンクを投げつけたに違いない。


 リングの上ではスーツの上着を脱いだサラリーマン二人がフラフラになりながら腰の入っていないパンチの応酬をしている。フットワークも何もあったものではない。どこからどう見ても素人の喧嘩でしかなかった。近くを歩いていた店員を捕まえて聞いてみると、彼女はタイトミニに包まれた尻を強調するようにポーズを取ってから言った。


「いま行われている試合ですが、いわゆる痴情のもつれというやつですねー。会社の上司が部下に奥さんを寝取られちゃったみたいで」


 恵三は一瞬目を丸くして、笑った。「それで決闘を?」

 店員の持っていたトレイの上のカクテルに伸ばしかけた手を引っ込めて弥永も尋ねる。「裁判にはならなかったんでしょうか?」

「もちろん、なったそうですよ。普通は旦那さんの方が勝つと思いますよね? ところが奥さんに暴力を振るっていたのがバレちゃったらしくて──まあそれもあっての部下さんの行動ってことなんでしょうけど。で、もつれにもつれて、結局は双方とも弁護士費用が嵩んだだけの痛み分けに終わっちゃったらしいんですけど、その結果に納得がいかないっていうことでこうやって拳で決着をつけようってことになったらしいです」


 恵三は妙な感心を覚えながら客の声援に耳を傾けた。DV野郎は殺せと金切り声で叫ぶカーディガンをまとった美女もいれば、間男のペニスすりつぶせと唾を飛ばすトパーズのカフスボタンを付けた3ピースの紳士もいる。どうやら選手たちのバックストーリーは客に周知されているらしい──確かにそれなら大いに盛り上がりそうだ。


 恵三が言った。「なんか、客の身なりがいいですね」

 弥永が頷く。「そういうお店なのでしょう。入店──というより入会でしたが、それをするのにかなりの額が必要でした」

「どれくらいか聞いても?」

「佐藤さんの一か月のお給料とほぼ同額です」

「そいつは確かに、かなりの額ですね」

「紳士淑女の社交場ということでしょう。いささか下品だとは思いますが。高い入場料はあらかじめ胡乱な客を弾けますし、お金を払っている側にとって優越感に繋がるという利点もあります」


 そういうものかと納得して、恵三はまだ近くにいる店員に聞いた。


「ここではいつもそういう……えーと、なんだ、わだかまりを抱えた人間同士を見つけてきて、戦わせてるってことなのか?」

「最近はそういうのが多いですねー。ああでもちゃんとした試合もありますよ。ボクシングとか、キックとか、総合なんかもやったりしてます」

「なるほど、ボクシングですか」弥永が小さく二回頷く。「そのボクシングについて少しお聞きしたいのですが、久瀬陽平という方をご存じですか? こちらで試合を行ったと小耳に挟みまして」


 弥永の質問に店員は笑顔で頷いた。


「もちろんですよー、つい最近ですもん。いつもは一方的に遊んで終わらせちゃうチャンピオンが真剣な顔してたのなんて、あの日くらいじゃないですかね? もう本当にどっちが勝つか分からないくらいで、私なんて仕事を忘れてずーっと試合見てましたよ。結局は負けちゃったんですけど、本当に惜しかったんですよ? 彼、有名人なんですか?」

「そんなところです。その久瀬さんにお会いしたいのですが──」

「ええー? どうなんでしょう? お店で試合する人って、基本的に店長さんが連れてくるんですよねー」


 店員は近くのカウンターに突っ伏していた、金髪を後ろで結んだポロシャツの男の背中をゆすった。


「ねえ、コールマンさん、知ってます?」


 ポロシャツの男は空になったロックグラスを握りしめたまま微動だにしない。顔は真っ赤で、半開きになった口からは、涎か飲みかけの酒か分からないものが流れ出ている。打ちひしがれた姿──ここまでひどい酔い方をする人間は珍しい。


 弥永は訊いた。「そちらの方が店長さんですか?」

「あはは、まさか。ほら、さっき言ったチャンピオンですよ、ボクシングの」


 弥永は意表を突かれたような顔をして、しばらくコールマンと呼ばれた男を観察する。


「失礼ですが、そうは見えませんね」


 恵三の受けた印象としてはまた違った。少なくとも体つきは戦う男のものであり、よく鍛えられているのが背中のシルエットからでも分かる。それに、酔ってはいても意識はあるらしく、名前を呼ばれてから、僅かながらこちら側に意識が向いている。


「そうなんですよねー。お酒が入ってないときは別人みたいにカッコいいんですけど、試合がない日はいっつもこんな風に酔いつぶれてるんです」

「こちらの方が久瀬さんの連絡先をご存じなんですか?」

「このお店で働いて長いらしいですし、何か知ってるんじゃないかなー? と思ったんですけど」


 店員がコールマンを起こすのをあきらめて、ばつが悪そうに首を傾げた。弥永が笑顔で小さく手を振る。店員は愛想を振りまきながら観客たちの間に消えていった。


『彼、起きてますよ』


 恵三が伝える。どうするつもりなのか、なりゆきを見守っていると、弥永は酔っぱらいの隣に腰を下ろした。


 試合が2ラウンド進み、間男がTKO勝ちを決めてゴングが鳴っても、弥永は背筋を伸ばして座ったままで、一言も喋らなかった。やがて根負けしたコールマンが重苦しそうに瞼を開いて隣に目をやると、弥永は出し抜けに言った。


「どうして前後不覚になるまで痛飲していらっしゃるのですか?」

 コールマンは返答に困ったように口をもごつかせた。「酔いたいからさ」

「酔うのがお好きということですか?」

「いや……そこまで好きではない」

「なるほど」弥永が小さく頷いた。「何か、嫌なことが?」

「仕事で、少し」

「お仕事ですか。いったいどんな?」


 コールマンがカウンターに手を置いてゆっくりと体を起こし、グラスを握りしめていない方の拳を、音が出そうなほど強く握り固めた。


「こいつを使って、誰かを殴り倒す素晴らしい仕事さ」

「お仕事でトラブルが?」

「いや、すこぶる順調だよ」

「では、どうして?」


 コールマンはおぼつかない手つきでグラスを口元にやり、中身が入っていないことに気づいて、首を振って店員を探した。回りは騒々しく、誰もが忙しそうで、そのくせ彼を中心とした半径3mだけ周囲の空間から切り取られたように静かだった。コールマンは肩を落とすようにグラスをカウンターに置いた。


「才能ある若者の未来を奪ったんだ。彼の境遇は彼自身が招いたものだろうし、これがビジネスだっていうのも理解している。でも、それでも、普通は気に病むものだろう?」


 恵三は名前と容貌の特徴からネットで検索をかけていた。リアム・コールマン──2年前までプロとして活動していたボクサー/8戦8勝7TKOの輝かしい戦績/所属していたジムと直接の親である企業が共謀して行っていた八百長のスキャンダル疑惑に巻き込まれる形で人気が低迷──以後の消息は不明。


 企業の製品であるアスリートの移籍は、別の企業が開発した工業製品を売り出す企業が無いように、ほとんどのケースでは行われない。また、イメージにケチがついた選手をそのまま再利用することもない。新しいものは常に生み出され続けている。この情報を共有しようとして、恵三はやめておいた。


「このまま今のお仕事を続けられるつもりですか?」

「僕にはこれしかない。これをするために生まれてきたのだし、これしかやってこなかった。今さら何か他のことができるとは思えない」


 恵三は黙っていた。二人の会話に口を挟まず、ただ後ろで突っ立っている。職能が自身を構成する要素の中核にあり、それが志向性として現れている恵三のような人間には、彼に対してなにかを口にすることは憚られた。


 弥永は構わず口を開いた。「あなたが才能あると仰った少年ですが、彼の生まれは生産施設ではありませんでした。そして、ボクシングを学んだのは、10歳を過ぎてからだそうです」


 コールマンが動揺した顔つきで弥永を見つめた。呼吸が乱れ、落ち着きのない様子でグラスを握る手を開閉している。弥永がそっと自分の名刺をカウンターに置いた。


「色々と、チャレンジしてみるのもそう悪いことではないと思いますよ。もし何かお困りのようでしたら、こちらにご連絡ください」


 コールマンは俯いて歯を食いしばっていたが、やがてふり絞るような声で言った。


「対戦相手は店側が決めていて、その辺りがどうなっているのかは僕も詳しくは知らないし、詳しい事情も分からない。ただ、たまに、重要な試合だから負けるな、と念を押されることはある。多分、大金がかかってるんだと思う。この店では試合の勝敗について賭けが行われているから。それで、その……何か月か前に、打ち所が悪かったのか、店に救急車が来て、直接搬送された相手がいたんだ」

「それで?」

「後日、お見舞いに行ったよ。そうしたら、既に亡くなっていたんだ。死因を聞いたら心不全だと──心臓なんか、一発も殴っていないのに」


 弥永が勢いよく立ち上がった。


「その病院の名前は分かりますか?」

「田坂記念病院。僕も含めて、店で怪我をしたスタッフはそこにお世話になってる」

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