第33話 ファイトクラブ 08

 買い出しを終えて溜まり場として使っているアパートメントに工藤が戻ると、見たことのない女が部屋の前であたふたしていた。インターホンに触れようとして手を引っ込める/アパートメントのドアに近づいたかと思えばすぐに背を向ける/手に持ったてタブレットの画面と部屋番号を何度も見比べる──いちいち動きが忙しなくていらついてくる。工藤がいっさい無視して割り込み、ドアに手をかけようとすると、その挙動不審を人間の形にして3Dプリンターで出力したような女が上擦った声で叫んだ。


「あ、あの!」


 工藤は舌打ちして肩越しに振り返った。女は背中を丸めて俯いており、顔をほとんど覆った前髪の隙間からひきつった笑みが見える。


「あ? なんか用?」


 女は答えなかった≒答えようと口を動かしているが声が出ていない。相手にする気も失せて部屋に入ろうとすると、あろうことか女は閉まるドアの間に手を挟んで無理やり中に入ってきた。


「あ、ああっ、その、ええと……フラ・ダ・リから来ました……」


 その女の気味の悪さよりも、自分のテリトリーに無神経に踏み入ってきたことに対する怒りが勝った。工藤は女の着ているスーツの襟首を掴んで捻り上げ、壁のシューズボックスに押し付ける。


「殺されてえのか」


 握り固めた拳を振り上げようとする前に、騒ぎを聞きつけて玄関近くのキッチンから山岸が顔を出した。


「なになに? なにキレてんのよ?」


 外で買ってきたアルコール類とスナック菓子の入ったビニール袋を山岸に向けて放り投げて工藤は言った。


「頭のおかしな女が勝手に部屋に入ってきたんだよ。フラダリがどうとか訳のわからねーことブツブツ呟いてやがる」

 山岸が笑った。「それ、あれだろ、フーゾクのやつ。お前、聞いてない? 久瀬の女を売っぱらう話」

「ああ? なんだそれ?」

「いや、どこの誰だか知らねーけど、あのジャンキーを買いたいっつって大金積んだ奴がいるらしい。リーダーが笑ってたぜ」

「そ、それですぅ! そのお店から来ました!」


 女が砂漠でオアシスを見つけたようなテンションで首を縦に振った。渋々解放してやると、女は嫌になるほどしつこく頭を下げ、100度目の借金を頼んでいるような声で言った。


「それで、そのう、木間さんという方はどちらに?」


 工藤は付いて来るよう手振りで伝え、無言で部屋の奥へと進んだ。リビングルームには、仲間が半裸のままくつろいでいた。


「後ろのそれは?」丁度シャワー室から出てきたチームのリーダーである勝間が言った。

「女を引き取りに来たそうですよ」


 肝心の女はどこにいるのかと工藤が聞くと、大股を開いてソファーに座ってテレビを見ていた深山が足元に向けて顎をしゃくった。ソファーを回り込む──フローリングの上に全裸の女がうつ伏せに横たわっていた。リビングのテーブルの上には蓋の開いたドラッグケース。


「迎えが来たぞ。早く起きろよ」


 渕上が空になったビール缶を投げ捨てて女に近づいた。ここ数日ですっかり艶のなくなったぼさぼさの髪を、スナック菓子の粉と油がついた手で掴んで引っ張った。ぴくりともしない女。それを見て薄ら笑いを浮かべる他の面子。


「あの……その……代金はお支払いしましたし、その方はもう、うちの従業員になったわけですし、そうなると、ええと、私としても、彼女の安全に配慮しなければならないというかですね」


 背後からぼそぼそ喋る声がして工藤は肩越しに振り返った。フラ・ダ・リの女がスーツのパンツを握りしめ、うつむいて床を凝視しながら声で抗議らしきものをしている。工藤は狭い廊下の壁に背中を張り付けるようにして道を開け、背中を押してフラ・ダ・リの女を部屋の中へと押し出した。


「あ? いや別にいじめてるわけじゃねーって。そうだよな?」


 渕上が半笑いで凄んで木間綾乃の髪を引っ張り、頭を上下にがくがくと揺らして無理やり頷かせた。


 工藤は──仲間のことは彼なりに大事に思っていた。それなりにウマが合うし、仕事も回してもらえる。だからこそ、こうやってつるんでもいる。それでも目の前の光景に対して、胸のすくような気分にはなれなかった。


 久瀬という男は自分から口を開くことは稀で、こちらが冗談を言っても笑うことはなかったし、客が子供や女だと分かると脅して追っ払い売り上げをふいにすることも時折あったが、不思議と悪い感情を抱いたことはなかった。度胸があり、腕っぷしが強く、それでいてこちらを軽んじるような素振りはみせない=つまり、そう悪い奴ではなかった。


 工藤はなんとはなしに、このチームから抜けて、フリーでなんとかやっている自分についてぼんやり考えた。その目の前を不意に何か大きなものが横切っていく。何かが飛んでいった方に目を向ける──赤い液体で汚れた窓のフロートガラスと、その真下に落ちている人間の腕。


 全身の筋肉が強張る。攣ったように痛む首を回して顔の向きを戻す。女の髪を掴んでいた渕上の右腕が根元から無くなっていた。


 肩口の切断面から噴き出ている真っ赤な血を呆然と眺めていた渕上は、そのうち力なく笑い、次第に涙を浮かべ、ついには取り乱して絶叫した。


 その場にいるほとんどの人間が困惑で硬直しているなか、フラ・ダ・リから来たと名乗った女が申し訳なさそうに頭を下げながら木間綾乃に近づき、床の上から引き起こして肩に担いだ。どこから取り出したのか、刃の部分が人の腕ほどもある刃物を手にしている。


 女が引きつった笑みで言った。「あの、えっと……木間さんはお引き渡しいただいたので、その、失礼します」


 反射的に女を掴みにかかった張の手が斬り飛ばされて天井の蛍光灯にぶつかった/テーブルの灰皿を掴んだ深山の右足の膝から下が無くなった/キャスターボックスの上に置いてある銃に手を伸ばした勝間の頭が座椅子をぶつけられてひしゃげた/キッチンから持ってきた包丁を握った山岸の震える両手の指がまとめて床に散らばった。


 フラ・ダ・リの女が玄関で振り返ってたどたどしく頭を下げ、部屋を出ていく。


 工藤は尻もちをついた。フローリング一面に広がる血でズボンが濡れ、その生暖かさに眩暈がして視界がぐらぐら揺れた。女が部屋に無理やり入ってきたときにその襟首をつかんだことを思い出して、コンビニからの帰り際に食ったフライドチキンを血だまりの上に吐き出した。


 泣き声とうめき声が聞こえる。工藤は耳をふさいで喘息にかかったような深呼吸をし、よろめきながら体を起こして、のたうち回る仲間たちから金目の物を剥ぎ取り、寝室のクローゼットの奥にリーダーが隠していた現金をポケットに詰め込んで、できるだけ周りを見ないようにしてよたよたと部屋から飛び出した。




 ******




『もしもし』

「あっ、オーナーですか? 羽瀬川です。言われたとおり木間さんを引き取ってきました」

『ご苦労様でした。いつもながら唐突なお願いで申し訳ありません』

「いえ、大丈夫です! これくらいならいつでも仰ってください! あっ、でもですね、そのう……ただ……」

『ただ?』

「先方とトラブルを起こしてしまって……いえ、違うんです、決して故意ではないんです」

『なんだ、そんなことですか? 正当防衛だったのですか?』

「は、はい、そうです! 視界の映像も証拠として出せます!」

『でしたら結構、いっさい問題はありません。まあ、訴えるような真似ができる連中ではないでしょうが。それで、全員殺したのですか?』

「いえ、それは、その、銃を使おうとした一人だけで──あ、でも、他の人もこのまま放っておいたら失血死するかもしれません……」

『願ったり叶ったりというところですね。そんなことより、木間さんの様子はいかがでしょうか?』


 羽瀬川が日産ADの後部座席を振り返った。横たわっている木間綾乃に意識は戻っておらず、胸が弱々しく上下している。


「あまり体調が思わしくなさそうです」


 通信機越しに赤星が大きくため息をついた──怒りの表明。


『期待はしていませんでしたが、こうも予想通りだと嫌になりますね。ああ、今のは羽瀬川さんに対してのものではありませんので、念のため。それで、容体のほどは? 危険な状態ですか?』

「呼吸は安定していると思います。ええっと、私は医者じゃないので、正しいかどうかは分かりませんが、その」

『ゆっくりで構いません』

「はい」羽瀬川は呼吸を整える。「命に別状はないと思います。ただ──」

『ただ?』

「後遺症というか、心の方に、問題が出るかもしれません」

『……手ひどく扱われていたようですね。病院の方を手配しますので、そちらに運んでもらえますか?』

「はい、分かりま──あっ」


 羽瀬川が返事の途中で間抜けな声を上げた。


『どうされました?』

「あ、いえ、大したことでは」


 少し考えこんだような沈黙の後、赤星が聞いた。


『気になりますね。ああ、いえ、別に叱責しようというつもりではないんです。羽瀬川さんが気を取られるというのも珍しいと思いまして』

「あの、本当に大したことではないんです。ただ」

『ただ?』

「弥永先生が、私が出てきたのと同じ建物に入って行ったので、そういう偶然もあるんだなあって。本当に、ただそれだけなんです」

『……どなたが入って行ったのか、もう一度お願いします』

「弥永先生です」


 赤星がまた沈黙して、言った。


『木間さんを今から言う病院に送るついでに、またひとつ仕事をお願いしてもよろしいですか?』

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