第29話 ファイトクラブ 04

 フラ・ダ・リのオーナー用個室兼執務室で、赤星博章は切れ長の目をさらに針のように細めて山ほどのメールを流し読みしていた。店内で起こった刃傷沙汰の事後報告に目じりがひくついて頭痛が起こる──半ば自業自得。トラブルを抱えざるをえないような業態の店ばかりを運営しているせいだった。


 付き合いのある人物から店舗オーナーとしての立場を羨まれることが度々あったが、仕事の内容は地味かつ過酷なもので、ほぼ毎日、苦情と要望の処理や不正のチェックに起きている時間が消費される。加えて定期的に/あるいは不定期に店を巡回して様子を見に行かなければならない。


 店が上手くいっていればいいが、そうでない場合は指摘や注意を行う必要がある──やんわりと/毅然とした態度で──反感を抱かれないように。労基法によれば雇用者と労働者の立場は対等であるらしいが、この仕事をしているとまるで自分の側が奉仕者であるような気すらしてくる。


 赤星は今夜のシフトを確認し、内線で従業員の待機室に連絡を入れた。「羽瀬川さんはいらっしゃいますか? もし手が空いていれば、こちらに来ていただきたいのですが」


 一服する間もなく羽瀬川が部屋にやってくる。体の前で組んだ両手が落ち着きなく動いている/俯いてほとんど髪に隠れた顔はぎこちなく痙攣している──いつも通りの挙動不審=彼女なりの精一杯の愛想の表現。


 赤星は席を立って歩み寄った。ほんのりとおがくずの匂い──彼女は手すきになったとき、自分のデスクで木彫りのミニチュアを作って時間を潰している。完成品はネットオークションで高値がつくほど精巧な出来だ。


「もしよろしければ、このあと付き添いをお願いしたいのですが。もちろん、手当は別にご用意します」


 相手が拒否しないことを見越しての要請──赤星はやや憂鬱な気分になる。相手が金のためにそれを受けるのではないということを知っているのであれば尚更。


 羽瀬川は何度も細かく頷いた。「あの、その、また何かの交渉の席ですか?」

「いえ、ただの店の視察なのですが、念には念を入れてというところです」


 ポールスタンドから背広の上を取って外へ。店を出る途中にすれ違った従業員たちに頭を下げられる。かしこまった態度はあまり好むところではなかったが、被雇用者である彼らの立場からすれば致し方のない行動。


 羽瀬川の運転で新宿へと向かう。時刻はちょうど零時を回ったところ──駅に近づくにつれ活気が満ちてくる。この街は今も昔も眠ることがない。往来を歩く人々=ネグロイド/コーカソイド/モンゴロイド。職業/ファッション=どちらも統一性なし──人種と同じく。年齢/性別/体の機械化率いずれもバラバラ。


 そんな彼らで構成されるこの街には、秩序というものが欠落している。視界の端に映った流血沙汰と、それを気にも留めない通行人たち。赤星は虚無的な表情のままこみ上げる怒りを飲み込む。


 人に囲まれて身動きが取れなくなる前にパーキングにスズキのハスラーを停める。二束三文で手に入れた事故車であるため盗難されようがパーツを抜かれようが痛くも痒くもない。


 行列の出来ている表側ではなく裏通りを歩く。休憩中と思わしき近隣の店で働くサービス業の男たちが、羽瀬川の腰のブレードを見て慌てて逃げ去っていく。搬入口を使ってクラブに入り、ベストを着た若いアルバイトを掴まえて赤星は聞いた。


「店長はいますか? 赤星が来たと伝えていただきたいのですが」


 怪訝そうにしながらもアルバイトは店の奥に向かう。すぐに三十がらみの髪を染めた男が小走りにやってきた。


「赤星の兄さん、来るなら言ってくだされば……ちゃんと迎えを寄こしましたのに」

「抜き打ちじゃないとチェックにならないだろう」


 男──八巻英明が苦笑した。赤星がフロアの方に親指を向ける。


「見ていくが、構わないか?」

「二階のボックス席を使ってください。そこからなら見晴らしがいいですよ」

「予約が入ってるんじゃないのか?」

「断りを入れますよ。何か飲まれますか?」


 ノンアルコール、とだけ言って赤星は指を二本立てた。ひとつは羽瀬川の分。八巻の言葉に甘えて二階に向かっている途中で羽瀬川が何かぼそぼそと口を動かした。店は音楽と客の歓声が充満している。赤星は彼女に耳を近づけた。


「えと、その、弟さんがいらしたんですね」

 赤星が首を傾げる。「ああ、いえ、先ほどの兄さんというのは特定業種における上役を指す呼称とでも言いますか……まあとにかく、血縁というわけではありません」

「あ、そ、そうなんですね」羽瀬川がうろたえて汗をかく。「あの、でも、オーナーが慕われているんだろうなっていうのは私にも伝わってきました!」


 赤星は顔だけで笑った。少なくとも八巻は自分のことを有用だとは思っているだろう。好意的かどうかは分からないし、どうでもいいことだった。


 赤星にとって、八巻はこの世から消えてしまっても何ら問題ない存在だ。むしろ死んでくれた方がいいと常々思っているし、可能ならば今すぐにでも関係を断ち切りたいと願っていたが、過去のしがらみのせいでそうすることが容易ではない。


 八巻は赤星がかつて所属していた犯罪組織における部下であり、組織が事実上壊滅して足を洗ったとはいえ、その縁で成り立っている仕事も多い以上、渡世の義理を疎かにしては商売が成り立たない。


 案内されたボックス席はバルコニー状になっていて、眼下には1階ホールが全て見渡せるようになっていた。


「ずいぶん、変わったお店なんですね」


 羽瀬川が店の中央に設置されたボクシング用のリングを見下ろして言った。ちょうど試合が行われていて、二人の男たちが拳の応酬を行っている。


「ここの店長が──さっきの男なんですが、アングラの格闘技に思い入れがあるようで、それを形にしてみました。ただそれだとはっきり言って利益が出ませんので、こうして雰囲気をカジュアルにしてドリンクや軽食の類も提供する形にしてみたというわけです。もっぱらの収入源はそちらですね。それとあまり大きな声では言えないのですが、実は試合の勝敗について店側が胴元となって賭けもやっていまして。そう大した額ではないですし、ここらで影響のでかい企業や警官に金を掴ませているので今のところ大したトラブルは起こっていません」


 羽瀬川が分かったような分かっていないような顔で頷く。赤星は苦笑した──少なくとも嫌悪感の湧くような反応ではない。


 赤星も下の様子を窺った。店は盛況しているといっていい。金と暇に飽かして他人が打ちのめされる姿を肴に乱痴気騒ぎする客たち──心底反吐が出る思いだった。それを主催する側に対しても同様の思い=自分自身も含めて。下劣な、この世から消えてしまっても何ら不都合のない人間たち。


 しかし、金にはなる。ゴミクズどもから巻き上げたものを、それを必要としているより良い人たちに配分する──この世で最も価値のある行為のうちのひとつ。そして、同時に赤星の生きがいでもあった。


 スタッフたちの働きぶりが申し分ないことを確認し、赤星は店の目玉であるボクシングの賭け試合の方へと視線をやった。跳ね回るようなフットワークでリングを動き回り、本命をぶち当てるために目にもとまらぬ速度で矢のような牽制を繰り出しあう二人。


 素人目には互角の勝負に見える。赤星は手持ちのデバイスで今日のカードを確認した。片方は店側が用意した連戦連勝中のチャンピオン。挑戦者の方はというと、まだ未成年だが過去にプロのライセンスを所持していたことがあるらしい。どちらも身体は未改造で、体重も近い。不公平なマッチングも当たり前のように行われるこの店の試合において珍しく同条件といっていい。


 プロフィールの付記事項から二人とも止むに止まれぬ事情で闘っていることが分かったが、自分は彼らに同情できる立場にはない。


 羽瀬川はというと、まるで出先に連れてこられたペットのようにけばけばしく光る店内をおっかなびっくり眺めている。肝心のリングと、そこで行われている試合には興味を惹かれないようだった。まったく当然の話──自分には目で追うことすら困難な死闘だったが。


「羽瀬川さん、あの試合、どちらが勝つと思いますか?」


 赤星が尋ねる。羽瀬川は左右を見渡して、自分が聞かれたのだということを数秒かけて理解してから言った。


「ええと、そうですね、たぶん、鷹の入れ墨をしている男のひとの方が勝つんじゃないかなあと……あ、あ、ボクシングは専門外なので、自信はないですけど……」


 上下に打ち分けるジャブ/前に出ながらカウンター狙い/足を使ってコーナーからの脱出/足を止めて打ちあいを試みる/果敢に攻めたところで出迎えるフック。


 一進一退の試合が続く。ラウンド数は6まで来ていた。両者ともに顔に腫れが目立ち始めている。今のところは──スピードで勝る挑戦者の方が有効打を当てているように見えた。


 ラウンドをまたいでチャンピオンの動きが変わった。いくぶん冷静になったように見える。前にでるだけでなく下がりながらパンチを打つようになり、フェイントの数も増えたように思える。俄然、試合の行方が分からなくなってきた。


 足運びのパターンの頻繁な切り替えによる距離のコントロール勝負──コンビネーションが飛び交う中で、チャンピオンの有効打が挑戦者の右わき腹に決まった。左ジャブ/右アッパー/ガードが上がったところに左のボディがクリーンヒットする。


 挑戦者がよろけながら下がって堪えようとするが、ついに両グローブをマットについた。無情に進むカウント──たっぷり8まで呼吸を整え、立ち上がってファイティングポーズを取ろうとした。だが、彼の足が彼の意思を拒絶した。


 10カウント=ゴングが鳴り響く。


 赤星はいつの間にか汗ばんでいた手をハンカチで拭いた。いい試合だった──掛け値なしにそう思う。柄にもなく拍手を送りたい気分だった。しかし、それはできない。これから挑戦者の方には莫大なペナルティが課せられる。それが彼と店との契約だった。


 契約は履行されなければならない。約束は守られなければならない。それが最低な人間である自分の、せめてもの矜持だった。

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