第28話 ファイトクラブ 03
大栄ジムはビルの2階を改装して運営されていた。1階はディスカウントショップ/3階より上は普通の居住区域。エレベーターを使わずにわざわざ階段を上る弥永は物珍しそうにしている。
「フィットネスに興味が?」
恵三が聞いた。弥永が心外そうな顔でスーツの上から二の腕をつまむ。
「ええー? 必要そうに見えます?」
恵三は愛想笑いでやり過ごした。見た目で判断すると痛い目にあう──何事も。
踊り場から延びる通路と直接つながったジムの入り口に立つ。ブーツがフロアをこする音/揺れるサンドバッグ/リングで汗をまき散らす男女/壁にはファイティングポーズを取ったボクサーの写真がずらりと並んでいる。立ち込める熱気に恵三は思わず顔の前を手で払った。
「すみませーん!」
弥永が声を上げて手を振る。スパーをリングの脇で眺めていた男が振り返って営業用の顔になったが、高そうなスーツの女、みすぼらしいフライトジャケットの男、黒い犬という取り合わせをみて笑顔を取り下げる。
弥永が男に名刺を渡す──相手は、弁護士、と呟いて戸惑ったような表情。いつもの儀式。
「いったい、どういったご用件で?」
「久瀬陽平さんがこちらにいらっしゃると聞いて伺ったのですが。私たちは彼の行方を追っていまして、なにかお聞きできればと」
名前を聞くなりジムのスタッフが顔をしかめた。
「オーナーの知り合いからの紹介ということで、しばらくジムの隅っこを使わせてましたよ。ここ最近は顔を見せてませんがね」
「そう窺っています。行方に心当たりはありませんか?」
「さあ。とにかく無口なやつで、ろくに世間話すらしませんでしたから」
「だから良い印象を持たれていない?」
質問を拒絶するように腕を組むスタッフ。弥永は微笑んで、言った。
「久瀬さんと仲が良かったかたはどなたかいらっしゃいますか?」
「いないと思いますよ」
「では、多少なりとも関わりのあった方は?」
スタッフがリングに向けて手招きをした。二人の話を盗み聞きしているせいで手のとまっていたボクサーの片割れがやってきて、ロープによりかかる。
「久瀬について聞きたいんですって、お姉さん?」
「はい。どんな些細なことでもいいので、教えてもらえませんか?」
弥永が見栄えのする笑顔で言った。ボクサーが肩をすくめておどけてみせたが、良い気分になっているのが傍目にも分かった。
「そう言われてもねえ。サンドバッグやパンチングボール、スパーリングの相手を殴る以外だと、ああ、とか、そうか、とか、相槌を打つくらいしかやってなかったからな、あいつ。気づいたらいつのまにかジムにいて、ろくに挨拶もなしで空いてる器具を使ってるような奴でしたよ。もしかすると喋れなかったのかも。ああ、いや、『スパーリング頼む』って言葉は知ってるみたいだったな」
「では、特に個人的なことについては話さなかった?」
「ええ。ひとつも」
「そうですか。ありがとうございます」
弥永は丁寧に頭を下げて、スタッフに向きなおった。
「ええと──そういえば、お名前を伺ってませんでしたね。私としたことが、失礼しました」
「津山です」
「では津山さん、改めてお聞きしますが、あなたが久瀬さんに悪感情を抱いているのは何故ですか? ただ不愛想だったから、というふうには見えませんでしたが」
津山はばつが悪そうにゆっくりと首を回した。
「あいつが来るようになってしばらくして、ガラの悪い連中がジムの周りをうろつくようになったんですよ。ジム生が絡まれてひどく迷惑をした。で、ジムがそのことで騒ぎになったときに、彼の方から言ってきた。自分のせいだと。だからはっきりと告げたんです、悪いがもう来ないでくれってね」
恵三が弥永に伝えた。
『このビル、外壁やら内部に監視カメラついてますし、映ってるかもしれませんね。そいつら』
弥永は両方に頷いてみせた。
「津山さん、こちらのビルの監視カメラの映像を見せていただくことはできますか?」
「そういうことはビルの管理人にでも言ってください」
「それもそうですね。分かりました」
礼を述べてジムを去る間際、恵三が振り返った。
「ああそうだ、久瀬くんってのは、どんなもんだったんです?」
恵三が下手くそな構えで2、3発のパンチを空に放った。ボクサーが着ているシャツをまくり上げる──ボディにくっきりと残ったいくつもの青あざ。
「なかなか、大したもんでしたよ」
*****
移動中の弥永の車の中で、ビルの管理人を丸め込んで該当の箇所だけ切り出した映像を詳しく調べる。映っているのはストリートファッションの三人組だった。恐らくは少年といっていい年齢──久瀬陽平と同年代。
「これが、久瀬くんのつるんでた奴らってことですかね? 仲間から抜けようとしているのをよく思ってなかった?」恵三が言った。
「あるいは、まったく別のトラブルか」田中が息を吐くように別の可能性を提示する。
「どちらにせよ……一応の手がかりは見つかったわけですが、ここからどうするんです?」
この顔画像から国民IDや犯罪履歴を調べられるならすぐに済む話だが、今は公権力を頼ることはできない。
「人間にはそれぞれ行動範囲というものがある。犬も同じだが」田中が自分のジョークに低い声で笑う。「面白いことに、それがまったく別の個体であってもその性向が似通っている場合、行動範囲まで似たようなものになるということだ。誤解を恐れずに言わせてもらうが、これまでの情報をみるに久瀬くんは少々素行に問題があったようだ。つまり、どういうことか分かるか、佐藤?」
「チンピラの行きそうなところに行って聞き込みするってことですね」
弥永が区営の駐車場にフィアットを停める。一等地ではないが、かといってダーク・タウンからはかけ離れた、やや古めかした建物の並ぶ猥雑な雰囲気の通りだった。弥永がHalalの文字の書かれたネパール料理店へと入る。昼食にはまだ早いどころか準備中のプレートがかかっていた。
「すいませーん、まだ営業時間じゃ──」
奥から慌てて出てきた東南アジア風の顔つきをした男の顔が凍り付いて小さな悲鳴を上げた。背を向けて逃げ出そうとしたところをレトリバーが素早く回り込んで退路を塞ぐ。
「ここは?」
恵三がスパイスの匂いが充満する原色のきつい店内を見回した。テーブルにかけられた薄紫のクロスはいかにも安っぽく光っている。
「見ての通りの料理店ですが、実はこの辺りに住んでいる同郷の人たちの集会所のような役割も担っていまして」
「ああ、そういう」
弥永の説明を受けて恵三が細かく頷いた。外国人のコミュニティ──ありていにいって犯罪グループ──の経営している店というわけだ。男の怯えた顔を見るに、弥永とはひと悶着あったらしい。
「お久しぶりです、バハドゥールさん」弥永が言った。
男が視線が弥永と背後の犬との間で行ったり来たりしている。「今日は、その、なんのご用でしょうか。何も悪いことはやっていません」
「本当ですか?」
「本当、本当です。もうクスリも売ってないし、詐欺もしてない。日本人も殴ってない」
弥永が男の肩越しに田中を見る。田中がその言葉が真実であることを保証するように頷いた。
『今のはどういう理屈で頷いたんです?』恵三が聞いた。
『体臭の変化だ。不自然な行為は不自然な変化をその体にもたらすもので、とっさの行動ならなおさらというわけだ。100%、というわけにはいかないが、なかなかに当たると自負している』
恵三は肩をすくめた。犬の特性を生かした洞察──まったく恐れ入る。
「バハドゥールさん、今日はちょっとお尋ねしたいことがありまして。もしかするとご存じなのではないかなあと」
「はい、はい、私に分かることならなんでも。でも、それならわざわざ足を運ばなくても、電話なりメールで尋ねてもらえればよかったのに」
「いやだなあ、そうすると逃げたり居留守を使ったりするじゃないですか」
男が体を小さくしながらへつらいの笑みを浮かべる。弥永がタブレットの画面を向け、数枚のスクリーンショットをスライドさせた。
「こちらの方々に見覚えは?」
男が画面をのぞき込む。
「若いですね。日本人ですか?」
「ええ、多分。何かしらの犯罪組織に関わっている可能性もあります」
「うーん……ちょっと、分からないです。同じ国の人間ならともかく、私とは年代が離れてるみたいですし。他のやつなら、知ってるかも」
バハドゥールの手招きで厨房からちらちらとこちらの様子を窺っていた若い男が呼び寄せられる。
「おい、こいつらについて知ってるか?」
若いコックが濡れた手をエプロンで拭きながら目を細めてタブレットに目をやる。画像が久瀬からストリートファッションのチンピラBへと移った瞬間、あっと声を上げて画面を指さした。
「こいつ! 俺を殴ったやつ!」
弥永に詰め寄られてコックがのけぞった。
「詳しくお聞かせ願えますか?」
「えっと……クラブで飲んでたら、俺のシャツがダサいとか、ぼろいとかで若い日本人が笑ってきて……酒も入ってたし、むかついたから殴ろうとしたら」コックが画面の男を再度指さした。「そいつの連れの、このグレーのパーカーの奴に、カティサークの瓶で頭をぶん殴られた」
コックが自分の髪をかき分ける。今はもうふさがっているが、そこには裂傷の縫い目があった。初耳だぞと息巻くバハドゥールを遮って弥永が聞いた。
「なんていう店だか覚えていますか?」
「忘れるわけがない。ガルベラって店だよ」
「道玄坂の?」
「そう」
弥永が少し難しい顔をして固く握った拳を口元に当てた。
「ありがとうございます」
店を出る。何か考え込みながら足早に駐車場へと戻ろうとしている弥永に追いつきながら恵三が聞いた。
「その、ガルベラって店、何かあるんです?」
「その店のオーナーが顔見知りでして」
恵三が両手をポケットに突っ込んだ。「なんだ。話が早くていいじゃないですか」
「それがなかなか……赤星さんというのですが、癖の強い方でして」
「羽瀬川氏を覚えているか、佐藤?」まるで斥候のように駐車場までの道をクリアリングしていた田中が戻ってきた。
羽瀬川蓮花──高級風俗店の用心棒/極度のコミュニケーション障害/半分生身にブレードの組み合わせで軍の兵器を叩き切るサムライ=忘れようとしても忘れられないキャラ。
「そりゃ、まあ」
「彼女の勤め先──フラ・ダ・リのオーナーでもあるのさ、赤星氏は」
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