第26話 ファイトクラブ 01

 選手用の待機室には何一つ物音を立てるものがない。そのせいで長い通路の先にあるはずのリングを囲む歓声が聞こえてくる。備え付けのモニタの電源を入れれば今やっている試合をこの場で観戦することはできる。だが、久瀬陽平はこのあとすぐ行われる自分の試合のことで頭がいっぱいになっていた。


 腕に覚えはある。なにしろプロのライセンスを持っていて、チャンピオンに手が届くところだった──もうライセンスを剥奪されてしまったが。それでも、二十年足らずの人生で、今までにない大一番を控えていては平常心ではいられない。


 自分の体はいざというときに練習通りに動くのか。相手は事前に研究した通りの戦法で来てくれるのか。たまらず椅子から立ち上がってシャドーに移行する。


 探るような左ジャブから右ストレート/相手の左ストレートをかわしざまの右ストレートから左アッパー/右アッパーで押し込んでよろけさせてボディを狙った左フック/ステップと同時に首を振り右フックからダメ押しの右アッパー。


 控室のドアが開いた──ついに自分の出番かと陽平の体が強張ったが、来訪者は店のスタッフではなかった。綾乃が泣きはらした顔で立ち尽くしている。誰かに追われているのかと慌てて部屋から顔を出して通路を見渡したが、他には誰もいなかった。


「とにかく、入れ」


 陽平は綾乃を部屋に招き入れて肩を強く揺さぶる。


「いったいどうした? まさか──」


 綾乃が首を振る。


「なにもされてない。でも、金を用意しなかったらどうなるか分かってるな、って、電話が」


 陽平は綾乃の顔を覗き込む。目は充血していない/瞳孔も大きくはない──中毒症状は無し。彼女はちゃんと約束を守っている。


「そのために今日、ここに来たんだ。試合が終わったら耳を揃えて返してやるさ」


 元はと言えば自分が愚かだったのだ。貧しく、みじめな生活に嫌気がさし、ただひとつ真摯に向き合っていたはずのボクシングに背を向け、柄の悪い連中とつるむようになってしまった。




 その日、やり場のない苛立ちのはけ口として、陽平はバーで肩がぶつかっただけの相手を殴り倒した=沸き起こる喝采。奢らせてくれと言って拍手をした男は、自分の隣の空席を叩いた。アルコールの勢いで意気投合し、話は自分の半生から男の仕事まで飛んだ。


 あんたの腕っぷしを生かして俺の仕事の手伝いをやってみないか?


 麻薬の運搬と販売──ストリートチルドレンのありがちな末路。必要とされ、よくやったと称賛され、金が懐に入ってくるうちはいい気分だった。自分がさも成功者であるかのように錯覚して抱いた考え=似た境遇の人間を自分のいる高みにまで引っ張り上げてやろう。


 その思い上がりの被害者の一人が木間綾乃だった。


 彼女とは地域の教会で日曜日に行われる礼拝で知り合った。讃美歌を歌っている聖歌隊の中に、やけにやつれた──それでいて誰よりも美しい声をした──女の子がいることに気づいた陽平は、歌が終わった後で、興味本位からすぐに彼女に声をかけた。早くに父親を亡くし、片親の下で苦労していることを知った陽平は、仲間に黙って身内に引き入れ、簡単な仕事と引き換えに、それに見合わない報酬を渡すようになった。


 彼女の存在は他のメンバーの知るところになったが、綾乃への支払いは自分のポケットマネーだったため、そのことが咎められはしなかった。その代わり、チームの一人が陽平の目を盗んで、彼女によくない遊びを教えた。


 もともと向こう気の強い娘ではなかった。強面のアウトローに詰め寄られ、彼女は拒否することもできずに恐怖で震えながら最初の錠剤を飲み込んだ。鬱屈した生活>それらが全て溶けてなくなったかのような高揚感>中毒症状──絵にかいたような堕落のコース。


 有料になった二粒目以降の薬に少ない稼ぎから金を出し、ついには支払いができなくなった綾乃は、運んでいる最中の商品から少しだけ掠め取った。売り買いされる薬の数は厳密に管理されていて、そんなことは簡単にバレるなんてことにも、その時の彼女は思い至ることができなかった。


 陽平はすぐに異変に気付いた。何しろ、ジャンキーが飯のタネなのだから。綾乃を薬漬けにしたメンバーを問い詰め、事情を洗いざらい話させて──その場で殴り殺した。尊敬する人物から習ったボクシングで。


 すっかり出来上がってしまっていた陽平の頭は、バケツいっぱいの冷水をかぶったように一気に冷え切った。後悔と恥ずかしさのあまり、自分の頭を壁に打ち付けてかち割ってしまいそうになったが、それより先にやるべきことがあった。


 チームの連中は盗んだ薬と同等の額を支払われても納得しない。かつて自分がそういう舐めた連中を叩きのめしてきたから分かる。それでも、陽平はチームの脱退と綾乃の解放、その二つの要求を伝えた。すると、チームのボスはおまけにメンバーの殺害もチャラにしてやろうと言って一つの条件を出した。


 ボクシングの賭け試合/相手は年間無敗のチャンピオン/オッズは十倍超──有り金を全て賭けて自分で勝ち取ってみせろ。陽平は二つ返事で請け負った。


 二か月の猶予を与えられた陽平は、すぐにかつての自分を取り戻しにかかった。早朝、日が昇り始めるころには足首に重りをつけて都道304号から484号をぐるりと回るランニングを行い、足元に水たまりができるまでサンドバッグを叩いた。終始カカトを上げた状態での5分間の連打、知り合いに頼み込んでスパーリングパートナーになってもらい、自宅に戻ってからは倍に増やした食事をかっ食らって、20時には──それまでより6時間も早く──就寝した。


 そして、週末は試合が行われる予定の店にかかさず足を運んだ。対戦は連夜組まれていたが、ビッグマッチは毎週土曜日と決まっていた。


 賭博場という言葉から殺伐とした空気を想像していた陽平は、店に足を踏み入れて感心した。意外にも品のいい雰囲気──あたりに目を光らせながら巡回している厳ついスタッフたちの努力の賜物=揉め事はご法度。ミラーボールでライトアップされた薄暗い店内では着飾った男女が音楽に合わせて踊り、グラスを持って歓談している。


 一見するとただのクラブだったが、普通のそれと大きく異なるのは店の中央にリングが敷設されているところだった。リングを取り囲む客席との間には、およそ3mを空けて透明な仕切り板が立てられている。


 陽平はカウンターで水を注文し、バーテンダーの渋い顔を無視して待った。22時を回ってスピーカーから垂れ流されていたEDMが止むと、まるでそうプログラムされているように客たちは瞬時に黙り込んだ。


 さっきまでMCをやっていた男がリングアナウンサーに変貌し、西側のドアに手を伸ばして口上を述べる。


「さあ皆様、大変長らくお待たせいたしました、これよりメインイベントを開始いたします! まずは青コーナー、訓練教官を腕ずくで叩きのめして除隊処分になった元海兵、暴君を打ち倒すべく現れた勇気ある挑戦者、オリバァァァァァァァァァァァァ・テイラァァァァァァァァァ!!!」


 歓声/拍手/口笛。青くライトアップされた通路の上を、肩を怒らせたアイビーカットの無精ひげが大股で歩いてくる。アナウンサーが東を向いた。赤い通路の上で、ガウンを羽織った男が腰に手を当てて自分の紹介を待っている。


「続きまして赤コーナー、出自不明! 経歴不明! これまで再起不能にした対戦相手は数知れず! 素早いフットワークと鋭いジャブで滅多打ちにし、タルタルステーキのようになった相手の顔面を必殺の右で狩り取ってきた猛禽! パワーとスピード、そしてテクニック兼ね備えた無情なる鷹! リアァァァァァム・コォォォォォォォォルマン!!!」


 金髪を後ろで結んだ男──リアム・コールマンがガウンを脱ぎ捨てる/それに群がる客/胸板には鷹の羽を模したと思われる入れ墨。


 二人の男がリングに上がって向き合う。コールマンがグローブを前に差し出すと、テイラーがそれを仏頂面ではねのけた。涼し気に笑うコールマン。沸き起こる歓声に負けじとリングアナウンサーが声を張り上げた。


「さあ皆様、締め切り時間はもう間もなくです! ダウンロードしたアプリからベットをお願いします!」


 手ぶらでやってきた陽平は近くの客のデバイスを後ろから覗き見た──倍率は1.02対27.7。もはや賭けの体をなしていない。客たちはどちらが勝つかではなく、何ラウンドKOで勝負が決まるかのオプションを選択していた。


 ざわめきが大きくなる=賭け金が積みあがっていく。陽平が目深にかぶったパーカーのフードの奥から見据えていると、鷹の羽の男と目が合った──気がした=時間にして1秒足らず。


 ゴングが鳴った──だというのにコールマンはまだ客席に顔を向けて手を振っている。完全に頭に血が上ったテイラーが猛然と前にダッシュする。


 怒りに任せた右ストレート──よそ見するフリをしていたコールマンが、横っ面を打ち抜こうとするパンチをスウェーで躱し、左のショートフックでテイラーの顎を打ち抜いた。


 芸術品のようなカウンターを食らって足元から崩れ落ちたテイラーが膝をつき、勢いのままマットの上を滑る。


 コールマンはずり落ちようとするテイラーの腕を掴んでリングに戻すと、フィニッシュを放った左腕を高らかに掲げた。


 試合終了のゴング/それをかき消す怒号と歓声。人の声が衝撃になって陽平の肌を叩く。わずか3秒の決着──店内の盛り上がりは最高潮に達している。


 コールマンが手を振り、ややシニカルな笑顔を観客たちに振りまく。その青い目が、知らず睨みつけていた陽平のものとかち合った。


 その瞬間、二人の間から小綺麗な内装/狂乱する客/耳障りなBGM/ぎらつくライト=あらゆるものが消え去る。


 コールマンの口が言った──お手柔らかに。陽平は言った──首を洗って待っていろ。




 「相手、強いんでしょ?」


 綾乃の震える声で現実に戻って来た陽平は距離をとってシャドーを再開した。


「そうだな。だとしても、牧師様に習ったようにやるだけだよ」


 陽平の体に力がみなぎってくる──口には自然と笑みが浮かんでいた。ついさっきまで体を支配していた緊張がきれいさっぱり消え去っている。やれるかどうかではない──やる。それだけの話。


 汗を拭いて軽いストレッチをしていると、ノックのあとに少しして店のスタッフが顔を出した。


「そろそろ出番です。準備は良いですか?」


 陽平が頷いた。スタッフも頷き、綾乃を一瞥してから顔を引っ込めた。


「それじゃ、行ってくる」


 綾乃が言った。


「無事に帰ってきて」


 陽平は固く握りしめた右手を突き上げ、試合へと向かった。

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