第13話 派遣

 羽瀬川蓮花は青ざめた顔で裏口からフラ・ダ・リへと入った。時刻は深夜に差し掛かろうとしている──既にキャストもスタッフも全員が詰めている時間。自宅で仮眠をとってから向かうつもりだったが、スマホにアラームをセットする前に力尽きてベッドに倒れこんでしまった。


 廊下の向かいからやってきたキャストの女性が、羽瀬川を見つけて礼儀正しく頭を下げる。そのとき、目線の先が腰に佩いた大小二本のブレードにいく。


「こんばんは。てっきりお休みだと思ってました」


 昨日の出来事は店中に広がっている──羽瀬川は視線を合わせられずにPタイルの光沢を凝視する。


「ここ、こ、こんばんは! 全然、私は大丈夫です! 怪我、け、怪我もしてませんし!」


 女があどけない笑顔で会釈して歩き去る。学費を稼ぐ大学生──正面からは可愛らしく見えたキャミソールのワンピースは背中が大きくあいていた。ただただ感嘆するばかり。


「こんばんは」「あら、出てきたの?」「今日くらい休めばいいのに」「シャツの首元が裏返りそうですよ」


 すれ違う従業員たちの心遣いに恐縮して羽瀬川は何度も頭を上下させた。この職場で働けるという幸運を噛みしめる。オーナーに遅刻と釈放の件について謝辞を述べるために待機室ではなくエレベーターホールに向かう。


「羽瀬川さんじゃないですか」


 思わぬ人物に出くわした。弥永湊が、エレベーターが降りてくるのをホール待っていた。足元には漆黒の毛並みの四肢を機械化した大型犬。レトリバーの目礼──彼は人目が多いところでは人間の言葉は話さない。


「熱心ですね」

「いえ、そんな……お休みをもらうのもなんだか申し訳なくって」


 微笑む弥永に鈍色の虹彩を向けられる。羽瀬川は自覚できるほど下手くそな笑顔で、それでも正面から見返した。目と目を合わせられる数少ない相手──その立ち姿にやや違和感を覚えた。重心がいつもより崩れている。


「あっ、その、どこかで飲んでこられたんですか?」


 弥永が一歩寄ってきて羽瀬川の襟を直した。消しきれていないアルコールの臭いが鼻先をかすめる。


「お仕事です」


 羽瀬川はそうなんですか大変ですねの月並みな台詞すら言えずにされるがままになっていた。エレベーターがやってくる。ひとつ遅らせて乗るつもりだったのに、先に入った弥永がドアを開けてじっと待っていた。断る度胸もないためカゴの中へ──オーナーの部屋がある階のボタンはすでに押されていた。


 ドアが閉まってカゴが動く。浮遊感。チリひとつない弥永の後ろ姿。エレベーターの階数表示が動く。いつ見ても整っている黒犬の毛皮。床に押し付けられる感覚。


「お先にどうぞ」


 弥永に手で促され、先に出て廊下を歩く。背後から聞こえる足音。壁からぶら下げられたプラスチックの植木鉢のあるT字路を左へ。背後から聞こえる足音。オーナーの部屋に到着した羽瀬川は、ノックの体勢のまま振り返った。


「あの……?」

「お入りにならないんですか?」


 いつも通り自信に満ちた弥永の顔を見ていると、疑問をさしはさむ方がおかしいように思えてきた。羽瀬川は気を取り直して入室の許可を求める。


「あの……羽瀬川です……」


 ややあって、中からの返答。


「どうぞ入ってください」


 呼吸を整えて入室する。PCのキーボードを叩いていた男がモニタから視線を上にずらした。フラ・ダ・リのオーナー=ビル1つをコールガールの待機場所にして自分のオフィスにもする変わり者=赤星博章。


 赤星が顎に手をやって顔の左側にある刀傷を親指で撫でる。「今日はゆっくり休んでくださいとメールしておいたはずですが」

「メールは、もちろん見ました。見たんですけど──」

「羽瀬川さん、あの程度の不慮の事故は起こることを承知で私はあなたの働きに報酬を支払っているのです。そのうちこうなるかもしれないというのは分かり切っていましたからね。だから、事前に準備していた通りに弥永先生に連絡して迎えにいってもらいました。ただの、雇用主が負うべき責任と経費にすぎません」


 赤星が立ち上がって両手を机の上に置いた。


「と、まあ──こう言ったところで貴女の性格上素直にはい分かりましたとならないのは目に見えているので、働いて気がまぎれるというのであればそうしてください。もちろんその分の給金はお支払いします」


 羽瀬川は何か言うこともできず、ただ恐縮して頭を下げた。オーナーの視線が弥永の方に移ったのを見て、壁際まで退く。


「お待ちしていました、弥永先生。それで、お話というのは」

「単刀直入に言いますが、こちらの従業員と顧客のデータを渡してもらえませんか?」

「……詳しく説明してもらえますか?」


 赤星が眼鏡を外して頬の傷跡のように目を細める。


「実は先日、私の事務所が警察からの業務委託を受けまして」

「なるほど、私の店が何か関係していると」

「羽瀬川さんの対処された事件、今のところ警察はこれを通り魔的な犯行ではないと見ています」


 〝警察〟を強調する弥永。言わんとしていることをすぐに察した赤星が眼鏡をかけなおして額を揉んだ。


「私どもが手引きをしたと考えていらっしゃるのでしょうか? 襲撃者に顧客の情報を流して、襲わせたと?」

「それを確認しようとしている段階です」


 顧客と従業員のデータから事件につながる何かを見つけようという算段。店側にとって重要なのは、それが利益になるか不利益になるか。


「会社を人体に例えるなら従業員は肉体、データは血液のようなものです。それをみすみす他人に明け渡す気はありませんし、ましてやそれが警察となると……やはり素直に首を縦に振るのは躊躇われますね。ところで先生、あなたはいま臨時の警察官かもしれませんが、同時に私の店の利益を守るための弁護士でもいらっしゃる。先ほどの要求はどちらに重心を置いてのものでしょうか?」


 ためを作るように少し間をおいて弥永が後ろで手を組んだ──スピーチの体勢。


「両方です。ですから、どうかここはご協力をお願いします。断られた場合、この店に何の思い入れもなく、利益も共有していない、もしかすると握ったもので自分の財布を少しばかり膨らまそうとする私以外の誰かがやってきて、帳簿を見せろと喚きたてるでしょう。はじめは追い返せても、そのうち令状を持ってくる。それを突っぱねれば最悪は営業停止です。それらに先んじて私がここに来たのは、むしろ幸運であったと思うことはできませんか?」


 やんわりとした脅迫にオーナーは首を振った。机の中から取り出したチップをPCに挿してキーボードを叩く。


「我々が犯罪に加担することはあり得ませんし、またそれを見過ごすようなこともしません。懸念しているのは、この事件が継続性のあるものなのかどうかです。従業員の安全には今まで以上に気を配るつもりですが、悲しいかな支払えるコストには限度がある」


 赤星がチップを引き抜いて弥永に手渡した。


「それには従業員の出退勤、雇用状況、顧客の個人情報についてが収められています。まあ、この店のほとんど全てですね」

「必ず突き止めます」


 一礼して退室しようとする弥永をオーナーが呼び止める。


「弥永先生、お仕事を増やされて、人手が足りていないのではないですか? 聞けばうちの羽瀬川が昼にひと働きしたとか。このまま連れていくというのはどうでしょう?」

「えっ、えっ?」


 うろたえる羽瀬川。弥永は目を丸くした。


「よろしいのですか?」

「替えのきかない人材ではありますが、この場合、そうした方がトータルではプラスでしょう。さっきも言いましたが、長引かれるのが一番困る。送迎とトラブルへの対処は残った人間でやりくりしますよ」


 二人の視線が注がれる。オーナーの意図──念のために目を光らせておけ。それが読み取れないほど羽瀬川は馬鹿ではない。弥永に向かって頭を下げた。


「よっ、よ、よろしくお願いします! 微力ながら、お手伝いさせていただきます!」

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