第20話 わたしは感謝しています。でも……。




 ――その男子は、わたしに言いました。


 あのカビ臭い校舎裏で、よっぽど蹴られたお腹が痛かったはずなのに。だいじょうぶですか? そう彼の背をさするわたしへ、かすれる声で小さくひとことだけ。


 『こんなのへっちゃらだよ』


 たくさんの事をがまんしていたはずなのに、すごい脂汗を滲ませながらも、にこりと笑いまして。


 ――さらに、彼は、わたしを驚かせました。


 なぜ関係性の薄い自分をこうも必死にたすけてくれるのか。不思議でたまらなかったけど、すぐに、なるほどと膝を叩くことになります。


 「――なんだてめぇ、それともその子に気があんのか? 」


 あの強引な先輩の言い放った言葉に対し、雰囲気に合わない、とても通る声でずばり。


 「……本当に好きなら、大切にしろ! 」


 前後の文脈的に、ということは、この男子はわたしにそういう感情をもっている。で良いんですよね?

 ただ、突然そんなことを言われても、わたしは慌てふためくばかり。


 ――そして、その事実は、心底わたしを困らせました。


 あの大きな先輩が、暗がりから姿を現して、あの嫌な先輩をそのまま奥へと引きずりこんだ、そのあと。

 もちろんわたしは、彼を保健室へと運ぼうと手を差し伸べたのですが、……彼は首を横に振るのです。


 『僕が勝手に出て行って勝手にやられたんだ。だから、』


 このあとも勝手にするから大丈夫だよ。気にしないで。と、せきこみながら言うのです。

 そう言われても、わたしのせいであんなに痛めつけられたのです。それを目の当たりにして気にしない女の子なんていませんよ。しかも、空元気だとは思いますが、とびっきりの笑顔つきで。

 その様子に、やはり彼は、わたしに特別な感情を抱いているで間違いないようです。

 だけど、……困りました。本当に困ってしまいました。

 もちろん、わたしのピンチを救ってくれたのは、彼だと断言できます。感謝感激で、会う度にお礼をいうでしょう。

 でも、それだけなのです。特別な感情がわたしの中で芽生えたわけではありません。

 むしろ、この関係性は困るのです。彼からの矢印がわたしへと向くのは、言葉が悪いですが、扱いに困るのです。

 だって、わたしは、――この男子に想いを寄せる女の子をひとり知っているのだから。

 そもそも、わたしは彼を知っています。同じクラスの目立たない男子のひとりです。もちろんお互いに今まで話したことは一度も無く、接点すら限りなくゼロ。

 だから知っていると言うよりは、教室内ですれ違う程度の、そんな関係性。他人以上の、知り合い以下。

 ですが、別の角度でなら彼のことをよく知っています。

 わたしのクラスには、驚くほどの美少女がいます。物腰は柔らかく、常に優しく微笑んで、そして、静かに本を読む姿はまるで額に飾られた美人画そのもの。

 皆、見た目もそうですが、その優しくて素直な人柄に触れ、異性は当然ながら同性である女子達も、そうですね。恋愛感情ではなく、強烈な憧れが言葉としてはふさわしいでしょう。彼女と仲良くなりたいなとアピールしました。もちろんわたしもその中のひとりです。

 ようやく、お昼を一緒に食べる仲にまで上りつめ、もちろん他にも多数一緒ではあるのだけど、クラスで会話を交わす位の親密度は得ました。あの鈴を転がすような声で自分の名を呼ばれる度に心が震えます。

 そんな、クラスのアイドルでもある大和撫子のような彼女が、あの男子の前でだけ豹変するのです。

 わたしが以前、彼女が筆箱を家に忘れてきてしまうという大事件が勃発したとき、数多の強豪を抑え、シャーペンを貸したことがありまして。その時は、


 『ありがとうございます』


 柔和に微笑んで、ぺこりと一礼。たかがシャーペンごときで、わたしに頭を下げるなんてもったいない! 思わず取り乱してしまうほどでした。

 だけど、その次の休み時間。ふと見ると、ひとりの男子が無言で彼女の机に何かを置いていきまして。どうやらそれは筆記用具一式。

 すぐに彼女は気がつきましたが、もう彼はわたしの斜め後ろ。自分の席に戻ってしまっていて。なんだこの男子は。露骨な点数稼ぎは逆効果だぞと、訝しんだ時でした。


 ――わたしは、心が溶けて蒸発してしまうかと思いました。


 だって、彼女が笑うのです。こちらに顔を向け、いつもの感じでは無く、ニコッと快活に。しかも、声には出さないまま、


 ……あ・り・が・と。


 それは間違いなく彼にむけてでしょう。でも、角度的に、わたしへと向けられたようで、同じ女子だというのに、不覚にも胸が高鳴る天使の微笑みでした。

 そして、同じ女子だからこそわかることがあります。

 はじめてみるその顔は心底嬉しそうで、きっとあれが彼女の普段の姿なのかな。あとから聞いた話では、その男子とは小さな頃からの幼馴染みという黄金パターンだというし、あぁなるほどそうなのかと、納得してしまう。それほどまでにわかりやすい笑顔でした。


 ――だからこそ、今、わたしは困っています。


 あのあと、彼がお腹を押さえながらも、暗くなる前に帰りなと、わたしの背を押すもんだから、本当はケガした人を置いて自分だけなんて、ありえないことです。

 でも、あんなことがあったばかりです。少し冷静でなかったのでしょう。言われるがまま、素直に下駄箱まできてしまいまして。

 そして、今、わたしは困っています。


 「今、帰り? 」


 かけられた声の先、下駄箱の入り口で、例の女神がたたずんでいたのだから。

 儚げに誰かを待つその姿は、まるで映画のワンシーン。きっと待ち人は彼だ。あの男子と彼女が出会うその時に、まちがいなく、物語が始まるのだろう。

 そして、彼女は立ち尽くすわたしへと、いつものように微笑んでくるのです。


 「委員会って、長いね 」


 夕日の光と影、その明暗のコントラストが舞台効果となり、あまりの美しさに、むしろ神々しさを感じてしまい、わたしは彼女からの問いかけに、ごまかすかのような笑みで答えるしかなくて。

 何か言わなくちゃ。でも何を言えば良いのだろう。ちょっとした世間話で良いはずなのに、頭の中はグルグルと大混乱。

 わずかな間を開けて、その彼を待つ健気な姿を前に、むりやり絞り出した言葉は、ひとつだけ。


 「また明日ね」


 偽物の笑みを貼り付けて、わたしは、そそくさと足早にその場をあとにするしかありませんでした。


 ……なぜ、わたしがこんな思いをしなければいけないのだろうか。


 あの薄暗い校舎裏で、素直に感謝で終わりたかった。助けてくれてありがとう。それで良かったはずなのに。きっと彼とは、今日の事がきっかけで仲良くなれただろう。あんなピンチを救ってくれたのだ、マイナスの感情を持つ人のほうが少ないはずだから。

 朝、挨拶を返して、くだらない話で楽しむ。

 そう。クラスメイトの男子と仲良くなる。わたしは、その程度で良かったのに。

 わたしの胸は酷く痛みます。この感情をどう処理すれば良いのかわからない。本当に面倒なことに巻き込まれた。今日一番の被害者はわたしで決まり。

 だって、言えないもの。言えるはずがない。でも、いつか言うときがくるのでしょうか。

 もし、その時が来て、彼女から真意を尋ねられたとき。わたしはなんと言えば良いのかわからない。

 きっと、平気な状態では無いはずです。本当に大切だった想いををズタズタにして、ボロボロに傷ついた、そんな目の前の彼女に向けて、


 ――わたしは別に、彼の事なんて。


 また、胸が痛む。道端だけど、心労で、しゃがみ込みたくなってしまう。

 本当にわたしにとって、彼女は大切な友人だ。憧れで、目標で……だから。


 ……そんな残酷なことを言うなんて、わたしには到底できっこないんです。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る