第19話 私は、今日も今日とて、また空回る。 ③




 ――きっと、泣かれると困るからでしょうね。


 夕日に染まる下駄箱で、私はローファーのつま先で地面を鳴らし、溜息を一つ。

 あれ以来、彼がお弁当を拒まなくなったのは、やはりあの時の涙が原因としか考えられません。

 あの日、廊下でこぼした涙に周りの時が止まったようでした。

 ですがそれも一瞬のことで。

 私たち二人は、あっという間に大勢の同級生に囲まれてしまい、その中の何人かは、きっと私がイジメられてるとでも思ったのでしょうね。


 『あぁ、やりやがったな、クソが……』


 『てめぇ、死んだぞ……』


 『誰泣かせたかわかってんのか……』


 『刺し違えてでも殺す………』


 何を言っていたのかは、よく聞こえなかったのですが、どうやら勘違いさせてしまったようで、男子生徒の十数人が、義侠心にかられたのでしょう。彼に詰め寄り、弱い者イジメは許さないといった風に青筋を立てながら殺気立っていました。

 ですが、あれではまるで彼が悪者です。悪いのは全部私ですと弁明しようと試みましたが、困ったことに私も私で女子たちに囲まれてしまって。


 『えー! すっごいじゃん! 料理できるんだ! 』


 『だからか~。早起きしたでしょ、目の下少しクマあるし』


 『はぁ? 何アイツ、受け取ってくんなかったの? バカじゃん』


 『あきれるわ~、一生分のラッキー便所に捨てたようなもんよ。アイツ明日死ぬんじゃね? 』


 『ね、ど~するど~するぅ。アタシが一発ぶん殴ってこよっかぁ? 』


 わいわいとあちらとは違う熱気に包まれている始末。

 ついには両手を挙げて勘弁してくれと、そして助けてくれと彼もこちらに視線を飛ばしてきていまして。

 でもやっぱり優しい人です。あれだけの騒ぎを起こしてしまったにもかかわらず、その日の放課後に、『うまかった』とお弁当箱を突き返してくれました。

 馬鹿ですよね、私。

 あそこまで皆から悪者にされた彼です。てっきりお弁当箱は帰ってこないかもなんて、食べずにゴミ箱にでも投げ捨てられるかもなんて、心の片隅でそう思っていたものだから。唐突な鼓動の高まりも相まって、無事戻ってきたお弁当箱を手に、……本当にバカですね、私。


 ……先ほど彼から聞いた『うまかった』という言葉に、もう一度、涙が出たのですから。


 彼に迷惑かけてしまったと反省するのが先でしょうに、それに対して一言もなく、軽くなったお弁当箱を胸に抱いたまま、私は仏頂面のままホロホロと頬を濡らしてしまいました。


 『ったく、泣くほどのことかねぇ』


 頭をかく彼の、勘弁してくれよといった困り顔に、またしても面倒をかけてしまったなと察します。

 もちろんすぐさま謝るべきでしょう。えぇそれは、重々承知しております。

 だけど、当然私もせめてお礼だけでも述べようと試みましたが、――準備していた言葉は全て、この張り裂けんばかりの胸の高鳴りに押しやられ、ただの一つとして、この口からは気の利いた台詞など出てきやしませんでした。

 私に出来たのは、先日の件と、今日のお弁当と、今までの行い全てを込めて、大きく頭を下げることだけで。

 本当は言いたいことがたくさんあるのに。ひとりで何度も練習してきたのに。結局、生来の口ベタはそう簡単には直らずに、ただただ、言い表せない感情だけが、今まさに爆発せんとしておりまして。


 ――だから、これから先、起こったことは全て反射的なもの、と誰に向けてかわからない姑息な言い訳しておきます。


 『じゃあな』


 だって、踵を返した彼に、――跳ねる心臓に背を押され、出てこない言の葉の代わりに一歩を踏み出しました。上履きのこすれる音のすぐ後に、大きくて温かな背中を感じ。あぁ、なんということでしょうね。その場に誰もいなかったことだけが幸いです。――私は後ろから抱きついたのですから。

 彼はその時のことを『なんかすげぇ腰の入ったタックルだった』などと笑いながらのたまってはいましたが、それならそれでいいです。

 自分でも、何がしたかったのかさっぱりで、あれよあれとぞあきれける。気がついたら彼の背中にぴったりと張り付いていたわけですからね。ですが、そこでようやく母が朝言った言葉の意味が理解できました。

 何をどう理解したかなんて、もはや語る意味すらあろうはずもなく。

 さすが私の自慢の母です。15年育てた不出来な娘の事なんて、きっとなにもかもお見通しだったのでしょうね。

 全ては、朝のあの格言通り。――女は度胸。度胸なのですよ。


 『明日も……です』


 私は、その時全てを出し切ったと思います。胸を叩く心音が彼に伝わってはしまわないかと、そればかり気にしながら、彼の背中越しに、全てを込めました。

 欲深だと、皆は笑うでしょうね。ゲリラのような行動で無理矢理お弁当を押しつけたにも関わらず、また次もと願うのだから。

 ですが、ここがこれからの分水嶺だと確信したのです。

 このまま何もせずに、彼を行かせてしまえば、不器用な私のこと。まず間違いなくここで終わり。


 『明日も、差し上げます』


 今さっき、そしてこの瞬間、私は変われたのです。そして、昨日までの自分とは違う、目の覚めるような感情が叫ぶのです。

 ここで、彼とのつながりが途絶えることに、到底お前は耐えられないぞと、そう必死に叫ぶのです。

 その日は、それからどうやって帰ったのか覚えていません。覚えているのは、『……おう。もう何も言わねぇ。好きにしな』彼のはにかんだような困り顔。それと、お風呂に頭の先まで潜り、全力で叫んだ事ぐらいでした。

 だって、あんな大それた事をしでかして、明日から、私はどの面下げて彼の前に立てば良いのでしょう。叫んでも叫びきれない言い訳の山に、そのまま溺死してもおかしくなかったかも知れません。

 なんせ、ようやく私は、自分の止めようのない鼓動の意味を理解したのですから。


 ――それ以来、私はお弁当を一方的に作り続けています。


 彼が拒否しないのを良いことに、もはや、ここまでくると迷惑の化身です。彼の悩みの種と化している自信すら有ります。

 だからかもしれません。

 今日のお昼に出会った、あの一年生の言葉を素直に受け止めきれないのは。

 言い訳がましいのですが、今日一日、私も頑張ってはみたのです。

 週の初めの月曜日。ちょうど今日は委員会の活動日ですし、一緒に行きたいなと行動に移してみましたが、結果、売り言葉に買い言葉で、彼を地面に転がす始末。だって、行かないなんて言うんですよ。それでもどうにか連れて行こうと頑張っているのに、終いにはバカとまで言われて……。

 なんでわかってくれないのですか。――そんなの、私が言葉に出さないからでしょう。

 もう何度目になるかわからない、終わりの無い自問自答に、また口惜しさを感じてしまう。

 そう、これも一種の八つ当たり。

 口より先に足が出てしまい、申し開きのしようもございません。

 このままではいけない謝らねばと、委員会の活動中ですが、彼の後を追いかけました。ですが、やはり彼は怒っているようで、早足にどこかへ行ってしまいまして。

 そして今、私は一人帰路につこうとしております。

 これこそ身から出た錆でしょう。背ばかり大きな、無愛想で心の狭い暴力女なんてお世辞にも好かれる要素はないのですから。

 外を照らす斜陽の眩しさに手で影を作りながら、夕日を苦々しく睨みつけます。我ながら度量が小さいですね。この程度の事にわずかばかりとはいえ苛立ちを覚えるのですから。

 何もかも上手くいかないなんていつものことでしょうに、あの夕日にさえ私は結局八つ当たりをしてしまう。やはり人は簡単には変わることなど出来ないのでしょうね。

 あぁ、意識せずとも出るこの溜息と、一緒に溶けて消えてしまいたい。そうすれば、この苦しみから少しは逃れることが出来そうなのに。

 皆の帰る中、誰よりも最後まで残り、頑張って美化作業をしたけれど、明日にはゴミの一つも落ちているでしょうし、あの夕日は私を困らせようと目一杯の紫外線を浴びせ続けるでしょう。

 そして、彼とは今日もまた、大きくすれ違ってしまいました。

 幼少期から今まで、望んだことが上手くいった試しがないばかりに、それ故、ただただ上手くやりたいと焦るばかりで。

 なんでいつもこうなるのでしょうか。なんだか、いよいよ涙が出てきそう。

 私はただ、彼と普通の高校生がするような、――


 「――おう、まだいたのか」


 「○×△□っ!!! 」


 ……呻いて跳ねた経験は初めてでした。


 同時に、口から魂が飛んでいくかと思いました。

 もう! もう!!

 これだから、困るのですよ。私は突然目の前に現れた彼のお尻を、手に持った学生鞄ではたきます。

 まったく今までどこにいたのでしょう。目立つ体躯です。見逃すのも難しいのですが。


 「あー、腹減ったな。なぁおい、なんか食っていこうぜ」


 夕日のせいでしょうか、とても彼がまぶしくて、私は、顔をそらしてしまいます。

 この人はいつもそう。初めて会ったときもそうでした。今までも幾度となくあったように思います。

 私の心が弱った時に、颯爽と現れるころ合いの良さ。あっという間に夕日から私を覆い隠す背中。そして、見上げる位置にある目の覚めるような豪快な笑顔。

 あぁ、うるさいうるさい。困ったものです。彼に気づかれる前に、早く止まってくれやしないでしょうか。

 もしかすると、私は自分が思っている以上に簡単な女なのかも知れません。だって、彼がひょっこりと現れただけで、またいつものように胸が高鳴ってしまうのですから。


 ――二人きりの帰り道。正門へと続く道中で、彼は、当然のように私の鞄をかすめ取ります。


 私も抵抗はしません。代わりに彼の残った方の手を握り、向こうも優しく握り返してきます。片手で二人分の荷物を持つ事は決して楽ではないはずなのに、私と二人の時、彼はいつもこうなのです。

 男女が並んで下校するなんて、恋人同士ならきっと腕を組む場面なのでしょうね。ですが、手を握る程度の私たちは、まだ友人止まりなのだと思い知らされます。

 でも、それでも私はこの瞬間がたまらなく幸せだと感じているのも否定できなくて。


 「ラーメン行こうぜ、ラーメン」


 「……それ以外が良いです」


 こういうとき、彼はいつもラーメン一択。

 駅の路地裏にある隠れ家的な名店で、とてもおいしいのですが、量が多くて、結局残りを彼に食べてもらうのがいつも申し訳なくて。

 それに、


 「今日は私が出しますので」


 代金を彼が払ってしまうのもイヤなのです。毎回今日こそはと思っているのですが、せっせと麺やスープと戦っている間に、いつも彼がお会計を済ませてしまっていて。


 「い-んだよ。鯛やヒラメじゃねぇんだから、気にすんなって。それに、」


 夕日を背に、ふと彼は言葉を詰まらせ、なにかを迷うように頭をかくと、


 「あれだ。弁当の礼だ。……いいだろそれで」


 私は今が夕暮れ時で、本当に良かったと思います。


 「いつも旨い弁当食わせてもらってんだ。たまにラーメンくらいはおごらせろよ」


 きっと、私の顔は夕日にも負けない色をしているはずです。それに、


 「それとも、俺と一緒じゃやっぱイヤか? 」


 彼が無邪気な顔で照れくさそうに笑うのですから、もうその顔から目が離せなくなって。

 もしかすると、優しい彼のことですから、私を気遣った一種のお世辞かも知れません。ですが、たとえそうであったとしても、私のお弁当を彼がありがたいと言ってくれたのです。迷惑かもと考えていただけに、こんなに嬉しいことはありません。

 だから、これからの私がとった行動は全て反射的なもの、と過去何度使ったかわからない姑息な言い訳をここでもしておきます。

 もうきっと、唐突にふってわいた幸せで、頭がどうにかなってしまったのでしょうね。


 「私、今日がんばりました。とてもがんばりました、だから……」


 何を頑張ったかなんて、彼がわかるはずもないのに、これぐらいは、ご褒美をもらっても良いのではないかと考えた次第でして。普段を知る人が見れば、本当に身勝手なヤツだと笑われるでしょうね。


 ――私は繋いだ手を一度離し、そして、自分の身体で彼の腕を抱きしめたのですから。


 まるで恋人のような所作に、もはや私の心臓は臨界点を軽く超え、いよいよ限界ですよとメルトダウンを始めたことでしょう。

 しかしながら、もうひと頑張り。彼の戸惑う声を頭上で聞きながら、昼間のあの言葉を思い出します。


 『先輩は美人なんですから、押せ押せでイチコロですよ』


 自分が美人でないことなど、とうの昔から知っています。ですが、押せ押せです。勇気を振り絞ることにこそ、意味があるのです。

 私は意を決して、彼の顔を見つめます。


 ――。


 ――。


 ――もう!


 悲しいことに、やっぱり言葉が出てきやしません。彼とにらめっこのまま、今日の所はこれが限界のようで。

 本当に口惜しい性格です。私は奥歯をかみしめ、もしかすると少しだけ涙ぐんでいたかもしれません。

 またいつかのように、この視線に多くの意味を込めることしか出来ないのですから。


 「……おう。もう何も言わねぇ。好きにしな」


 彼もほとほとに呆れはてている事でしょう。勢いよく明後日の方を向き、いつかどこかで聞いたことのある諦めたと言わんばかりの口ぶりが全てを物語っていました。

 あぁ、またやってしまった。いい加減、言葉が出てくるくらいには慣れたつもりではいたのですけど。それに、


 「あのよ、今度ふたりで……」


 腕を組むと、こんなにも歩きづらいのですね。彼との距離に、ドギマギしながらも、もつれる足に気をとられ、って、はい?


 「……すみません、聞いていませんでした」


 なんということでしょう。せっかく彼が話かけてくれたのに、私は自分の足が彼の靴を踏んでしまわないかと、そればかりを気にしていて。


 「いや、何でもねぇ」


 「? そうですか」


 そんなことよりも、ラーメン食いに行こうぜ。と、せかす彼に腕を引かれ、私は歩きます。

 さっき何が言いたかったのか尋ねたいと思いました。ですが、あの夕日の仕業でしょうか、心なしか、彼の頬が赤く染まっているように見えて、


 「……風邪ですか? 」


 心配するのは当然のこと。春は体調を崩しやすい時期ですし、そもそも風邪を甘く見てはいけません。

 大丈夫ですかと、その時、見上げた私の瞳と彼の瞳がバチリとかち合いました。

 夕日が逆光となり相手の表情は上手く読み取れませんが、しばしの沈黙の後、何か言いたいことがあるのでしょうか。不思議だと、頭をひねる私に、彼はまたもや『がはは』と笑いまして。


 「まぁ、病気っちゃ病気だな」


 どこか意味深なことを言う彼に、もう一度首をかしげ、まぁ、彼のことです。

 きっと、そうですね。私に拘束された腕をどう外そうかと、そんな事を考えているのかも知れませんね。

 なによりもそれが、今の私たちの距離感なのですから、仕方ないです。もうそれ以上、何かを聞くことは無粋というもの。

 私は、話題を変えるよう、いつもの質問を彼に問いかけます。

 橙色に染まる通学路を、たどたどしく彼の腕を抱いたまま、たくさんの意味を込めて、――明日のおかずは何が良いですか、と。



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