3 温かな光さす未来へ

 後味が悪い。


(私は、アイさんを護るという目的を成し遂げたのよ。

 なのに、なんで後ろめたい気分を味わわないといけないの)


 時折、思い出したかのように鼓動の音が聞こえる。


 まるでイレーヌまで責めてきているような気がして、

 伊吹は胸を軽く叩いて毒づく。


「どうして貴方まで文句を言うのよ。

 この際、ハッキリさせておくわ。

 私は、私の意志でアイさんを護ろうとしたの。

 貴方は関係ないわ」


 胸を押さえていた伊吹の手に、トクンと甘い振動が伝わってきた。


 返事でもするかのように、優しい感触だった。


 暫くして医者が往診に来たので、簡単な診察を受けた。


 やはり異常はなく、実にあっさり退院の許可が下りた。


 入院歴があるから診察券はあるし、手続きは殆んど必要ない。


 一部の精密検査の結果が出るのに時間がかかるため、

 一週間後にもう一度来るようにと言われた。


 医師が去ると、入れ違うようにアイと柚美がやってきた。


「ママ。イチゴ牛乳さん持ってきた」


 アイが元気な笑顔を振りまいてアイが駆けてくる。


 アイはベッドに飛び乗ろうとしたのだろうが、

 ジャンプ力が足りなくて側面に激突して、後ろに倒れそうになる。


 とっさに柚美が滑り込むようにして背中を支えてやると、

 アイは全身を使ってベッドをよじ登ってから、伊吹に飛びついて来た。


 伊吹はアイを抱きとめ、頭を撫でてやる。


「私も飛びつきたいよぅ」


 柚美が羨ましがるように見つめてきた。


 指をくわえる仕草を見ていると、アイとどっちが子供なのか分からない。


 やがて、我慢しきれなくなったらしく、飛びつこうとする。


「ストップ、貴方は大きい!」


 油断していた伊吹はアイとともに、柚美に押し倒されてしまった。


 アイなら兎も角、柚美ほどの体重は伊吹の腕力では押しのけられない。


 ふたり分の体重でベッドに押しつけられながら、

 伊吹は抗議しようと思ったが、

 二種類の柔らかい頬が気持ちいいから、

 そのままにしておくことにした。


「ふたりとも病院では静かにして。

 伊吹、もう、退院していいんだって?」


 ふたりからやや遅れて絵理子がやってきた。


 病室の入り口で医者と話でもしていたのだろう。


 風邪でもないのに絵理子がおでこを触ってきた。


 きっと熱を測っているのではなく、絵理子も伊吹に触れたかったのだろう。


 柔らかい掌を額に感じれば言葉にしなくても心配してくれていたのだと伝わってくる。


 すみれの部屋の前で凍てついてしまった心の氷が解け、胸が温かくなってきた。


 先ずベッドの寝心地が話題になった。


 続いて病院食の味について、ささやくように会話した。


 伊吹はいたって健康なので薄味の朝食は物足りなかったと告げれば、

 帰りに四人で何か美味しいものを食べに行くことが決まる。


 それから朝刊の地元情報欄にデパート火災が載っていたことや、

 院内のコンビニの商品ラインナップに衣料品が多いことが話題になった。


 大好きな人たちと一緒にいるだけで幸せだった。


 優しい気持ちが全身に充満していく。


 おそらくこれが、

 桐原伊吹が持っていて津久井が娘に与えることの出来なかったものだ。


 伊吹は胸に手を当て、決心した。


 太ももを叩いて音を鳴らしてから勢い良くベッドから降りる。


 周囲の関心を集めたことを確認してから、切りだす。


「桐原伊吹には娘をさらった仇ががいたわ。

 仇討ちは果たした。

 けど、倒した相手には幼い娘がいたの。

 さあ、桐原伊吹はどうする?」


 芝居がかったように、絵理子、柚美、アイの目を順に見つめる。


「すみれちゃんの病室に乗り込むわよ」


 娘の心臓はやれないが、元気なら幾らでも共有できる。


「すみれちゃんに、

 世の中には余命が尽きても何年も生き続けた末期ガン患者が、

 いくらでもいることを教えてあげましょう。

 重症からオリンピックに舞い戻った陸上選手の話も教えましょう。

 再起不能状態からカムバックした格闘家の話をしましょう」


 絵理子も柚美も、伊吹の意図が掴めずに呆けている。


 アイは最初っから話が分かるはずもない。


「行くわよ。

 私なりのやり方で、昨日の問題に勝ってみせるわ」


 伊吹はアイを抱き上げ、足取りも軽く部屋を出る。


 はやる気持ちを抑えきれず、早足になる。


 後から慌てて絵理子と柚美が付いてくる。


 ひとりきりでは怯えてしまい、

 死神の影に踏み入ることさえ躊躇してしまうかもしれない。


 けれど伊吹は温かい光を抱いている。


 優しい気持ちとともに溢れる光を持っている。


 光の中、手をつないでくれる家族と友人がいる。


 一緒に手をさしのべて、死神の陰から引きずり出してあげよう。


「そうだ。

 先ずは、怪我が原因で剣道を引退した少女の話をしましょう。

 残酷な未来を告げられて少女は絶望したわ。

 お先真っ暗で、それはもう情けないくらい腐ったわ。

 毎日が曇り。じめじめよ。

 でも、傍らにはいつも大事な人たちがいた」


 伊吹は階段を上り始める。

 エレベーターを使わずに自分の足で歩きたい気分だった。


 アイが全身で抱きついてくるから、

 非力な伊吹でもその体重を支えることが出来た。


「冷たい雨で冷えた体を、暖かな光が何度も温めてくれるの」


 踊り場の窓から差し込んだ光が、全身を包む。


 前日の大雨が空気中の塵をすべて洗い流したのだろう。


 視線の先には飛び込みたくなるほど澄んだ青空が広がっている。


「まーた、

 伊吹ちゃんが自分の世界に浸って変なこと言い出した」


「いつものことよ」


「そして、愛らしい娘と出会って、

 私の中にも暖かい物があることを知った。

 今の私の気持ちを、あの子にも伝えてあげましょう。

 ああ、駄目だわ。今すぐにはうまく纏められない。

 少しずつ、ゆっくり整理しながら語り聞かせましょう。

 でもね、物語のエンディングは決まっているわ。

 ハッピーエンドよ」


 階段の最後の一歩に力を込め、

 病棟に場違いなほど元気な足音を響き渡らせた。


 腕の中のアイが頬をすり寄せてきた。


 可愛かったから、その頬に、唇でそっと触れる。

 ふたりの髪が煌めいた。

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吸血鬼の娘はヤマタノオロチと出会う うーぱー @SuperUper

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