2 津久井すみれ

 伊吹はどういう表情をすれば良いのか分からないまま、

 津久井すみれの病室に入る。


 逃げ場を奪うように戸は、ゆっくりとひとりでにしまっていった。


 カーテンの閉められた薄暗い部屋でも、

 ベッドの脇に大型の機械が置いてあるのが分かる。


 見覚えがある。


 おそらく、心臓の代わりに血液を循環させるための医療器具だろう。


「どなた?」


 小さなベッドで白髪の少女が首を僅かに動かした。


 すみれは死が纏わり付いた顔をしている。


 伊吹は鏡でかつての自分を見ているような錯覚を抱いた。


「えっと……」


 集中治療室ではないので、おそらく容態は安定しているのだろう。


 会話してもすみれの負担にはならないだろうと想う。


 しかし、伊吹はどう名乗るのか考えてもいなかった。


「もしかして、パパの愛人?」


「違うわよ!」


 あまりにも突拍子のない予測に、思わず声を荒らげる。


 しまったと後悔したが、

 すみれが口元に手をあて、くすくすっと笑っている。


 どうやらやり込められたようだ。


 すみれには物怖じした様子がないから、

 年上との会話に慣れているのかもしれない。


 上品で理知的な子供という印象だった。


 七歳とは思えないほど落ち着いている。


 パイプ椅子に座ると、室内を観察する余裕が生まれた。


 ベッドとパイプ椅子の他には医療用機械と小さな棚が一つあるだけだ。


 部屋代だけでも毎日数千円になるので、

 長期の入院患者は安い病室を選ぶしかない。


 伊吹は自分の病室には上等なベッドがあり、

 テレビやソファが備え付けてあるのが急に恥ずかしくなってきた。


 ただ、アイを救うために全力を注いだことだけは恥じたくなかった。


 膝の上で手をギュッと握る。


「どうしたの?」


「なんでもないわ。

 それよりも自己紹介しないといけないわね。

 初めまして。

 私は桐原伊吹。よろしくね。

 貴方のお父様のお世話になったことがあるの」


 貴方の父親に殺されそうになった者よ、とは口が避けても言えない。


「うん。よろしくね」


 父親とは似ても似つかない笑顔だ。


 伊吹は不覚にも、

 津久井が凶行に及んだ本当の理由を垣間見てしまったような気分になる。


 もし同じ立場だったら、

 伊吹もアイを護るために何をしていたか分からない。


 けど、だからといってアイを見捨てて、

 吸血鬼の心臓を差し出せば良かったなんて微塵も思わない。


 自分は正しいことをしたはずだ。


 なのに、胸に締め付けるような苦しさがある。


 挨拶と一緒に握った手はぞっとするほど枯れ細っていた。


 来るべきではなかったと、舌の奥が乾いて震える。


 津久井と敵対することになった件の真相は、

 不明のまま終わらせておけば良かったのだ。


 すみれにしてやれることなんて何もない。


 伊吹は、今日は挨拶に来ただけだからと、退室を告げる。


 何しに来たのだろうかとすみれは不思議に思うだろうが、

 伊吹には相手を慮る余裕はなかった。


 ただ、逃げたかった。


「すみれさん。

 もし主治医の許可が出たら、また遊びに来てもいい?」


 本当は来るつもりなんてない。

 ただの社交辞令だ。


 見ているのが辛い。


 自分はアイを護るために、この子の生き残る可能性を潰したのだ。


「うん。いつもひとりで寂しいの。

 最近はお父さんも来ないし。絶対、来てね」


「ありがとう。

 次は、すれみちゃんより年下の、やんちゃな子を連れてくるわ。

 お話し相手になってあげてね」


 きっと、二度と来ない。


 伊吹は孤独な入院生活をよく知っている。


 絵理子や柚美や部活の仲間が頻繁に見舞いに来てくれたとはいえ、

 みんな自分の生活がある身だ。

 朝から晩まで一緒に過ごせるわけではない。


 知り合いが見舞いに来てくれる週末の数時間が、とても待ち遠しかった。


 果たしてすみれには、伊吹にとっての絵理子や柚美はいるのだろうか。


 小学校に通う前から入院していたすみれに、

 見舞いに来るような友人がいるのだろうか。


 折り鶴をくれた人達は、

 いったい、どれだけすみれのことを愛してくれているのだろうか。


「そろそろ検査の時間よね。お邪魔して悪かったわ」


「ううん。お姉ちゃん、絶対にまた来てね。

 その時は、お外のお話を聞かせて」


「ええ。また来るわ」


 引き戸は、来室したとき以上に重かった。


 両手で開けるのがやっとだった。


 まるで牢獄だ。


 このドアは患者が不用意に出ていくのを拒んでいるのだ。


 死神に寄り添われたすみれが、このドアを開けることはないだろう。


 ドアが閉まりきる瞬間。


「嘘つき」


 病室内から漏れた微かな言葉が伊吹の背筋を凍りづけにする。


「もう、ひとりは嫌。

 嫌だよぉ。お父さん。お父さん……」


 伊吹は弾かれたように逃げ出した。


 重体患者が入院している病棟だということも忘れて、無我夢中に走る。


 気づいたら、自分の部屋に戻っていて、ベッドに俯せになって寝込んでいた。

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