エピローグ

1 戦いの翌日

 結局、伊吹は入院した。


 いくら怪我がないとしても、

 血まみれの姿を見た直後の絵理子や柚美は気が気ではない。


 特に伊吹の余命について知っている絵理子は、

 無理やりにでも入院させるしかなかった。


 伊吹は薄味の朝食を終えると、

 物足りなさを覚えて冷蔵庫を開けるが中身は空だった。


 仕方なくベッドに寝そべりテレビをつける。


 チャンネルを切り替えてみたが、昨日のことは何もニュースになっていない。


 伊吹にとっては人生の節目になるような大事件だった。


 だが、世間的には、

 病院の駐車場に突然無数の穴が空いた程度ではニュースにすらならないのだろうか。


 関が事業処理は任せろと言っていたので、彼が属する組織が対処しれない。


 伊吹は午前中に診察を受けて、

 異常がなければ退院することになっているが、

 いつ来るか分からない医師を待つ間は手持ち無沙汰だ。


 昨晩は「なんともない」と主張したが、

 レントゲンに始まり、CTスキャン、MRI、超音波など、

 検査のフルコースを体験した。


 どれも別の専門医が担当するのだから、

 いったい夜中に何人の医者が時間外勤務をしたのだろうか。


 当然、異常はなかった。


 むしろ異常があるとしたら、

 検査のたびに服を脱いで冷えたのが原因に違いない。


 夜の病院で検査用のガウン一枚だけだったのだ。


 MRIの部屋では精密機器を扱うためか冷房が効いていた。


 動いてはいけないから、冷えた身体をさすることすらできずに、

 大型の機械の中で三十分はじっと震えていた。


 超音波では下着姿でお腹にやけに冷たいローションを塗られて、

 ローラーのような機材でやはり三十分は撫でられた。


 体調を崩したら一時間近く半裸でいたのが原因に違いない。


 伊吹は昨晩の検査を思いだし、

 つい身を小さくするように自分の肩を抱いた。


 絵理子たちはアイを児童養護施設に戻らせる必要があったため昨晩の内に帰った。


 アイくらい小さい子なら、

 病室のベッドで一緒に寝られるから引きとめたかったのだが無理だった。


 伊吹はアイを桐原家で引き取るように祖父や絵理子に提案するつもりだった。


 命がけで護ったのだから、今さら離れ離れになんて考えられない。


 勝算はある。


 絵理子が血まみれの伊吹を見ているのだから、

 アイを護る覚悟は伝わっているはずだ。


「一年経ったら家が寂しくなるんだし、

 私への愛情をアイさんに向けて……

 なんて言えないわよね」


 津久井達は昨日のうちに警察に逮捕されたらしい。


 脱獄でもしない限り、彼ら異能者とはもう会うことはないだろう。


 手からかまいたちが出るからといって、

 法律や社会制度からは逃れられないはずだ。


「ふう」


 たった一日で随分と濃密な時間を過ごした。


 思い出すだけでも溜め息が漏れる。


「でも、まだ終わっていないわよね」


 伊吹は思うところがあり部屋を出る。


 パジャマ姿で人前を出歩くのは慣れていたので、恥ずかしくはなかった。


 伊吹は病院の構造は知っていたが、

 自分の現在地が分からなかったので適当に歩きだす。


 途中で案内板を見た。


 過去に入院していた場所とは病棟自体が違うようだ。


 個室が並ぶエリアを抜けて少しすると、賑やかな場所へ出た。


 廊下で割烹着を着た女性が食事の容器を回収すために動き回っている。


 容器を回収した台車のタイヤが、ガラガラと音を立てる。


 遠くからは「検温しますよ」「体調はどうですか」と、看護師が巡回している声がする。


 耳の遠い人を相手にしているのか、看護士は声を張り上げているし、

 大部屋のドアは常に開放してあるので、廊下は実に騒々しい。


 重体患者のいる区画に入院していた伊吹にとって予期せぬ驚きだった。


 病院には死の匂いが付いて周るような、静かな場所しかないと思っていた。


 伊吹は喧騒から逃れるように奥へと進み、エレベータがあったので乗り込む。


 三階に来ると一階の喧騒が嘘のように途切れ、しんとしている。


 同じだけの照明や暖房があるはずだが、やや薄暗く寒気がした。


 空気そのものが重くなったような気さえする。


 廊下の途中にガラス戸があった。


『重体患者が入院しています。通り抜けは御遠慮ください』と書かれた紙が貼ってある重い戸を、そっと開け静々と進む。


 スリッパがかかとに当たって音を立ててしまうので指先に力を込め、すり足するように歩いた。


 病室のドア脇にある液晶パネルを確認しながら、ゆっくりと奥へ向かう。


 全て勘違いや誤解であってほしかったのだが、

 目的の名前を発見してしまった。


 つくいすみれ。


 見た瞬間、息が止まった。


 背後から津久井が首を絞めてきたのではと錯覚し、

 思わず首筋に手を当ててしまう。


 消毒スプレーの置かれた棚に折り鶴が八羽、吊り下げてあった。


 どれも大きさや色が異なり、

 折り方のひとつひとつに個性があり、別人が作ったのだろうと窺える。


 けして孤独ではなかったと分かり、僅かにだが肩が軽くなる。


 引き返そうかと、弱気になった。


 伊吹は津久井と腹を割って話したわけではないから、彼の目的を知らない。


 本当に津久井は娘を助けるために戦っていたのか、確認したかっただけだ。


 伊吹は、すみれとは他人だ。


 一度も会ったことはない。


 津久井に殺されかけたのだから、

 娘ならば恨む相手であって、同情をくれてやる相手ではない。


 だが。


 娘のために戦っていたという事情は、

 自分と重なる部分があり、身につまされる。


 自分の足でここまで歩いて来た健常者が、

 死と隣り合わせで長期入院している患者にどういう顔をして会えば良いのか。


 ノックをしようとする手が、何度もドアの前で止まる。


「どうぞ」


 不意に中から、か細い声がした。


 まさか気取られるとも思っていなかった伊吹は反射的に「はい」と返事をしてしまった。


 もう黙って立ち去るわけにはいかなくなってしまった。


 伊吹はドア脇にある消毒スプレーで手を拭く。


 金属の取っ手は冷たく、引き戸は重かった。

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