2 伊吹はアイの居場所を推測する

 入れ替わるようにして、柚美の座っていた場所に絵理子が座る。


「ん?」


 伊吹はなぜか、柚美が心臓を指さした仕草に妙な引っかかりを覚えた。


 伊吹は高度先端医療を受けた身だから、

 新聞に医療関連の記事があれば目を通すようになったし、

 何冊かの本も読んだ。


 だから、医療機関での携帯電話使用に何の問題もないことは知っている。


 携帯電話が普及し始めた当時に国が調査して、

 殆どの機種が医療機器に影響を与えないという結果が出ていたはずだ。


 ただ、電波が機器に影響を与えるというイメージが強いのと、

 万が一を避けるために使用禁止になっている病院が多い。


 体内に埋め込む医療機器で真っ先に思い浮かぶのはペースメーカーだ。


 ペースメーカーとは人工心臓のことで、

 伊吹も入院中に臓器移植を受ける前は使用していた。


 心臓は体の中にある最も繊細で大事な器官だ。


 血液を全身に巡らせる命の源であるだけでなく、

 大昔から魂の在り処とされていた臓器でもある。


 近年では心臓の神経細胞に記憶が蓄えられているという説もあり、

 実際、伊吹は臓器移植によって本来なら知り得ない記憶を夢に見ている。


「心臓……。

 そういえば、アイさんを連れ去った男が津久井に電話して

 『心臓は動いている』と言ったわ。

 変な言い方よね?」


「もしそう言ったのなら、確かに変ね。

 身の代金目的で誘拐したなら『生きている』って言うわよね」


 仮に津久井の狙いが心臓だとしても、使い道なんてないはずだ。


「吸血鬼の治癒能力は噛むことによって、

 唾液が血液中に混ざって感染するのだから、

 心臓は無関係なはず……。

 それとも、心臓は何かの比喩なのかしら。

 特に意味はない言葉だったのかな……」


「ねえ……」


 絵理子は周囲を見渡した後、伊吹に顔を近づける。


「津久井と関さんが共犯で、本当の狙いは伊吹って可能性はないかな」


「……どうして、そんな発想になるの?

 誘拐されたのもアイさんよ。

 それに、関は協力的よ? もしかして疑っていたの?」


「当然でしょ。

 伊吹が信頼しているみたいだから余り口は挟まなかったけど、

 私は彼のこと、何も知らないもの」


「……まーくんは優しい人よ。

 私の身体が覚えているわ」


「その言い方はどうかと思う……」


「津久井の狙いがアイさんだというのは間違いないわ。

 それに、私を狙う理由なんてないでしょ」


「あのね……。

 私が犯罪者だったらアイちゃんより伊吹を狙うわよ」


「どうして?」


 絵理子はきょとんと子供っぽく目を丸くし、

 苦笑してから伊吹に額を近づける。


「伊吹がおやつ代わりに食べちゃう羊羹、あれ一本三千円。

 普通の家庭では特別な来客や行事の時にお出しするの」


 唐突に羊羹の話題になったので、

 伊吹は眉を顰める。


「道場に『ご自由にどうぞ』って置いてあるじゃない」


「それは栄養補給用のスポーツ羊羹。

 スーパーで数百円で売っていて安いの。

 伊吹が食べちゃうのは『翡翠』なんていう洒落た名前で、

 桐箱に入っていて、老舗の和菓子屋さんで売っているの」


 小さいホールケーキが三千円くらいなのだから、

 羊羹が三千円すると言われても、伊吹はいまいちピンと来なかった。


「羊羹は関係ないでしょ?」


「あるわよ。

 身の代金目当てならアイちゃんよりも伊吹の方が都合がいいでしょ。

 ……あ。そっか……。

 アイちゃんの里親がうちだって勘違いされた可能性があるわね。

 津久井と関さんがグルで一芝居打って、

 伊吹とアイちゃんが仲良くなってから、うちに身代金を要求……。

 そういった可能性もある」


 アイの事情に最も疎い絵理子だからこその指摘だった。


 伊吹は過去の因縁や運命といったものに考えを縛られていることに気付いた。


「でも、お金のためにそこまでするかしら。

 デパート火災を起こして、防犯カメラにも写って、

 警察だって動いているんでしょ?

 津久井は外科医よ。身元がはっきりしているから、警察にすぐ捕まる」


「確かに、ああいう不思議な力があるなら、

 もっと他の使い方をするわよね。

 銀行強盗とか。

 というか、やっぱ伊吹をさらった方が手っ取り早いか……」


「可愛いからさらったとか、

 もっと、ありきたりな理由なのかしら」


「や、それは伊吹ちゃんでしょ」


 通話を終えたらしい柚美が戻ってきた。


 病院を後にするため伊吹はソファを立つ。


「でも、子供をさらうありきたりな理由って、

 身代金目的か、性犯罪か、あとは臓器売買くらいでしょ」


「うぐっ。発想が物騒だよ伊吹ちゃん」


「だって、あいつら心臓って――」


 ソファを立って玄関に向かおうとする一連の流れで、

 伊吹はふと、受付にある小さなピンクの箱が目に入った。


「あっ……」


 伊吹は箱の中に入っているものに心当たりがある。


 それは臓器提供意思表示カード。


 自分が脳死状態になった場合に、

 臓器を他者の治療のために提供する意志を表明するためのカードだ。


 伊吹も財布の中に入れている。


「でも、そんな……」


 閃くものがあったが、信じがたいため伊吹は呻いた。


 伊吹は足を止め、財布からカードを取りだす。


 署名年月日に記載してあるのは、

 伊吹が臓器移植を受けてから暫く経った日付だ。


 もう二年も過ぎている。


「二年も……。あっ」


 ようやく伊吹の中で、全ての情報が一つになり、

 津久井の目的が分かった。


 どうしたのかと絵理子と柚美が目で問いかけてくる。


「失態だわ……。

 津久井を目にしてから思考が完全に麻痺していたわ」


 伊吹は児童養護施設で津久井と遭遇したとき、

 まるで夢の続きのように感じたし、

 関の豪雨を浴びてフラッシュバックする記憶もあった。


 だが、実際には夢の続きではなく、既に三年も経過しているのだ。


「まったく、自分の馬鹿さ加減に呆れるわ。

 こんなに大きくなっていたのに」


 伊吹はまるでアイがいるかのように腕を身体の前に持ってきた。


 夢のアイは小さくて両腕にすっぽりと収まった。


 けど、アイは三年が経ち、成長した。

 自らの手足でしがみついてくれなければ、

 伊吹の腕力だけでは上手く抱き上げられないほど、

 体は大きく重くなっている。


「津久井の目的が分かったわ。

 イレーヌの死後三年経ってからアイさんを連れ去った理由も説明がつく。

 ううん。三年、待つ必要があった」


 消えかけたかに思えたアイの手がかりが再び姿を見せ始める。

 伊吹の推測が正しければ、津久井の居場所も推測できる。


 伊吹は周囲の事情に対して盲目になりかけていた。


 だが、答えは最初から手の届く位置にあった。


 アイをさらった男の言葉に裏などない。


 そのままの意味だ。


 津久井は、アイの心臓を欲している。

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