第五章

1 伊吹は治療を受ける

 伊吹たちが訪れた整形外科クリニックは受付の終了間際だったので、

 支払い待ちの患者が二名いるだけだった。


 最も顔色の悪かった伊吹が最初に診察を受けたが怪我も異常もなかった。


 体力が尽きて昏倒しかけたというのが診察結果だ。


 伊吹は移植手術の後遺症で極端に体脂肪が少なくなっているため、

 体力の上限が低い。


 伊吹は柚美と絵理子が治療を受けている間、

 駐車場で水分補給飲料とカロリー摂取の補助食品を口にし、

 体力の回復に努めていた。


 夕暮れ時になり、肌寒さを覚えるのに伊吹が屋外にいるのは、

 アイを捜索しに行った関の帰りが待ちきれないためだ。


「駄目だった」


「……っ。驚かさないでよ」


 ぼーっと空を眺めて、飛んでいる鳥を数えていたら、

 急に背後から声がして、伊吹は手にしていた飲料を落としそうになった。


 関だと思い振り返るが、一瞬、伊吹は誤認する。

 間違いなく関だったが、黒いレインコートを着ておらず、

 黒のシャツとパンツ姿だった。


 全身黒ずくめであることには変わらないが、

 シルエットが異なるし、

 レインコート特有の光沢がないため、随分と印象が違う。


「趣味悪いわよ。

 忍者みたいに登場していきなり話しかけるのはやめて……。

 あと、全身黒はどうかと思う……」


「俺は普通に門から歩いて入ってきた。

 お前の注意力が散漫なんだ」


「目の前まで来る前に声くらいかけてよ」


「夕暮れに長い髪の女が病院の前で俯いて泣いているのはホラーだ。

 話しかけにくい」


「泣いてなんか――」


 伊吹は否定しようとしたが、自身の声が湿っているのに気づく。


 自分が落ち込んでいることが悔しかった。


 午前中の、アイを護ろうとした強い心は行方不明。


 アイを助けたいのは本心だが、

 それは、子供が連れ去られたのだから取り返さなければならないという、

 常識的な判断であり冷静な思考ではないかと、伊吹は感じている


 身体の中心からあふれる熱を、今は感じない。


「アイさんは?」


 伊吹は関がひとりで戻ってきたことから、良い返事は期待していない。

 案の定、関は数拍おいてから返事をする。


「……津久井が関与している施設の一つを調べてきたが、

 立ち寄った形跡はなかった。

 俺の仲間が監視しているから、

 もし奴らが現れたら連絡をしてくれる」


「そう……。

 貴方の不思議な力でアイさんを見つけられないの?」


「距離が離れていると熱や匂いでは追跡できない。

 それに俺の雨が痕跡を洗い流した」


「不便な体質ね」


「一般人の目を遠ざけるには便利な能力だ」


「そろそろふたりの治療が終わるから、少し待っていて。

 貴方の力だけが頼りなんだから、いなくなったりしないでよ」


「まるで別人のようにしおらしくなったな」


「しょうがないでしょ……」


「いや、それが普通だ。

 俺に戦いを挑んだときのお前が異常だ」


 伊吹は自分の無力を痛感し、

 他に為す術がないから、弱音ばかり漏れてしまう。


「自分でも不思議よ……」


 伊吹は失敗したと途中で気づけるほどの愛想笑いを浮かべる。


「中に入りましょ」


「いや、俺は外で待っている」


「そ……。いなくならないでよ?」


 伊吹は関を残しクリニック内に戻る。


 柚美の診断結果は脱臼。

 安静にして二十分おきに冷やせば、三日もすれば完治するらしい。

 肩の脱臼よりも、頬に貼られた大きなガーゼの方が目に入る分、

 痛々しく見える。


 絵理子は軽いむち打ちで、首筋に湿布を貼っただけだ。

 特に痛みはなく、念のために診察を受けたが異常はなかったようだ。


 支払窓口へ向かった絵理子を待つ間、

 伊吹は柚美と並んでソファに座り、

 デパートで起きたことを思いださないような話題を探した。


「怪我をしたのが、試合が終わったあとだったのは、

 不幸中の幸いね」


「腕が使えないから、食事とか着替えとか手伝ってくれるよね」


「貴方、兄が三人もいるんだから、そちらに頼りなさいよ。

 あの人たちならなんでも言うことを聞くでしょ」


「えー」


 伊吹は視線を夕方のニュース番組に逸らした。


「柚美さん、知ってる?

 おしょくじけんって、食事をする件のことじゃないのよ」


「それくらい知ってるよ。

 ……さっきの火事、ニュースになってないんだね。

 アイちゃん、何処に居るんだろう」


「……私が意図的にその話題に触れないようにしているのに」


「や、でも、放っておくのも落ち着かないし」


「でも、手掛かりは何もないのよ。

 後は関と警察の仕事よ……」


「もうっ。

 さっきと言っていること逆だし。

 まーた、弱い伊吹ちゃんになっちゃってるし」


「何よそれ」


「伊吹ちゃんってこういうとき、『私が助けるわ』って、

 竹刀か木刀を持って犯人宅に乗り込むでしょ」


「そんなに暴力的じゃないわよ」


 柚美が肩をぶつけて圧し掛かってきたので、伊吹は押し返す。


「教会に行ったときは『養子縁組をぶち壊してやる』って、

 鬼の形相してたくせに」


「してないわよ。

 どんな人が里親なのか見に行っただけよ」


「違うよ。思いっきり喧嘩モードだった。

 車の中まで『出てきなさい』って声が聞こえてきたし」


「嘘つかないでよ」


「嘘じゃないよ」


 ソファで押しあいをして程なくすると、

 支払いを済ませた絵理子がスマートフォンで誰かと話しながら戻ってきた。


「申し訳ありませんでした」


 絵理子は柚美にスマートフォンを手渡し、「お母さんよ」と囁く。


 柚美は画面を見つめたまま、

 自分の心臓を指さして首を傾ける。


「電話してもいの?」


「ほら、あそこの張り紙」


 絵理子が指し示す壁際の貼り紙には、注意書きがあった。


『ロビー内は携帯電話の使用が可能です。

 ただし、ここから先は医療機器に影響を及ぼす可能性があるため、

 使用は御遠慮ください』


「ロビーは使っていいのよ」


「そうなの?」


 柚美は貼り紙に目を通すと携帯を耳に当て「大丈夫だよ。全然、平気」と、友達とするような口調で話し始める。


 スマートフォンの利用可能エリアであっても気兼ねするのか、

 柚美はロビーの隅にある通話専用の小さい個室へと去っていった。

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