6 伊吹は大蛇を撃退する

「……無駄だ。気付いている」


 柚美が衝突する寸前に、

 男は伊吹の拘束をあっさりと解き、自ら飛び退いた。


 勢いもつけずに跳んだというのに、

 実に十メートル以上も離れた位置に着地する。


 豪雨のカーテンの中、伊吹の動体視力は、

 男の体に遅れて大蛇が飛び退くのを捉えた。


「大蛇をバネのようにして跳ねたのね……」


「伊吹ちゃん!」


 空振りをして前のめりになった柚美が、

 豪雨にも勝る元気な声を放った。


「伊吹ちゃん、大丈夫? 立てる?」


「正直に言って限界よ……」


 伊吹は柚美が差し伸べてきた手に掴まり、立ち上がる。

 立ち上がった直後によろめいたが、柚美が横から支えた。


 伊吹は、熱い手のひらを離したくはなかった。


 触れあう手から熱が伝わってくる。


 伊吹は柚美を抱き寄せると耳元に囁く。


「なんでひとりで逃げちゃうのよ、馬鹿」


「ち、違うよ……。

 これを取りに行ってたら伊吹ちゃん、居なくなってるんだもん」


 柚美が手にしていたのは、道場の給湯室から持ち出したであろう包丁だ。


 桐原道場では栄養補給のために羊羹を出すのが慣例だし、

 夏にはスイカを切って出すこともある。


 門下生ではないが、稽古に来たことのある柚美が

 包丁の位置を知っていたとしても不思議はない。


「それを持ってくる発想が恐怖よ」


 伊吹は呆れ笑いをしようとしたが、

 柚美が自分を置いてひとりで逃げたわけじゃないと知り、

 頬が緩むのを堪え切れない。


「今の刺突が当たっていたらどうするつもりよ。貴方、人殺しよ」


「だ、大蛇部分を狙ったから……。セーフのはず」


「ママ……」


 下から袖を引く力を感じたので見下ろすと、アイが起き上がっていた。


「アイさん。突き飛ばしてごめんね」


 眼が合うとアイはにっこりと笑って太ももに抱きついてくる。

 暖かいものに挟まれると、濡れて冷えきっていた身体の震えが治まった。


 いつまでも続いて欲しい時間だが、無粋な声が水を差す。


「状況は何も変わっていないぞ。アイーシャを渡せ」


「うるさい! 黙れ!」


 豪雨を切り裂く伊吹の恫喝。

 剣道で鍛えた肺活量は健在であった。


 伊吹は男を無視。

 目を丸くした柚美の頭を捕まえ、頭突きのように額をくっ付ける。


「柚美さん、

 私、今『自分は何者か』という問題に直面しているの。

 率直な印象を聞かせて。

 貴方の知っている、桐原伊吹はどういう人」


 触れあった鼻先を伝い、雨水が伊吹から柚美へと流れていく。


 喋るたびに濡れた鼻先が滑り、唇が接近し、触れそうになる。


 灰色に染まった林の中で、柚美が真っ赤な顔をする。


「強くて格好良い!」


「そう。桐原伊吹は強いわ。

 なら、目の前に大蛇がいる状況で、小さい子が誘拐されそうになっていたら、

 何をすべき」


「戦う。

 私は嫉妬するけど、アイちゃんを護るために戦う伊吹ちゃんも、

 格好良いと思う」


「ええ。桐原伊吹は、戦うわ」


 伊吹は背に活を入れ、勢いよく男に向き直る。


「待たせたわね。結論が出たわ。

 桐原伊吹は、貴方を完膚なきまでに叩きのめす」


「イカれた女だな。俺を見て抵抗する気になるとは……。

 これを避けたら、お前の隣にいる女の上半身が無くなるぞ」


 男が顎で大蛇を示す。


「覚悟の上よ!」


「それ酷い!」


「アイさん。来て」


 伊吹が呼びかけると、アイはだっこを期待したらしく両手をあげる。

 伊吹はアイの頭を撫でてから抱きあげる。


 アイの頬から伝わる熱が、雨に濡れて冷えた体に心地よかった。


「アイさん。桐原伊吹は貴方のこと、好きよ」


「アイもママ、大好き」


「どれくらい?」


 伊吹の問いに、アイは両腕をめいっぱいに広げて「とっても、とっても、大好き」と笑う。


「ありがとう」


 伊吹の表情に花が咲くのと同時に周囲が輝き始める。


 金色に変化した髪は雨天の底にあっても、陽を浴びたような色合いを魅せた。


「柚美さん。アイさんを抱っこしてて。

 そうすれば蛇は襲ってこないから」


「え、あ、うん」


 伊吹は柚美にアイを押しつける。


「イレーヌは関係ないわ。

 私が桐原伊吹として、アイさんを護る。そう決めたから、戦えるわ。

 だから行く」


 伊吹は男へ向かい、強く歩きだす。


 妙なことに、伊吹が距離を縮めていくというのに、

 男は棒立ちしたまま、身動き一つしない。


 右腕の大蛇は抜け殻のように路地に横たわっているだけだ。


 伊吹は、一足一刀の間合いに到達した。


 気迫で相手を呑もうと睨み付けると、意外なものを見た。

 男は動揺しきっていた。目を見開き、顎が脱力している。


「イ……」


 隙だらけだった。

 あまりにも隙しかないので、伊吹は戸惑う。

 相手の力を利用して投げ飛ばそうと思っていたのだが、

つっ立っているだけの相手には、却って何をすればいいの分からなくなる。


 伊吹は仕方なく、垂れたままの左腕を取り肘関節をねじり上げてみた。

 男は完全にふぬけており、なすがままだった。


「あぎいっ」


 男の肩が跳ね上がった。

 痛みが男の意識に活を入れたようだ。


 伊吹が左腕を離すと、男はその腕をそのまま横に薙ぎ払ってきた。


 伊吹は男の腕を再び取り、軽く捻ってやる。


 男の踵が宙に浮き、直後、全身が勢いよく前方に回転。

 すり鉢を割ったような鈍い音が響いた。


 大蛇を地上に残したまま男が回転したため、肩関節が外れたのだろう。


 男は顔から水面に突っ込んだ。


「関節、あるの?」


 予期せずに勝機が見えた。


 大蛇の右腕と人間の胴体との間に関節があるのなら、そこを破壊すれば大蛇は動かなくなるかもしれない。


 伊吹の足下では、男がうつ伏せに倒れて水面に没している。


 右肩を踏みつけ、関節を破壊すれば、無力化出来る可能性がある。


 だが、伊吹には、

 倒れた人間を背後から攻撃することは出来なかった。


 蛇をぶつけられて死にそうな目に遭ったのだから、

 伊吹にはやり返すだけの理由は十分にあったが、どうしても抵抗がある。


 剣道で鍛えた精神力は、伊吹に戦う強さを与えてくれていたが、

 同時に絶好の機会に攻撃を躊躇させる枷にもなっていた。


「立ちなさいよ!」


「ぐっ!」


「……?」


 伊吹が警戒の視線を向ける先で、巨大な影が輪郭を失っていく。


 大蛇は水中に沈んだまま二度と姿を現すことなく、

 男の右腕は人間の形に変化した。


 口元をぬぐいながら男がゆっくり立ち上がる。


 戦意がないように見えたが、伊吹は警戒を怠らず、

 男の様子をじっと観察した。


 やはり態度がおかしい。


 男は信じられないものでも見たかのように、目を大きく見開いていた。


 そして、男の口から、全く予期しない名前が漏れる。


「……イレーヌ?」


「え?」


「う、おおっ」


 何が気付けになったかは分からないが、

 不意に男の目に正気の色が戻った。


 男は背後に跳躍し、十メートルは後方の木へ飛び移った。


 背後さえろくに見ていなかったはずなのに、

 太い枝の下から逆手に指を引っ掛け、半回転して枝の上に膝立ちする。


 薄暗い林の中、豪雨で視界は判然としないが、

 伊吹は男が自分を見つめているような気がし、視線を逸らさなかった。


(私からは見えない。

 でも向こうからら見えている……)


 数秒視線を交わした後に、

 樹上の黒い影は身を翻し、遠ざかっていく。


「はあ……」


 伊吹は気が抜けて膝が笑い出したので、身近にあった木に背を預ける。


「……どうして去ったの?」


 伊吹はただ混乱するだけだ。


 あれほど執拗にアイをつけねらっていた男が、

 突然、腑抜けになり逃走した。


 しかも、去り際に、伊吹の夢に出てくる人物の名前を残していった。


「何がどうなっているのよ」


 雨がやんだ。


 勢いが衰えるでもなく、小雨になるでもなく、

 栓を閉めたようにピタリとやんでしまった。


 見上げれば、頭上に快晴が広がっている。


 大蛇と豪雨、夢でも見ていたかのように、

 一瞬で全ての異変が消え去っている。


「昨日、お薬を飲んだわよね。本当に幻覚を見ていたのかしら……」


 足元には川のような水が大量に残っているし、

 周囲からは雨上がり特有の、土の匂いが立ちこめてきた。


 とてもではないが夢とは思えない。


「アイさん、柚美さん、無事?」


 アイは笑っているだけだが、

 柚美は伊吹と同じように動揺しているらしく、

 周囲を疑うように見渡している。


「ねえ、伊吹ちゃん。これ、夢じゃないよね」


「……さすがに、夢でしょ。

 私を貴方の夢に連れ込まないで」


「だ、だよね。あんな化け物と戦うとか、ないよね。

 うんうん。夢だよね?」


「ええ。貴方が寝る前に読んだ漫画の夢よ。

 今度貸して。化け物の倒し方が載っていたら参考にするから」


「だ、だよねー。少年漫画は余り読まないんだけどなあ……」


 木々の枝葉からは水がこぼれ落ち続けているし、

 足下ではくるぶしまでの浅い川が残っている。


 川底には、大蛇の腹這いが残した溝があった。


 溝を中心に流れが乱れ、泥色の小さな渦ができている。


 伊吹がアイの頭を撫でてやると、スポンジのように水が溢れた。


 伊吹の頭も似たようなもので、前髪から額に何条も水が垂れてくる。


 雨が降っていた時は気にならなかったのに、

 やんだ途端、目に入りそうになる水が煩わしくなってきた。


「あ、よかった。壊れていない」


 柚美がポケットからスマートフォンを取りだして弄り始めた。


「貴方、携帯の心配だなんて……。

 というか、なんでそれで警察を呼ばないのよ」


「うっ……。

 後からアイちゃんの誘拐で私たちが掴まるかと思って」


「あの状況で、そんなこと考える余裕があったの?」


「……本当は、怖くてすっかり忘れてた。えへっ」


「まったく……」


「えへへ。記念」


 柚美が頬を朱に染めながら、写真を撮ってきた。


 アイが太ももに抱きついてくる。

 どうもアイはくっついていないと落ち着かないのか、抱きつき癖があるらしい。


「ママ、大丈夫」


「ええ。

 ぶつけた背中が少し痛いけど、怪我はしていないと思う。

 そういう貴方こそ、大丈夫なの?」


「ウイ」


 アイはけろっとしていた。

 何を心配しているのかすら分からないといった顔をしている。

 先ほどまで泣きじゃくっていたのが嘘のようだった。


「アイさん、本当に怪我はないのね。何処か痛いところは?」


 腕を掴んでみたり、腋の下を触ったりしてみる。


「ママ、くすぐったい」


 怪我をしていないか調べていたのだが、

 遊んでもらっていると勘違いしたらしいアイはきゃっきゃっと笑いだす。


 つい、伊吹もつられて、頬が緩む。


 心に余裕が出来たら、ようやく意識は体調の不良に気付き始める。


 転倒した際に、思っている以上に泥水を飲んだらしく、

 胃の辺りが重い。


「伊吹ちゃん、シャワー浴びたいよう」


「そうね。びしょ濡れだし泥だらけね」


 伊吹はアイの手を取り、柚美を促しゆっくりと歩きだす。


「シャワーを浴びて、昼食を採って、それからのことは後で考えましょう」


 厄介事はまた振りかかってくるかもしれないが、伊吹は気が楽だった。


 十年来の友人と同じくらい大切な存在が出来た。


 隣に並ぶふたりがいるなら、

 どんな困難だって、きっと乗り越えられるだろう。


 重い雨雲の後には、

 自分たちを輝かせてくれる優しい太陽が待っているのだから。


 ふわりと、金の髪が舞う。

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