5 伊吹は希望を見つける

 降り続ける雨は、辺りを浅い川のようにし、

 伊吹のくるぶしまで沈めていた。


(心臓が止まるかと思った……!

 無理! 無謀! あんな大蛇と戦うなんて、おかしい。

 この男の言う言葉が正しい。私は正気じゃない!)


 伊吹は自らの行動を理解できないでいた。

 数メートル先で呆けている男が伊吹の正気を疑ったように、

 伊吹自身も同じ感想を抱いている。


 桐原家は剣道場を開いているため、

 幼少から伊吹は、自分より遥かに体躯で勝る男と、

 試合をした経験がある。


 年上の男に挑むだけの、負けん気や心の強さはある。


 だが、それは剣道場に居るときのこと。


 道端で犬に吠えられれば怖いし、

 通常サイズの蛇が草むらから出てきただけでも、

 悲鳴をあげて逃げるだろう。


 だが、伊吹は大蛇の男に戦いを挑んだ。


(恐怖で頭がおかしくなった?

 でも……。割と落ちついているわ……)


 伊吹が手を当てると、胸は呼吸に合わせてゆっくりと上下する。


(……冷静よね、私?)


 路地の脇にある林からは、

 家鳴りのようなみしみしという音が生まれる。

 雨の勢いに耐えきれなくなった細い枝が折れたのだろう。


 伊吹の意識は路地脇の林へ向けられた。


(木々が乱立する場であれば、大蛇は思うように動けない?)


 男は伊吹と家の間に立っている。

 突破するよりも引き返す方が、逃げ延びられる可能性が高いように思えた。


「逃げるわよ!」


 伊吹は男に背を向けると、

 アイに駆け寄って抱え上げると、林に向かって走りだす。


(そうだ。いったん身を隠す。

 男をやり過ごしたら、お爺さまの部屋に行く。

 趣味の日本刀が一本くらい出してあるはず。

 私は、夢の中で切り刻まれたイレーヌとは違う。

 私の脚は、まだ動く。逃げる! 戦う!)


 枝が手足を引っかくのを気にせず、

 伊吹は薄暗い林の中を走りながら、打開策を練る。


(お爺さまの日本刀を手にしたとしても、

 屋内じゃ狭くて使えない。

 外に戻る必要があるけど、この雨の中で戦えるの?

 大蛇を両断する。……出来る?

 剣道と剣術は違う。そんなことは分かっている。

 でも、やらないと!

 こんなことになるんだったら、

 居合いもお爺さまに習っておくんだった!)


 アイを護らなければならない。

 自分も助かり、生き延び、これからもアイを護り続けなければならない。


(ああ、そうか。これは心臓の意志ね)


 伊吹は雑誌や本で臓器移植経験者の手記を読んだことがある。


 けれど、そこに書いてあるような、

 趣味や嗜好の変化はなかった。


 だから、自分の中に、他人の臓器がある

 実感なんて全く湧かない。


 麻酔で意識を失っている間に手術は終わり、

 気付いたら胸に手術跡が残っていた。


 そして、変な夢を見るようになった。


 ただ、それだけ。


 だというのに、伊吹は思い知った。


(私の中に、もうひとり、誰かがいる……)


 夢に登場する女、イレーヌの残滓が、

 血のように伊吹の全身を巡っている。


 胸に宿した命がアイーシャを護れと、内側から叫んでいる。


 アイーシャを護りたいという気持ちは、

 母性愛なんて綺麗なものじゃない。


 足をなくせば、這ってでも逃げる。


 腕をなくせば、敵に噛み付いてでも抗う。


 手負いの獣が死ぬまで牙を剥くように、荒々しく強い気持ちだ。


「なんで、いきなり、こんな……

 頭がこんがらがる」


 焼ききれそう錯覚が脳を襲い、伊吹の視界は歪み暗転していく。


 豪雨とは比較にならないほどの耳鳴りで平衡感覚を失った。


「くっ……!」


 右肩に走った激痛で伊吹は木にぶつかったことを知り、

 とびかけていた意識が戻る。


 視界が一瞬だけ赤く染まった。


 いつの間にか何処かで額を切ったのかもしれない。


 血はすぐに雨に流れて消えた。


 だが、豪雨は思考の乱れを洗い落としてはくれない。


 吐き気で呼吸ができない。


 震えが酷くて、自分の身体とは思えない。


 亡霊が身体を乗っ取ろうとしているかのような恐怖まで生まれてきた。


 伊吹は恐怖を振り払うように首を払うと、

 足が滑り、アイを抱いたまま転倒した。


 水が大きく跳ねる。


 側溝が溢れたのか近所の川が氾濫したのか、

 膝丈はあろうかという水かさだった。


 伊吹の下敷きになったアイは完全に水没している。

 伊吹は慌てて溺れかけていたアイを抱き起こす。


「けほっ、けほっ」


「アイ、もう赤ちゃんじゃないんだから、走れるわよね。

 走って。走って。走って!」


 背後から巨大な物体が水を掻き分ける音が接近してくる。


 咄嗟にアイを庇うように抱えた瞬間、伊吹は宙に舞った。


 大蛇の体当たりを受けたと気付く間もなく、

 水面を跳ねる小石のように、川と化した地面を水平に転がり飛ぶ。


 伊吹は平衡感覚を失い、上下すら分からなくなる。


 ただ、アイを護る両腕に力を込める。


 為す術もなく背中から木に激突し、川のような地に落ち、

 ようやく身体が止まった。


 背中に激痛が走り、視界が明滅する。


「くっ、ごほっ」


 伊吹の体は半ば沈みかけていたので、

 喘ぐと容赦なく泥水が喉に流れ込んでくる。


 喉の痛みが気付けになり、最悪の状況を理解した。


 伊吹の下でアイが溺れている。


 伊吹の両腕はアイを抱いたまま硬直している。


 心臓が破裂しそうなほど膨張して絶叫した。


 全身に青ざめた血流が行き渡り、身体ががくがくと震えだす。


「アッ、アーッ! やっ! あっ!」


 咽びかえり名前を呼ぶことすらできない。

 腕を放そうにも、まるで言うことをきかない。


 アイが必死に手足をばたつかせているが、

 伊吹の腕から逃れることが出来ないでいる。


 アイの口から漏れる酸素の泡が尽き、

 見る見る動きが弱くなっていく。


「駄目っ、駄目えっ!」


 伊吹は自分の下唇を噛み切った。

 痛みに反応するのを期待したが、腕の自由は戻らない。


 伊吹の身体は意思に反して、

 愛する娘を自らの手で水中に沈めたままにしている。


「アイさん! アイッ!」


 アイではなく自分が下側だったらと思い至った瞬間、

 ようやく打開策が閃いた。


 伊吹は目を閉じ呼吸を止め、横に回転する。


 自分が水没した代わりに、おそらくアイが水面から出ただろう。


 水中で背骨に鑢をかけられたかのような痛みが走り、

 伊吹は目と口を開いてしまった。


 泥水が流れ込んでくる。


 内外の痛みを無視して全身を使い、

 傍にある激突したばかりの木に背を預け、

 気の遠くなるほど遅い動きで起き上がる。


「げほっ、げほっ……」


 伊吹は半身浴の姿勢になり、ようやく呼吸が可能になった。

 眼から涙が溢れ、口から泥水を吐きだす。


「はあっ、はあっ、はあっ……アイさん、アイさん!」


「けほっ、けほっ、けほっ」


 アイは苦しそうに泥水を吐くが、窒息は免れたようだった。

 だが、薄桃だったほっぺが色を失っている。


 薄暗い林の中、歪んだ伊吹の視界に一際濃い影が侵入してくる。


「悪かったな。

 お前の動きを止めようとしただけだが、

 中途半端に逃げるから当たってしまった。

 もう、痛い思いは嫌だろ?

 アイーシャを渡せ。

 渡してくれれば、俺は直ぐに去る。雨も止むだろう。

 時間が無い。アイーシャを、今すぐ渡せ」


 傍らから降った言葉は、

 泥水にまみれた伊吹をあまりにも甘く誘惑する。


 桐原伊吹は既に気が萎えている。


 アイは必死に抱きついてくるというのに、

 伊吹の腕は急速に力を失っていく。


 アイの肩を抱えていた手がゆっくりと背中を滑り落ち、

 腰へと降りていく。


 伊吹は背中の痛みはひいてきたが、

 まだ身動きはおろか呼吸すらままならない。


 眼前に迫った大蛇の口が広がる。


 歯がなく、ミミズを裏返したかのような不気味な口腔は、

 伊吹とアイを余裕で一飲みしそうなほどに大きく開いている。


 伊吹は、考えることを放棄した。


 どんな結論を出したって、

 イレーヌの亡霊に惑わされたのではという疑念が脳裏を

 過ぎってしまうからだ。


 何故自分は会ったばかりのアイを守るために、

 不審な男に殺し合いともいえるような戦いを挑んだのだろうか。


 尋常な精神状態ではなかったのだ。


 そう、自分に言い聞かせる。


 心の天秤が傾く頃合いに合わせたかのように、

 無法者は風貌に不釣り合いな程に、穏やか声を発する。


「最後だ。アイーシャを渡せ。

 お前に危害を加えるつもりはない」


「……」

 伊吹はアイの肩に手をかける。

 するとアイは、溺れた子のように全身でしがみついてくる。


「ノン!」


「私は桐原伊吹なのよ。アイさんのママじゃないわ」


「ノン、ノン!

 ママがアイのママァーンだもん!」


 引き離そうとしても必死に抵抗するアイを、

 このまま手放しても良いのだろうか。

 葛藤が伊吹の手を鈍らせる。


 所詮は子供の体力だ。


 いくら伊吹が痩せこけているとはいえ、アイを引き剥がせるはずだ。


 ただ強く、アイの肩を突くだけでいいのだ。


 簡単なことなのに、伊吹は何故かそれができない。


 出会ってからせいぜい一時間しか経っていない子供に、

 同情しているのだろうか。


 命を懸けてまで、目の前の大蛇に歯向かう理由なんて、何も無いのに。


 胸の奥で燻り続ける思いは、イレーヌの残滓だけだろうか。


 心臓に宿った記憶が、アイーシャを愛おしいと思わせていたのだろうか。


 自分を慕ってくれている子供を見捨てて、桐原伊吹は平気だろうか。


 答えが欲しい。


 伊吹は苦悩する。

 本当の私は、今、いったい何がしたいのだろう。


 余命一年と告げられて自暴自棄になり、

 何もかもがつまらなくなった生き方。


 身体は普通に動く。


 命が尽きるまで、当たり前の生き方が出来る。


 普通に朝起きて家族に挨拶をして、学校に行く。


 ただそれだけでよかった。

 

 どうせ残り僅かな人生、濃い生き方をしたいと思ったこともある。


 けど、これは違う。


 いきなり大蛇に襲われて豪雨の中で濡れ鼠になって息を切らす、

 アクション映画のような生き方は望んでいない。


 身体は憔悴しきっており、肺が酸素を求めるばかりで、

 伊吹には考える余裕がなかった。


「皮肉ね」


 不意に、泥水で濡れた瞳から、涙が零れる。

 痛みによる生理反応ではない。


 伊吹に内心で笑うだけの余裕が、沸いた。

 伊吹の心に再び火をともしたのは、心臓とは別のところ、

 だけど、胸の中にある確かなもの。


 見えたから。


 男の背後に、本当の伊吹を知っていそうな者が見えたから。


 伊吹は両腕に「動け」と吠え、顔を上げる。


 数歩の位置に大蛇の男が迫っていた。


「アイーシャを渡せ」


「分かったわ」


 伊吹はアイを渾身の力で突き飛ばした。


 だが、男の言葉に従って差し出したわけではない。


 アイを男から遠ざけ、

 両腕を自由にした伊吹は一縷の勝機に賭け、男の脚に飛びついた。


 剣道の経験者にしては酷く頼りない細腕に力を込める。


 一年間の入院生活で枯れ木のように細くなった腕を

「綺麗だから大好き」と

 言ってくれたのは誰だったか。


 伊吹の心中は数刻前とは見違えるほどに、晴れ晴れしく澄んでいた。


 臓器移植によって自分の意思が不確かになってしまったかもしれないなんて、ぐずぐずと悩む必要はない。


 手術を受ける前の桐原伊吹を知っている者がいる。


「何処に行っていたのよ、馬鹿……」


 いつの間にか道場から姿を消していた柚美が、

 木々の合間から飛びだした。


 柚美は手にしていた何かを振りかざし、男の背中へと突進する。


 伊吹には友人の

『伊吹ちゃんはこうあるべきだ』と決めつけてくる押し付け精神が、

 今だけは希望のように眩かった。

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