第三章

1 伊吹はアイのおねしょを叱る

 真昼の暖かい空気が頬をくすぐる中、伊吹は半ば夢の中でまどろんでいた。


 ゆっくりと目を開けはしたが、意識ははっきりとせず、

 どうして昼寝をしたのかは分からなかったし、気にもしなかった。


「うーん……」


 寝汗のせいか、敷き布団はじっとりと湿っていた。


 伊吹は軽く伸びをしようとしたところで、

 右脇に何か柔らかいものがあるのに気づく。


 寝ぼけ半分の蕩けた眼で傍らを見ると、

 子猫でも潜りくんだかのように布団が膨らんでいる。


「何かしら……」


 いつも抱いて眠るテディベアより、僅かに大きい。


 伊吹が上半身を起こすと布団が捲れて、

 中から眠っている外国人の女の子が現れた。


 つい先程、隣町で出会って連れ帰ってしまった少女だ。


 伊吹はぽやぽやーっと泡が浮くような寝ぼけ視界の中、

 傍らのアイに手を伸ばす。


「……おっぱいあげなきゃ」


 時計を見れば15時だ。

 お昼ごはんを食べてから二時間ほど経過しているから、

 そろそろ授乳しなければならない。


 赤ちゃんは何かと手間がかかるのだ。


 伊吹はシャツを捲り、下着を外すと、アイをそっと胸元に抱き上げる。


 そして、寝ぼけたまま、ぽけーっと待つ。


 アイは眠っているので何時まで経っても吸ってこない。


「んー。お腹……。減ってないの?」


 伊吹がアイを揺り動かすと、

 視界の片隅で何かがキラキラと優しく煌めく。


 よく見てみれば、金色に輝く自分の頭髪だった。


 アイと出会ってから発症した謎の特異体質だ。


 驚きにより、伊吹はようやく脳が覚醒した。


「ひっ」


 状況を把握し、叫びそうになる。


 だが、顎を上げ、喉を張り、必死に叫び声をのみこむ。


 一瞬で、自分の行為が異常だと悟った。

 胸を丸出しにして幼い子を抱きかかえている。


 赤ちゃんにおっぱいをあげるのは夢の中の話であって、

 結婚してもいない自分が現実世界でやってしまえば、

 ただの頭がおかしい人だ。


 頬が熱を帯びてきた伊吹は、

 慌てつつもアイを起こさないようにそっと布団に戻す。


「アイさんがお昼寝して、私まで釣られて寝てしまったのね。

 可愛い寝顔は反則よ」


 伊吹はアイの金髪をすくい、額を撫でてやった。


 天使に祝福されたように穏やかで安らかな寝顔だった。


 大蛇に襲われたことなど、悪夢にすらならないようだ。


「貴方みたいな赤ちゃんなら欲しいけど、

 外国人と結婚しないといけないわよね」


 ふふっとつい笑みが零れてしまう。


 頬をぷにっとつつけば、ぷにょっとした弾力で押し返してくる。


 つきたてのお餅のように柔らかい。


「にゃあっ」


「うっ……」


 可愛く漏れたうわごとが、伊吹に悪戯心を芽生えさせた。


 伊吹は自分の金髪を手に取り、

 先端を刷毛のようにしてアイの鼻をくすぐる。


「アイさん、おひげ」


「くふっ」


「……ッ!」


 くしゃみともつかない寝息を聞いた瞬間、

 伊吹は胸に甘い締め付けを覚えた。


 心臓から熱い血がこみ上げてくる。


 伊吹は鼻血でも噴きだすんじゃないかと思い、手で鼻と口を覆う。


 顔中の筋肉がトロトロになっているのが、自分でも分かる。


「うっ。ううっ。もう、限界ッ!」


 伊吹は掛け布団を蹴り除けると、アイに抱きつく。


 アイに触れた二の腕から生まれた快感が、

 肩から首へと昇り、頭へと突き抜けていく。


 伊吹はむずむずを我慢できず、

 アイを抱きかかえたまま畳の上を転がった。


(可愛い、柔らかい。やわらかわいい!)


「ノン、ノーン!」


 アイが眼を覚ましたが構わずに、抱いたまま転がり続けた。


 二つの金髪が、まるで妖精が踊るように絡み合っていく。


「貴方、私の娘になりなさいよ」


 部屋の隅で止まると、伊吹はアイに頬擦りをし、早口でまくし立てる。


「貴方くらいの年齢なら今の私でも、

 勉強だけでなく、剣道や合気道を教えてあげられるわ。

 毛筆、硬筆を問わず、書道も教えてあげられる。

 料理やお裁縫は絵理子さんに一緒に習いましょう。

 寝室は当分ここでいいわね。

 自室が欲しくなったらいつでも用意できるわ。

 この家、古いけど部屋はたくさんあるの」


「ママ」


 アイは寝ぼけた顔で伊吹に頬をすりすりする。


 伊吹もするすり仕返す。

 お風呂上りにベビーパウダーを塗ったから、

 お肌がすべすべしていて気持ちいい。


 幸せな時間だったけれど、

 不意に伊吹は妙な冷たさを覚えた。


 何故だろうと伊吹は心当たりを探る。


「腰が冷えるわね……」


 身体の中がぽかぽかしているだけに冷たさが際だつ。


 まるで、真冬にこたつから出てしまったときのように腰だけが冷え込む。


 伊吹が腰を触ってみると、微妙に濡れていた。


 勘違いかと思って指先を動かすと、脇腹がかなり濡れている。


「ん、ちょっと待って。なんで濡れているの」


 自分の寝汗では説明がつかない。


 まさか先ほどの豪雨で雨漏りしたのかと思い、天井を見上げても異常はない。


 桐原家は蔵から江戸時代以前の巻物が発見されるような旧い家屋だが、

 見事に午前中の豪雨を耐えきった。


「なんでこんなに濡れているの。

 コップ一杯や二杯の水量じゃないでしょ」


 伊吹には「そういえば」と思い当たる節があった。


 アイは寝る前に、

 柚美と張り合うようにしてオレンジジュースを大量に飲んでいた。


 大蛇に追われて走って、喉が渇いていたのだろう。


 小さい子が寝る前に大量の水分を摂取したらどうなるか、考えるまでもない。


 伊吹は布団の、先ほどまでアイが寝ていた箇所を恐る恐る見た。


 予感的中。

 蕩けていた頬の筋肉が一瞬で引きつる。


「正座!」


「ひゃあっ」


 伊吹は正座し背筋を伸ばして、畳を小さくトントンと小突く。


「アイさん、貴方おねしょしたでしょ!」


「う、あ、うう……。ノン!」


 アイは、ぷるぷるっと首を振ったあと小さな足で逃げだした。


 おねしょがいけないことだと知っているらしい。


 サイズの大きいTシャツをふわふわさせながらアイは駆ける。

 アイは着替えが無かったので、伊吹のTシャツを着せてある。


 伊吹はアイのお尻の辺りが濡れているのを、確かに見た。

 

「待ちなさい。畳が汚れるでしょ」


「ノン!」


 家具の少ない十畳の和室は、子供が駆け回るのには十分すぎる広さがある。


 伊吹が捕まえようとすると、アイは必死に逃げ回った。


 だが次第に、鬼ごっこでもしているつもりになったのか、

 嬉しそうにはしゃぎだす。


「待ちなさい。逃げないで。遊んでいるんじゃないのよ」


 さすがに伊吹はアイみたい全力走るわけにはいかないから、大股で追いかける。


「意外とすばしっこいわね」


「ノン、ノーン!」


「……オリンピックに鬼ごっこ幼児部門があれば金メダルを狙えるわね」


「ママ、こっち! こっち!」


「ねえ、畳が汚れるでしょ。待ちなさいと言っているでしょ」


 伊吹は部屋の中央に位置取り、アイの逃走方向を限定するようにして、

 少しずつ追い詰めていく。


 やがてアイは部屋の隅にタンスの前で逃げ場を失った。


「むー!」


「むーじゃないでしょ。ほら。

 ……んっ、やっと捕まえた。さっさと脱ぎなさい」


 伊吹は脇の下に両手を回してアイを抱えあげた。


 重い。

 午前中は必死だったから気にならなかったが、

 腕力だけで持ち上げるのは、かなり厳しい。


 伊吹は早速、二の腕が痙攣し始める。


 さらに、アイは両手足を暴れさせた。


「よくも人の布団におねしょしてくれたわね!」


「ノン! アイじゃないもん!」


 伊吹はアイを布団の手前まで連れていく。


「じゃあ、なんで私のお布団が濡れているのよ」


「ママがおねしょした!」


「私、高校三年生よ。おねしょなんて、するわけないでしょ」


「アイじゃないもん!」


「腕が限界……」


 伊吹の腕力は数十秒ほどで限界に達していた。


 アイを抱えて豪雨の中を走った午前中は、

 いわゆる火事場の馬鹿力が出ていたらしい。


 伊吹から解放されたアイは、転がるようにして掛け布団に潜り込んだ。


「アイは、居ません」


「じゃあ、布団の中に居る貴方は誰よ……」


 伊吹が見下ろすと、ことわざ「頭隠して尻隠さず」どおりの状況になっていた。

 アイの上半身は掛け布団に隠れているが、お尻が丸出しになっている。


 伊吹は可愛らしいお尻を見ていたらむくむくっと、

 言いようのない欲望がこみ上げてきて、

 また頬がトロトロと落ちそうになった。


「そうやって可愛いアピールしても甘やかさないからね?

 私は怒っているんだから。そう。私は怒っている。

 これはもう、アレしかないわ。おしりぺんぺんね。

 べ、別におしりがちっちゃくて可愛いから叩きたいとか、

 そういうわけじゃないのよ」


 伊吹は足先でアイのお尻をつついたが反応はない。


 アイは隠れているつもりらしいので、知らないフリを通すのだろうか。


 指先で柔肉をぐりぐりとこねくりまわす。


 とっくにおねしょへの怒りは収まっており、

 結局、伊吹は自分でも怒るフリをしてじゃれていただけだったことに気付いた。


「ほら、アイさん。

 怒っていないから出てきなさい。

 シャワーを浴びるわよ」


 返事がないので、伊吹はアイの丸みを帯びた両足を掴み、引っ張る。


 アイの身体は十キログラムのお米袋よりもやや重く、

 非力な伊吹には意外と強い負荷があったが、

 一気につり上げる。


「大きなお芋が掘れたわ。食べちゃおうかしら」


「ノン、アイ、お芋じゃないもん!」


 アイが逆さ吊りのまま「きゃっきゃっ」と嬉しそうに暴れる。


 引っかかる所が無いので、パジャマ代わりのTシャツがすとんと落ちた。


 サイズの合う下着が無かったので、アイは全裸だ。


 幼児が全裸をさらけ出すのと同時に襖が開き、

 柚美が「起きたー?」と登場した。


 そして、部屋の状況を目の当たりにして、

 何をどう誤解したのか顔を引きつらせる。


「じ、児童虐待……! 通報案件!」


「声をかけてから襖を開けなさいよ……」


「ママァーン」


 伊吹が呆れていると、妙にだらけたアイの声が聞こえた。


 逆さづりのままだから頭に血が上ったのかもしれない。


「あっ、ごめんなさい」


 慌てたため思わず手を離してしまい、結果、

 当然のごとく、アイが頭から布団に落下した。


「ノンッ!」


「わっ。アイさん大丈夫?」


 伊吹は即座にアイの傍らに座って抱き起こしたがとっくに手遅れ。


 アイの顔は紅潮し、瞳は決壊寸前にまで潤んでいた。


 逆さまに落とされたのだから、怖かったし痛かったに決まっている。


「ごめんなさい。ごめんなさい。

 大丈夫。

 ほら、泣かないで。高い高ーい」


「うっ、うわああああああああああああああああああああああああんっ!」


「ごめんなさい。ごめんなさい!」


 アイはいったい小さな体の何処から出しているのかというほどの大音量で泣きだした。

 三十部屋ある桐原家でも、目覚まし時計はこれ一つで事足りそうだ。


「うわあああああああああああああああああああああああああああんっ!」


「お願い。お願いだから泣きやんでよ」


「うわああああああああああああああああああああああああああんっ!」


「貴方、蛇は平気だったでしょ。

 さっきは泣かなかったでしょ。

 ほら、貴方は強い子よ。だから、ね」


 必死な伊吹をあざ笑うかのように、

 柚美がお腹を抱えて笑い始める。


「うふっ、うははっ。何やってんの」


「うわあああああああああああああああああああああああああああんっ!」


「ねえ、アイさん。泣きやんで。

 ねえ。ねえって。

 ああっ、もう、どうして……」


 伊吹は耳元で鼓膜が破れそうなほどの泣き声を聞いている内に、

 罪悪感の中にイライラが芽生えた。


 何故なら、背後で遠慮もせずに笑っている親友がいるからだ。


「あははははははははははははははははははははははははははははっ!」


「うわああああああああああああああああああああああああああんっ!」


 泣き声と笑い声に挟まれ、イライラが膨らんでいく。


 騒々しいだけでも不愉快なのに、

 そもそもの原因はアイのおねしょなのに、泣かれるのは理不尽だ。


 伊吹は限界に達した。


「黙りなさい!」


 剣道で慣らした腹から出す声は、

 太鼓のようにドシンと部屋いっぱいに響く。


 ピタッと鳴き声が消えた。


 アイは目をまん丸と開いて伊吹を見上げる。


 泣きやんだのも束の間、

 直ぐに顔を真っ赤にし涙を零し「あっ、あっ」と咽び始めた。


「あ……。違うの、今のは……」


「ふ、ふえ……」


「お、落ちついて……」


 伊吹が、失敗したことを悟った頃には既にもう遅い。

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