3 伊吹は夢の赤ちゃんと再会する

「え?」


「ママ!」


 外国人の幼児が両腕で伊吹の膝を抱え、太ももに顔を埋めるようにしている。


「ママ!」


「ママって、私のこと?

 抱きつく相手を間違えているわよ」


 戸惑いながら問いかけると、

 感極まったとばかりに涙を溜めている幼女が見上げてきて、青い瞳と目があう。


「ママ、ママ!」


 幼女の言葉を聞く度に、心臓の音がとくんとくんと全身を満たしていく。

 伊吹は動悸が速くなっているのを実感していた。


「あれっ。あれっ。嘘。発作?」


 伊吹の胸にある心臓は医学用語で除神経心という。

 除神経心とは、手術によって移植した、身体とは神経が繋がっていない心臓のことだ。


 だから、運動をしても直ぐに動悸が激しくなることはない。


 まして、動揺したからといって高鳴ることなどあり得ない。


 伊吹は困惑の余り、何も出来ずに立ち尽くす。


「伊吹ちゃん、しっかり」


 事情を知っている柚美が血相を変え、薬を求めて伊吹のポーチに飛び付いてきた。


 伊吹にとって、何かしらの要因が切っ掛けで胸が反応するのは、臓器移植を受けてから、ずっと忘れていた感覚だ。


「ママ? どうしたの? ママ?」


 幼女の声で、ようやく伊吹は我に返る。


「な、なんでもないわ。ねえ、貴方、迷子?」


 幼女がきょとんとして首を傾げると、金髪が陽を浴びてふわっと輝いた。


「ノン。アイ、迷子じゃないよ。ママと一緒だもん」


 舌足らずな上に、アクセントがずれた外国人らしい発音だった。


「そう。お名前はアイさんね」


 伊吹は名前を反芻しながら深呼吸をすると、ようやく幼女を観察するだけの余裕を取り戻せた。


 アイは何処かに出掛ける途中なのか、ドレス風の白いワンピースはいたるところに、天使の羽のようなフリルがあしらってある。

 パニエでも仕込んであるのか、スカートは花のように膨らんでいた。


「貴方、言葉は分かるようね。けど、ママなんて何処にもいないでしょ」


 伊吹は目線の高さを合わせるため、アイの前にしゃがんだ

 間近で見つめるアイの碧眼は、朝露を満たした湖面のように澄んでいる。

 短い金髪は陽光と空気を抱いて陽炎のように揺れる。


 伊吹がまじまじと見ていると、アイはにらめっこのように見つめ返してきた。


 ぷにっとした曲線を描く顔立ちは幸せ一杯といった様子で笑みが溢れかえっている。

 

 瞬き一回、二回、三回。

 大きな目がぱちぱちするのを見ていたら、伊吹は自分の頬が弛んでいるのを感じた。


「貴方、なんで私とママを間違えたのよ。

 ママとはぐれたのよね?

 なら、貴方は迷子なのよ。分かる? まーいーご」


「ノン。アイ迷子じゃないもん。ママといっしょだもん」


 アイは抱っこしてと言わんばかりに両手を広げ、ただでさえ近い距離をさらに縮めてきた。

 伊吹は中腰の姿勢では避けることもできず、仕方なくアイを抱きとめる。


 その瞬間、心臓が大きく弾け、熱い血液が全身をどっと駆け抜けた。


「くっ……」


 身体の深いところから、得体の知れない衝動が込み上げてくる。

 溢れそうなほどに沸いた初めての感情はなんだろうと、考えた瞬間に稲妻のように答えが全身を貫いた。


 伊吹は心臓移植を受けてから、毎晩のように不思議な夢を見るようになった。

 夢の内容はおそらく、心臓に宿った記憶だろう。


 移植手術を受けた者は時として、臓器提供者の記憶を引き継ぐ。

 記憶転移という現象だ。


 記憶が転移する理由を現代の医学は未だ解明できていない。


 臓器内の神経が記憶を蓄えているという説や、細胞が記憶を宿しているという説などがある。


 いずれにせよ、臓器移植を切っ掛けにして当人が知り得るはずのない場所を知ったり外国語を話したり、趣味嗜好が変わったりすることがある。


 もし、伊吹の見ている夢が心臓の記憶なのだとしたら、

 移植手術から三年が経過しているのだから、夢の赤ちゃんだって成長している。


 そう、自分で歩けるようになり、今、伊吹が抱いている幼女みたいに小さな手足でしがみつけるようになっているはずだ。


「夢の、赤ちゃん?」


 伊吹はアイを抱く腕に、そっと力を込める。

 頬が触れあうと、マシュマロみたいな弾力が気持ちよかった。

 くせのある金髪が鼻をくすぐってくるのさえ心地よい。

 アイは赤子が母親にするように、小さな両腕でぎゅっと抱きついてくる。


 伊吹が経験したことのない多幸感に浸っていると、柚美の無粋な金切り声が割りこんでくる。


「伊吹ちゃん、変、頭が変! 頭が変だよ」


 伊吹はむっとして、居ることをすっかり忘れていた友人を睨み上げる。


「失礼ね。こんなにも可愛いんだし、私の娘だと思ってもいいじゃない」


「なんで泣いているの!」


「……は? 泣いてなんか」


 否定しようとした。

 が、視界が潤んでいたので、伊吹は眼の下を手でこすった。


「変だよ。伊吹ちゃん、頭が変!」


 幾らなんでも伊吹だって、アイが自分の本当の娘だと思っているわけではない。

 映画の登場人物に自己投影しているような感覚に近い。


 離ればなれになった親子が運命の再会を果たす瞬間に感情移入しているだけだ。


 気分良く感動の名場面に入り浸っていたのに、柚美が邪魔してきたのだから、ムキになって反論してしまう。


「変じゃないわよ。

 アイさんは私の娘よ。

 でなければ、この胸の高鳴りは説明できないわ。

 三年間ずっと忘れていた感覚が蘇ったのよ」


「意味わかんないよ。自分で気付かないの。金髪なんだよ」


「アイさんは外国の子なのよ」


「ちっがーう!」


 柚美がずいっと一歩踏み込み、伊吹の横顔から髪を一房すくう。


「ん? アイさんの髪にしては長いわね」


 アイの髪は首までしかないくせっ毛なのだから、柚美が手ですくうことは不可能なはずだ。


「誰かいるの?」


 伊吹は背後を振り返るが誰もいない。

 では、この長い金髪は誰のものだろうかと首を傾げる。


「引っ張るよ?」


 柚美がくいっくいっと引っ張るのに併せて、伊吹は自分の頭が引っ張られるのを感じた。


「嘘ッ、なにこれ」


 伊吹は慌てて立ち上がる。抱きついたままのアイの身体が、ふわっと浮いた。

 軽い。

 お尻に手を回してやると、抱っこの姿勢になった。


 伊吹はアイの身体を右腕で支え、左手で髪を取ってみる。


 やはり金髪だ。

 アイと同じ色の髪が、艶も良く陽を浴びて輝いている。


「私の髪なの?」


「その子に抱きつかれたら、急に色が変わったの。

 ああっ! 見て! 元に戻ってく」


 伊吹は柚美の視線を追い、毛先が黒色になっていることに気付く。

 さらに、じわじわあっと髪の毛が元の色に戻っていく。


「墨汁に浸した筆みたいね」


 伊吹は驚きが一周して、却って冷静になった。


 ゆっくりとした色の変化を、伊吹も柚美も黙って見ている。


 アイは色の変わっていく様子が面白いのかふたりの真似をしているのか、

 一緒になってじっと髪を見つめている。


 伊吹は変化の行く末を追い続けたが、頭頂部までは見えない。

 ぺこっとお辞儀して柚美に確認してもらう。


「どう?」


「うん。黒。黒。元に戻っている。

 でも、一体、なんだったの。

 伊吹ちゃんがその子を抱いた瞬間、ピカッて色が変わったんだよ」


「そんなことあるはずないでしょ。

 変な光の当たり方をしたとか、何処かにライトがあるとか……じゃないの?」


 伊吹は周囲に視線を巡らせるが、それらしき光源は見当たらない。


「ママァ」


 腕の中で、なんの警戒心もなくアイが甘えてくる。

 アイのぷにぷにほっぺを見た伊吹の中で、優しい気持ちが再燃した。


「わあっ、伊吹ちゃん! 金髪! 金髪!」


 耳元の叫びに弾かれ、伊吹は我が目を疑う光景を見た。

 自分の髪の毛が星のように輝いたかと思うと、上の方から毛先へと金色に変化していく。


「わ。わ。絞って。柚美さん絞って」


 混乱して、変な指示を出してしまった。


「駄目、駄目。止まんない」


 柚美も同じように混乱しているのか、指示に従った。

 ふたりでまだ黒い部分をギュッと握って、金髪への変化を防ごうとする。


 が、握ったところをすっとすり抜け、完全に金に染まってしまった。


「やだ。外、出歩けない。ねえ、もう、帰りましょう」


 伊吹は金髪を軽蔑しているわけではないが、お尻まで届くようになった黒髪を少なからず気に入っているから耐えられない。


 伊吹は柚美の返事も待たず、一目散に歩きだす。


 猫背になり手で頭を押さえ、周囲にせわしなく視線を振る。

 挙動不審だと思い至る余裕はない。


 伊吹は焦る余り、アイを抱きかかえたままなことを失念していた。


 捉えようによっては、連れ去り事案である。


 その様子を、公園の木陰から見つめる黒い影があった。

 その者が空を見上げ何事かを呟くと、遠くで、ゴロッと界雷が鳴る。


 地平の先に雨雲が生まれ、急速に、黒く分厚く成長し始めた。

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