2 伊吹は小さな不意打ちをくらう

 桜の花を見かける頃合いとはいえ、

 川を吹き抜ける風は冷たく、橋を渡る伊吹の足は自然と速くなっていた。


 伊吹の背後から追いすがるような足音が近づいてくる。


「待ってよ。待ってってば」


 伊吹は呼び声に気付いてはいたが、歩く速度を落とすつもりはなかった。


 会場からは剣道部員と顔をあわせずに立ち去るつもりだったのだが、顔見知りと遭遇したり、エレベーターが来るのが遅かったりして、余計な時間を費やしてしまったのだ。


 そのため、体育館を出たとき、入り口にいた柚美に見つかってしまった。


 随分と距離は開いていたし、小さなハンドバッグを持っただけの伊吹と違って、柚美は剣道の道具一式を背負っている。


 それに、先ほどまで試合に出ていたから疲労だってあるはずだ。


 だというのに、伊吹はあっさりと追いつかれてしまう。


「ちょっと、もーう。さっきから呼んでるでしょ。

 ごめん。ごめんってば。

 見に来てって誘っておきながら一回戦で負けたから怒っているの?

 コロシアムが足りてないよ」


「カルシウムでしょ……」


「やーっと、返事した」


 伊吹は隣に並んだ友人の顔をチラッと見、歩を緩めた。


 そして、柚美の服装を見ると、思わず眉を顰める。


 伊吹は枯れ枝のようにやせ細った自分の腕を隠すために、

 ゆったりとしたセーターを着ている。

 厚着しているのにも拘わらず、春先の寒さに二の腕を軽く抱えるほどだ。


 一方、柚美はいくら試合に出た後とはいえTシャツ一枚だ。


 伊吹が呆れて「寒くないの?」と口にするよりも先に、柚美は「暑いくらいだよ」と手で顔を扇いだ。


「そ」


「伊吹ちゃん、寒いの? 暖めてあげよっか」


 柚美が両手を大きく広げて抱きつこうとしてきたので、

 伊吹は「臭い」と顔をしかめ、仰け反る。


「ひっどーい」


 柚美が汗の染み付いた防具を着用した直後の、つーんとする臭気を放っているのは事実。

 だが、伊吹は別に心の底から嫌悪しているわけではない。


 それが分かっているから、柚美の声は笑い混じりだ。


「そろそろ、この臭いが恋しくなってきたでしょう。

 汗と制汗スプレーの混ざった変な臭い」


「剣道はもう無理よ。

 見てよ、ほら。私の髪、肩の下まで届くのよ。

 手術の時に切ったのが、ここまで伸びたの」


「それは、そうなんだけど、さ……」


「お風呂に入るたびに、このやせ細った身体は誰って問いかけるの。

 身体を洗うたびに、手や足の皮が柔らかくなってしまったのを実感するのよ」


 橋を渡り終えたところで足を止め、

 伊吹は手の平を柚美の顔の前に持っていく。


「貴方のとは違うでしょ」


「や。でも、伊吹ちゃんは道場から離れるべきじゃないと思う」


「道場の娘です。

 実家にいる以上、離れたくても離れられないわ」


「そういう意味じゃなくて」


「分かってるわよ。貴方の言いたいことなんて。

 でも、どうするの。マネージャーにでもなれと言うの?

 それとも一年生と一緒に、道場の隅で竹刀でも振っていろっていうの?

 貴方たちのこと、先輩って呼べば良いの?」



 それに、私、余命一年なのよ。

 ――とは言葉にできない。


 これは、家族しか知らないこと。

 親友の柚美にだって教えるわけにはいかない。


 柚美は頬をぷくーっと膨らませて露骨に不満をアピールしてきた。


「今の伊吹ちゃんは、伊吹ちゃんらしくないんだもん」


「何よそれ。私らしくない私なんてないでしょ」


「私はまだ何度でも伊吹ちゃんの試合するところ見たいし。

 みんなは練習に参加できなくても、部活に顔を出してくれるだけでも嬉しいって言っているし」


 伊吹は誰にも聞こえないくらい小さく「それは、惨めよ」と呟き、友人を置き去りにするくらいのつもりで足早に歩きだす。


 けど、僅か数歩で直ぐに足を止めてしまった。


 突如、小さな不意打ちを食らったのだ。


「ママ!」


 可愛らしい声が聞こえた瞬間、身体が硬直する。


 声の主は死角になる位置にいたのだろう。

 ちょうど公園の入り口前なので、植え込みあたりの物影に身体が隠れていたのかもしれない。


 伊吹が声の方を振り返るのと、勢いよく駆け寄ってきた幼児が太ももに抱きついてくるのは同時だった。

 

 トクン……。


 幼児に触れた瞬間、胸の深いところが強く揺れた。


 それは、止まっていた時が再び動きだす合図だったのかもしれない。

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