第一章

1 伊吹が失った日常

 全国高等学校選抜女子団体の熱気が九重市民体育館を揺らしている。

 四面ある試合場の至る所から、竹刀が防具を打つ音が裂帛の声とともに弾けていた。


 二階観客席の後列から桐原伊吹が遠く見下ろしているのは、福岡の強豪校を相手に苦戦を強いられている友人たちの姿だ。


(同じ場所に立つことが出来ない私は、

 まだ彼女たちと同じ九重学園女子剣道部の一員なのかしら)


 入院してからはおろか、退院してからも一度も部活に参加していない。


 今日は友人が「会場が近所だし、絶対ッ見に来てッ」とせがむから、応援に来ただけだ。


 一年と九ヶ月前、入院するまでは毎日が剣道漬けの日々だった。


 だから、たとえ二階席の離れた位置からであっても、

 選手たちの細かい動作を見逃すことはなかったし、

 意識すれば彼女たちの視界を想像することも容易であった。


 だから。


(柚美さんたちは負けるわね……。相手チームの方が実力は上だわ)


 柚美や剣道部員たちの動きが、かつてよりも格段に上達していることが伊吹の目にはっきりと分かる。

 柚美が試合に誘ったのもうなずける。


 凍えるような寒い冬に、いったい何度、足の裏の皮が捲れただろうか。

 汗が目に流れ込む真夏の日に、意識が遠のくまで竹刀を振った回数を覚えている者がいるだろうか。


 かつて彼女たちと同じくらい、いや、それ以上の研鑽を積んだ伊吹には、友人たちの過ごした練習の過酷さが手に取るように分かる。


 伊吹は柚美たちの手や足の皮の固さを、自分の身であるかのように想像できた。


 けど。

 伊吹は選手たちから離れた二階席に独りで座っている。


 伊吹が手を軽く握り拳にしているのは試合に熱中しているからではない。

 自分の手の平に豆が無く、皮が柔らかくなっていることを確認したかったからだ。

 友人たちの試合を見ても、胸に込み上げてくる熱いものは無かった。


(柚美さん、ごめんなさい。

 貴方が私に何を伝えたくて招待してくれたのかは分かっているつもりよ。

 でも、無理なのよ、私は、もう)


 余命一年。

 伊吹に残された時間だ。


 優しく脈打つ胸に手を触れる。

 長い入院期間は伊吹から筋力を奪い、やせ細った手足を残した。


 服用し続けている薬は伊吹の命を長らえさせる代わりに、鍛えても体重が増えず筋肉がつかないという副作用をもたらした。


(貴方たちの努力は褒めたいわ。

 でも、私はもう同じ場所には立てないのよ。

 だから、必死な姿を見せないでよ……)


 相手チームは剣道雑誌に名前が載るほどに将来を有望視されている者ばかりだ。

 二年前から見違えるほどに成長した柚美たちでも荷が重いだろう。


 負けは目に見えている。


 だというのに。


 伊吹の予想に反して、友人たちは誰もが、粘る、粘る。


 一本取られようが残り時間がわずかになろうが、ひたすら勝利を諦めない。


 みな、足をもつれさせて転倒しても直ぐに立ち上がり、竹刀を構える。


 控えている仲間たちは駆け出しそうなほど前のめりになって応援の声を張り上げている。


 伊吹は友人たちの姿を直視できなくなり、そっと席を立った。

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