第二章

1 伊吹はアイを連れ帰ってしまう

 三人は桐原家の敷地内にある剣道場にいた。

 掃除が行き届いており、床板は天井を映すほど綺麗に磨いてある。


 伊吹は道場の中央で柚美と向かい合って座っている。

 アイを連れ帰ってしまったので、家族に見つかるのはまずいと判断し、

 とりあえず剣道場へと入ったのだ。


「誘拐よね、これ……」


 頭を抱える伊吹の苦慮など知りもしないアイは、

 伊吹の膝の上にちょこんと座っている。


 帰路のバスでアイと一緒に景色を眺めているときは楽しかった。


 桜の木が見えるたびに「さーくーら、さーくーら」とたわいもなく音頭をとって肩を揺らしていたのを思い出すと、今でも頬が緩む。


 伊吹はバスから降りて自宅の門を潜って、

 アイの「公園に来たの?」という言葉に返事しようとしたとき、

 ようやく、初対面の子を自宅に連れ込んだと理解したのだ。


 深刻そうな表情で正座する伊吹の正面で、

 柚美はへらへらと笑いながら、女の子座りした身体を揺らす。


「だーかーら。大丈夫だって。大丈夫。

 私が伊吹ちゃんちに遊びに来ても誘拐じゃないんだよ。

 ならアイちゃんが来ても誘拐じゃないでしょ。

 子供だもん。そんなに心配なら交番に連れていこうよ」


「駄目よ。交番は遠いし、アイさんが可愛そうだわ。

 ……私たちでアイさんのお母様を探しましょう。

 きっと心配しているわ」


 アイは事態を飲み込んでいないらしく、

 小さな手で伊吹の髪を弄って、自分の髪の毛と混ぜて遊んでいる。


 慣れない手つきで三つ編みをしているのだろうけど、全く編めていない。


 編まれても困るので、伊吹はアイの行為を阻止すべく、

 背後からきゅっと抱きしめて頭に顎を乗せてみた。


 顎から伝わってくる髪の感触がくすぐったい。


「伊吹ちゃん……。やっぱり金髪になった」


「本当ね……」


 伊吹は視界の端にある自分の髪を意識した。

 すると確かに金色へと変化している最中だった。


 何度か観察して分かってきたが、

 どうやら伊吹がアイのことを可愛いと思うと変化するらしい。


 しかも、変化速度は感情の緩急に比例しているらしく、

 緩やかな気分の時は変化が遅く、たまらなく愛おしいと思った時は一瞬だ。


「伊吹ちゃん、デレデレしすぎ」


「うるさいわね。別にデレデレなんてしていないわよ」


「私といちゃついても金髪にならないのに、

 会ったばかりのアイちゃんに、たっぷりデレデレしすぎ。

 はあ、デレデレ、デレデレ……」


「何度もデレデレ言わないでよ」


 柚美がぶーぶー漏らしながら足をばたつかせるので、

 伊吹は名残惜しいがアイを離した。


 そして、天井を見ながら心の中で寿限無

 ――落語に登場する日本一長い名前――を暗唱した。


 気分が落ち着いてくると、面白いように髪の毛も元の色に戻っていく。


「伊吹ちゃん。やっぱ誘拐だよ。警察に届けよう」


「貴方、さっきと言っていることが逆よ。

 これは、友人が遊びに来ただけなの。何の問題も無いでしょ?

 お昼まではまだ時間があるし、アイさんのお母様は責任をもって私が探すわ」


「一緒にいたいだけのくせして」


「それもあることは認めるわ。けどね柚美さん」


 伊吹は背筋を伸ばす。


 柚美は真面目に聞くつもりがないのか、ごろんと床に寝転んだ。

 アイも真似して、ころんと伊吹の膝枕に寝た。


 いくら綺麗に磨いてあるとはいえ、床板に私服のまま寝転がるのは行儀が悪い。


 伊吹はふたりの仕草に軽く呆れる。


 礼儀作法を説こうかと思ったが、既に剣道から引退して三年が過ぎている。

 説法するのはお門違いだろうと、吐きかけた文句を飲み込む。


「先ほどの夢の話は、ちゃんと聞いていたわよね?

 私は夢の赤ちゃんが、アイさんだと思うの。

 けど、もしアイさんの母親を捜して見つかるのなら、

 夢の赤ちゃんとアイさんは別人だと、はっきりするわ。

 逆に言えば、そこまではっきりさせないと私は納得しない」


 いったん句切って、言葉が柚美に浸透するのを待ってから、

 伊吹はゆっくり続ける。


「私はね。理性では否定しているけれど、

 もう、アイさんが夢の子だと確信しているの。

 私の心臓は、アイさんの母親のものよ」


「数分前まではもしかしたらって言ってたのに、

 もう、確信しているとか言ってるし……」


 柚美は小さく溜め息を零してから、転がってそっぽを向く。

 背中越しの声はやや小さい。


「伊吹ちゃん、けっこう残酷なことだよ。

 アイちゃんの母親が見つかってほしいの?」


「それは……」


「伊吹ちゃんの夢が本当だとしたら、

 アイちゃんのお母さんは、もう……」


「言わないでよ……」


 アイの母親が他界しているのなら、

 アイは母の愛情を知らずに育ったことになる。


 伊吹に母親の面影を感じたというのなら、

 愛に飢えていたアイが甘えてくるのも頷ける。


「ねえアイさん。アイさんのお母様は、何という名前なの?」


「ママ? 伊吹! 伊吹がママだよ」


「どうして私がママだと思うの?」


「ママの匂いがするもん……」


 アイの返答はどうも要領を得ない。

 先ほどから何度も繰り返したやり取りだ。


 何が楽しいのか、アイは伊吹の太ももの間にぐりぐりっと額から割り込もうとしている。

 全身を動かしているものだから、小さなお尻も左右にふりふりと揺れている。


 愛らしい仕草を見てしまえば、

 伊吹はアイへの追求を忘れ、頬を緩ませるしかなかった。

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