7 伊吹は関の起源を知る

 動かない。

 倒れたままアイが動かない。


 混乱の渦中で手足を必死に動かし、伊吹はアイへ向かって走る。


(嘘だ。

 アレはアイさんじゃない。

 ただのぬいぐるみだ。

 近くに行けば分かる。

 抱けば分かる)


 世界が濡れて、愛おしい小さな姿が沈むように歪んだ。


 涙が瞳を覆っていたが、ただ一心に、前のめりになってアイに向かう。


 濡れた視界に、無粋な誰かが侵入してきた。


 アイを抱き上げることさえ許されず、

 頬に弾けた痛みで正気を取り戻したころには、

 転倒させられてアスファルトに全身を投げ出していた。


 無謀にも津久井一派に近づいたため、三人の内の誰かに殴られたのだろう。

 視野狭窄に陥って伊吹は自分が誰に何をされて倒れたのかすら分かっていない。


 ただ、伊吹にとってそれは大した問題ではなかった。


 伊吹はアスファルトに倒れたまま首を動かし、アイの姿を見つける。


「アイ……さん」


 手を伸ばせば届きそうな位置に倒れているというのに、

 アイはうつ伏せに倒れているので顔さえ見えない。


「アイさん! アイさん!」


 伊吹が呼びかけてもなんの反応もない。


 アイなら必ず「ママ」と笑顔を振り向くはずだ。


「桐原ッ!」


 頭上で破裂するような爆風が生まれ、一瞬で過ぎ去っていった。


 関の大蛇だ。


 おそらく伊吹を殴りつけた者を攻撃したのだろう。


 ドシンという轟音とともに、豪雨が駐車場を包み込んだ。


 関が変貌する際に起こる現象だ。

 駐車場はあっという間に水浸しになる。


 伊吹は涙と雨で溺れてしまいそうだった。


 呼吸が自由にならず肺が悲鳴を上げ、

 もがいて手を伸ばして、少しでもアイに近寄ろうとする。


 遅々として進まない様子をあざ笑う不快な声が、すぐ横から聞こえてくる。


「くっくっくっ。

 貴重な心臓を容器から取り出して持ち運ぶわけがないだろ。

 薬で眠らせているだけだ。

 けど、効果抜群だったなあ。

 関は随分と動揺してくれた。

 それに、なんの能力も無い女がひとりいるけで、

 他に仲間がいないことが、はっきりした」


 津久井がアイの首を掴み持ち上げる。


 そこへ大蛇が迫るが、

 池上と桧山が津久井の左右に達、何かしらの手段で不正だ。


 伊吹には透明な壁に大蛇が衝突したように見えた。


 伊吹の傍らに関が移動してきた。


「隠れていろって言っただろ」


「でもっ。でもっ」


 関は左腕で伊吹の胴を抱えると、大蛇でアスファルトを打ち付ける。


 ふたりは反動で後方に大きく跳んだ。


「やだっ。アイ!」


 小さな身体へと伸ばした手は、あまりにも遠く、何も掴めなかった。

 ライオンの着ぐるみが一瞬で遠ざかる。


「桐原、しっかりしろ。

 足手まといになるつもりはなかったんだろ。

 なら、せめて、一矢報いてみせろよ」


 病院の玄関前に降ろされた伊吹は濡れた視界で、

 小さな姿のある辺りをぼんやりと見つめることしか出来なかった。


 数十メートルの距離なのに豪雨が壁となって遮っているため、

 愛おしい姿はほとんど見えない。


「ねえ、関。アイさん……生きているの?」


「ああ」


「そう。なら、私も」


「姿をさらした以上、お前はもう役に立たない。

 元々戦力外なんだから下がってろ」


「けど、アイさん、まだ生きているなら私も。

 ほら、武器なら、ある、から……。

 あれ。関、水の竹刀、何処にやったの?」


「なくしたことにも気付いていないのか?

 萎えた気力で戦えるのか!」


 関の怒号さえ、あっさりと身体を通り過ぎていく。


 伊吹は心が挫けてしまったらしく、奮起することができない。


 へたり込んだまま、立ち上がろうとする足に力が入らない。


「おや。いいのかな。

 そんな子供とはいえ、いないよりかはマシじゃないのか、なあ」


 関の声がやっと聞こえるくらいの音が周囲を包んでいるというのに、

 離れた位置にいる津久井の声が明瞭に届いた。


 風を操る能力に依るものだろうか。


 津久井の声が不吉な宣告のように聞こえてしまい、

 伊吹はおずおずと視線を向ける。


 遠くで津久井が右手を顔の横に掲げると、

 何も無かったはずの足下から小柄な人影が現れる。


 伊吹の目にはぼやけた人影にしか映らないが、

 関の視力ではそれがハッキリと見えた。


「ちいっ。須原まで裏切っていたのか」


 伊吹にだけ聞こえる小さな舌打ち。


「関、お前の認識だと、私たちが裏切り者なんだろうな。

 確かに組織の意向を無視して、行動している。

 だがな……」


 須原が移動しながら点々と地面に触れていく。

 すると、須原が登場したときと同じように、

 何も無いはずの地面から次々と人影が現れる。


 角材を肩に背負った二メートル近い巨体。


 枯れ木のように細長い人影。


 腕だけが地面につくほど長い姿。


 短い棒を両手に持った痩身のシルエット。


 この場に現れるのだから普通の人間のはずがない。


「見えるだろう、関。

 いつの時代も、正義の下には人が集う」


 津久井、桧山、池上と合わせ、合計八人が雨の向こうに居る。


 伊吹は目にした光景を否定してほしくて、

 関に聞こえるように「嘘よね」と声に出した。


 だが、返事はない。


「関、月光仮面に変身して、あいつらを一掃してよ」


 伊吹が漏らした冗談は、

 本当に自分の喉から発したのか疑わしいほど震えていた。


 津久井の顔面に水の刀を叩きこむと滾っていたはずの闘志は、

 見る影も無く洗い落とされてしまっている。


 伊吹は勝ち目がないと悟った。


 関は桧山と今日だけでも二度戦い決着していないのだから、

 両者の戦闘能力は拮抗しているのだろう。


 となると、桧山と同等らしき者が七名も居るのだから、

 どう足掻いても勝算がない。


 だが、絶望に打ちひしがれる伊吹と異なり、

 関は平然としていた。


「月光仮面ってなんだよ。

 最近のライダーシリーズは同居人の影響で結構見ているが、知らんぞ。

 それとな、残念なことに俺が変身するのは悪役怪獣だ」


「そう。

 なら巨大化してあいつら踏みつぶしてよ……」


 関が冗談めかして言うから、

 伊吹も巫山戲半分で言おうとしたのだが、声は湿っていた。


「ああ。そうするか」


 あっさりとした声を怪訝に思い、伊吹はつい関を見上げる。


 伊吹は見上げる動作で、

 いまさらながら自分が座り込んでしまっていたことに気づく。


 自分の姿勢すら失念するほどに、呆然としていたのだ。


 関が、大蛇ではない方の手を伸ばしてくる。


 伊吹が掴まると、力強く引き上げて立たせてくれた。


「ヤマタノオロチを知っているか?」


「え、ええ……」


 関が手を離すと伊吹の手には再び、水の刀が握られていた。


「そうか。知っているか。なら、勝ち確定だ。

 俺は起源を誰にも教えていなかった」


 伊吹ははっと息を飲み込み、視線を重ねる。


 関の目が赤く無機質に染まり、瞳孔が縦に細くなっている。


「大蛇じゃないの?」


 関は口から音を立てて息を吐くと、背を向け、勢いよく踏みだした。


「俺の能力は広範囲で大雑把だ。アイーシャは任せた!」


 関は敵陣の中央に向かい、疾走。


 右腕の大蛇がぐわんと関の頭上で旋回し、巨木がうねるような異音が重く響く。


「待って!」


 豪雨の中へ届くように声を返しながら、伊吹は震える足で関を追った。


 津久井たちが散開し、関を取り囲もうとしている。


 ボボウッと音を立て、駐車場にある車のタイヤが発火。

 弾けるように上空へ舞い上がる。


 桧山の両拳にある炎がゴウッと膨らむ。


「全員、手を出すんじゃねえ! こいつは俺が焼き殺す!」


「桧山ァ! 一秒でも長生きしたかったら、総力で来い!」


 嬉々とした声とともに関の左腕が爆発し、

 雨でも流しきれない血肉の臭いを放ち、

 左腕が二匹目の大蛇に変貌していく。


 両腕を大蛇に変えた関の背中を追いながら、

 伊吹は僅かに声をうわずらせる。


「嬉しい誤算だけど、貴方、やはり生意気だわ。

 私と戦ったときは、どれだけ手加減していたのよ」


 戦力が倍増し、正気が見えた。

 伊吹は少しでも関の負担を減らすために、

 敵のひとりくらいは引き受けるつもりだった。


「はっ! 蒲焼きが一匹増えるだけだ!」


 上空のホイールが一斉に関めがけて急降下を開始。


「バラバラに切り裂かれろ!」


「はっ! テメエら研究部門の人間は、戦闘部門を知らない」


「あ?」


 ホイールが直撃する寸前、関は、

 とっておきのおもちゃを自慢する子供のように叫ぶ。


「これが!

 知ったやつは全員死ぬから、誰も俺の起源を知らないってやつだ!」


 空と海が入れ替わってしまったかのごとく、

 途方もなく巨大な水の固まりが落ちてきた。


 伊吹は立っていられなくなり、無様にも転倒してしまう。


 身を起こそうにも上空からの圧力が強すぎて身動きが取れない。


 既に雨ではなく天変地異であった。


 伊吹は辛うじて顔を上げて、

 陸地で溺れそうになりながら異常事態を見定めようする。


 雨雲が月と星を分厚く覆い隠し、自然の明かりは全て消失した。


 駐車場の電灯が頼りなく周囲を照らしているが、

 距離感が狂いそうなほどに弱々しく遠くに見えてしまう。


 道路を挟んだ位置のビルは窓の明かりを薄らと残し、輪郭を失っている。


 巨大なゴムチューブを引きちぎったような音が鳴り、、

 関の大蛇が粉々に弾け飛んだ。


 さらに両足が肥大し破裂、

 遺伝子の螺旋を解くようにして、筋肉の繊維や骨が舞う。


 四肢が千々に飛び散り、胴体だけ取り残された関は、

 自らの血煙の中に姿を消す。


 伊吹は豪雨でも流しきれないほどの血や内臓の臭いを嗅ぎ、吐き気をもよおす。

 だが、視線は逸らさなかった。


 首を上げるだけでも重労働だが、見届ければならない。


 こみ上げてきた物を飲み込み、目を見開く。


 関のいた地点に、

 地球上の生物ではありえない巨大な何かが複数うごめいている。


 雨が厚く膜を張った駐車場に、ずずずっと巨体が動けば、

 直ぐ脇を同等の巨体が這う。


 さらにその二つの巨体の上を、やはり長大な体が交差し、うねる。


 複数、いや、一つの塊だ。


 八匹の大蛇が一つに固まっていた。


 それは日本神話に登場する、ヤマタノオロチ。


 伊吹は怯んでしまい、せっかくの刀が手から零れそうになったが、

 寸前で気を引き締めたため、二度も間抜けを演じることはなかった。


 ただ、それは、事前に冗談交じりとはいえ、

 関が己の起源を告白していたから、僅かに心構えていただけだ。


 水の刀は指先に引っかかる程度の力で伊吹の手に残った。


 そして。


 剣道の竹刀というのは、力を込めて握る物ではなく、

 優しく手を握る様にして持つものだ。


 伊吹の強ばっていた肩から力が抜け、

 心に僅かの安堵と平静が訪れる。


 雨の勢いが衰えてきたため、伊吹は刀を杖代わりにして立ち上がり、

 眼前の巨体を見上げる。


「かける言葉がないわ」


『何故、俺に刀を向ける』


「あ……。つい。どう見ても悪者だし」


『まったく……。

 度胸があるのかないのか、よく分からん奴だな』


 伊吹は非現実的な光景を前にしても、

 既に許容範囲を超えているのか、不思議と恐怖は感じない。


 長い胴体を曲げながら頭部が一つ降りてきて、

 伊吹の前にやってくると口を開き、中からアイを出した。


『アイーシャを連れて、ここから離れろ』


「いつの間に……。

 唾液まみれじゃない。汚いわね……」


 伊吹は洞穴のような口からアイを抱え上げる。


 頬を触れあわせると微かな温もりが伝わってくる。


 雨の届かない巨体の下で、伊吹は確かにアイの吐息を感じる。


 アイは気を失っているだけで、無事だ。


『泣くほど怖いか?』


 伊吹には、無機質な蛇の口元が笑ったように見えた。


「恐怖の他にも涙を流す理由はあるでしょ……。

 貴方だって、それくらい分かるでしょ」


『……そうだな。

 暫くそうやって目立つ色をしていろ。

 踏みつぶさなくて済む』


「そう。そうね……。ありがとう」


 暗闇の底で、伊吹の髪はアイと同じ色になり、

 柔らかく解け合うように混ざっていた。

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