8 伊吹は再び津久井と対峙する

 伊吹がアイを全身で抱きしめ、駐車場から離れようとする。

 一歩進んだと同時に、

 大蛇の下部にある四本の尾らしき何かが鞭のようにアスファルトを砕き、巨体が跳ねた。


「くっ。危ないでしょ、関!」


 余波の水しぶきが波濤のようにそびえ立ち、

 伊吹は一瞬、視界を失ってしまう。


 関の近くにいることの危険さを、身をもって体感した伊吹は、

 アイを抱く腕にさらに力を込め、病院の玄関に向かって全力で走った。


 意識のない子供を抱くのは予想以上の重労働だった。


 豪雨で飲み込めないほどの騒音が伊吹の背を打つ。


 アスファルトが砕ける音や、

 おそらく敵の異能者が放った能力が炸裂したであろう音が響いた。


(道路工事が始まったというより、ビルの爆破解体の音と振動ね……)


 伊吹には振り替える暇などないが、

 どうしても背後が気になり、何度か振り返る。


 伊吹は目の当たりにした光景を現実のものとして認識できなかった。


「ああ……。これは映画よ。4DXだわ……」


 異能者から雷光がハリセンボンのように広がった。

 かと思えば、大蛇からとさかのように角が生え、

 避雷針のごとく電撃を吸収する。


 電撃を浴びて青白く発光した大蛇はそのまま敵のひとりへと頭を向ける。


 大蛇の突進を受け止めるのは、

 アスファルトを突き破って伸びる、巨大な土の手だった。


 二頭、三頭と続く大蛇の突進に、巨大な手が砕けたかと思えば、

 上空から落ちてきた無数の槍が大蛇を地面へ串刺しにし、

 燃えさかるホイールが飛来する。


 だが、それをものともせず、

 四頭目、五頭目の大蛇が、敵陣をかき乱すようにして標的へと迫る。


 巨大な爆炎が上がれば、

 それを突き破り大蛇は炎を放った能力者へと突進していく。


 大蛇は拘束からあっという間に逃れ、

 八方に首を伸ばし敵対者と能力を応酬する。


「何が起きているのか、まったく分からないわ。

 関の方が優勢なのよね?」


 技の応酬は理解の範疇を超えているため、伊吹には優劣の判断ができない。


「まるで前衛芸術だわ。

 見えているのにまったく理解できない」


 高度な数学式のように、

 問いかけは分かっていても解答は想像もつかない。


 だから伊吹には怪異が発生しているのは分かっていても、

 実際に何が起きているのかは全く理解できない。


 心臓がもたらした数奇な運命により今この場にいるが、

 完全に門外漢だった。


 伊吹は屋根のある玄関下に避難し、

 ハンカチが無いので袖を絞ってアイの顔を拭く。


 院内の僅かな明かりを頼りに、アイの顔を見れば、

 血色は良く、ただ眠っているだけに見えた。


「アイさん。大丈夫なのよね……」


 伊吹はアイを柱の脇にそっと寝かせる。


 抱きかかえて逃げたいのだが、余力はない。


 午前中に大蛇から逃げ回り、午後になって津久井たちと遭遇した。


 合計しても全力で運動したのはせいぜい三十分程度だったはずだが、

 それが伊吹の体力の限界であった。


 そして、アイが自らのちっちゃな手足で抱きついてくれなければ、

 伊吹には僅か十キログラム強の体重を支えることすら困難なのだ。


「ありがとう。アイさん。

 貴方に触れた瞬間、私、胸が温かくなったの。

 力が湧いたの」


 戦闘と豪雨の騒音を気にした様子もなく、

 アイはすやすやと寝息を立てている。


 伊吹は、ふと悪戯心が芽生えて、アイの鼻を摘んでみる。


 すると、アイは口からぷはっと小さく息を吐いた。


 乳首に噛みついて吸ってきたちっちゃな口だ。


 伊吹は鼻から手を離して、金髪に手櫛を入れる。


「雨で濡れているのが残念だわ。後で一緒にお風呂に入りましょう。

 お昼みたいにタオルで髪を拭くのを嫌がって逃げたら駄目よ」


 優しくリズムを刻んでいた心臓が、一度、跳ねた。


 それは、警告。


 アイーシャは父親が吸血鬼だ。

 イレーヌ自身はなんの能力も持たない一般人に過ぎない。


 だから、イレーヌの心臓を移植されたからといって、

 伊吹に関のような異能が目覚めることはない。


 だが、購物使いと呼ばれる異能力者を相手にする場合に限り、

 イレーヌの心臓を持つことは意味を成す。


 イレーヌの心臓を移植された伊吹が持つ、

 対異能者限定の呪縛は3つ。


 アイに母親として認識されること。


 関に好意を抱かれること。


 そして。津久井限定の特効。


 桐原伊吹は接近する津久井の気配を感じ取った。


「アイさん。

 もう少しだけ寝ていていいわ。うん。私、頑張れる」


 伊吹は靴と靴下を脱ぎ捨てると、玄関ポーチの中央に立つ。


 屋根があるとはいえ、

 周囲の雨が吹き込んでくるのでタイルは濡れている。


 伊吹は両足を前後に広げタイルの上で軽く踏ん張り、

 滑らないことを確認する。


「うん。なんとかなる」


 伊吹は刀を振るうときに備え、

 最高の心理状態を作り出すべく、目を閉じた。


 周囲を覆い尽くしていた雨音が消え、

 戦場から響く振動を遠く感じるようになる。


 残ったのは、背後に聞こえる優しい吐息と、自らの鼓動。


 そして、仇敵の存在。


「イレーヌ。ともに戦いましょう」


 相手を気取った瞬間の感覚を維持したくて、目は閉じたまま。


「八人がかりでなくていいのかしら。

 リズムが違うひと際大きくて重い音がある。

 他の音はバラバラ。関は彼らよりも数段強いわ。

 貴方、仲間を見捨てて逃げるつもりかしら」


「彼の強さには私も驚いている。

 まさか関がこんな切り札を隠しているとは。

 いや、そんなことはどうでもいい。

 アイーシャを返せ」


「渡すわけないでしょ」


「それは君の物ではないだろう。

 私が今日この日のために生かしておいた物だ」


「言っても無駄でしょうけど、不愉快だから指摘しておくわ。

 アイさんは、物ではありません。

 ここから先へは一歩も通さない」


「腕を切り落とされたいか?

 胴体を寸断されたいか?

 頭部を細切れにされたいか?

 どうすれば貴様は諦める?」


「貴方、関を出し抜いてここに来たつもりだろうけど、違うわ。

 関が見逃したということは、

 貴方ごときは私でどうにかなるということなのよ」


 伊吹は水の刀を中段に構え、

 ゆっくりと目を開き、切っ先を津久井の喉元に狙い定めた。


 カンは鈍っていない。


 間合いは、目を閉じて感じとっていたままと寸分変わらぬ、五歩。


 全盛期なら飛び込み面の一歩で殺せる間合いだ。


 だが、今の伊吹は全国優勝した時よりも、遥かに劣っている。


「貴方は手から風の刃を飛ばせるだけで、身体能力は普通。

 私だって素人じゃないわ。

 貴方が、他の連中よりも一段も二段も弱いことくらい見抜いているわ」


「それがどうした。

 知っているだろう。

 かまいたちの能力は防御不可避の切断」


 津久井が掲げた右腕から水滴が勢いよく飛んだ。


(水しぶきの軌跡から察するに、

 津久井の腕を包み込むような渦が生まれているのね)


「触れれば腕や脚なら切り落とす。内臓なら、細切れだ」


「脅しは無駄よ」


 伊吹はデパートで津久井が天井の蛍光灯を割るのを見ている。


 伊吹は津久井の間合いを、三メートルの槍に見立てた。


 攻撃の直線上にさえいなければ避けられるはずだ。


 ほんの少しでいい。


 僅かな時間でいいのだ。


 伊吹は自分の全盛期、

 天才剣道少女の名前をほしいままに全国大会を連覇した力を出せば、

 けして負けない。


 津久井など相手取るには物足りないほどだ。

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