8 伊吹は己の記憶に混乱する

 突如の豪雨であっと言う間に、足下に水が溜まった。


 足が滑り伊吹は転倒しかけるが、路地の壁に手を突き、堪える。


「くっ……!

 冗談でしょ。さっきと同じじゃない」


 伊吹は大蛇に襲われたときの雨を連想し、不安がこみ上げてくる。


 肺が悲鳴をあげているが無視し、再び全力で駆ける。


 伊吹がようやく交差点に差し掛かると、

 直ぐ先で、飛び跳ねる瞬間の車を見た。


「え?」


 車は壁にでも激突したかのように、前方へ進む力を失っており、

 代わりに後部が乱暴に跳ね上がっている。


 暗雲と豪雨で薄暗くなった視界だが、

 伊吹は車が停止した原因に気付いた。


 視界不良であっても、午前中に嫌というほど見たのだから、

 見間違えるはずもない。


 車のボンネットを、大蛇が上から貫いていた。


 車の前方に、黒いレインコートがいる。


「どういうこと?

 黒カッパは津久井の仲間じゃない?」


 接地した後輪がパンクし空砲のような音がし、

 直後、車両の胴体がアスファルトに衝突する金属音が、

 他の音を全て上書きした。


 だが、その騒音すら、豪雨がかき消していく。


「アイさん!」


 大蛇がいるというのに、伊吹は危険も顧みず車へと駆けだす。

 アイの実を案ずるあまり、思考停止し短絡的な行動を取っていた。


 伊吹がとりつく前に後部座席のドアは内側から蹴破られ、男が出てきた。


 先程、伊吹を殴りつけてきた男、桧山だ。


 伊吹はその場、三メートル程の距離を置いて立ち止まった。


 養護施設ではその姿を見ている余裕はなかったが、

 改めて正面から観察すれば、無策で近づいて良い相手には見えない。


 桧山の上背は180センチメートルはあり、

 顔や筋肉質な腕にはタトゥーが刻まれており、

 明らかに荒事に慣れた風体をしている。


 桧山は右腕で軽々とアイを抱えている。


 アイの姿を見た伊吹は、一瞬前の判断すら失念して、

 再び駆け出しそうになる。


 だが、ボンネットから大蛇が引き抜かれる鈍い音が、

 その場には警戒すべき相手が多すぎることを思い出させた。


 伊吹は動けない。


 反対のドアから津久井が額を押さえながら降りた。


 運転席にはもうひとり別の男がいるようだが、

 意識がないのかエアバッグに挟まれたのか、出てくる気配はない。


「アイさん!」


「ママ!」


 伊吹が安否を確認すれば雨に負けない返事が返ってきた。


 一先ずの無事は確認できたが、油断のならない状況だ。


 伊吹は耳を澄ます。


 絵理子が通報したはずだから警察の来着を期待するが、

 サイレンの音は聞こえない。

 周囲に視線を巡らせても、パトランプの灯りは見えない。


 伊吹は違和感を抱いた。


 津久井と桧山も当然、大蛇を目の当たりにしているはずだが、

 驚いた様子がない。


 桧山は大蛇の方へ体を向け、

 津久井は運転席で意識を失っている仲間の様子を確かめているようだ。


(……津久井達と黒カッパが揉めている間に漁夫の利を得たいのだけど……)


 大蛇は人の腰の高さで舌なめずりをしているというのに、

 曲がりくねった胴の中央は塀よりも高い位置で力を蓄えている。


(大蛇は今にも動きだしそう……。

 黒カッパはアイさんを襲えないから、手出しが出来ない?

 桧山と呼ばれた男は大蛇を警戒しているから動けない。

 津久井は運転席の男を起こそうとしている。

 ……誰も私に意識を向けていない?

 なら!)


 降り注ぐ大粒の雨が騒音を奏でているため、必要はないのだが、

 伊吹は足音を殺すためにすり足で、そっと移動する。


(津久井や桧山の視界には入っていない。

 けど、黒カッパからは見られている……。

 桧山とにらみ合っていてほしいけど……)


 伊吹はじりじりと移動し、桧山を中心にして、

 ちょうど大蛇の反対に辿り着いた。


 このままそっと忍び寄るつもりだったが、

 桧山が身を捻って、空いている左腕を、いきなり伊吹の方へ向けてきた。


 桧山の拳は燃えていた。

 豪雨でも消えない炎を纏っている。


(交通事故で火災?

 ……違う!

 右腕が大蛇になる男が居るんだから、

 左手が炎になる男が居ても不思議はないんだ!)


 伊吹は直感で、桧山の仕草を攻撃動作かもしれないと警戒し、

 体を横へ一歩ずらす。


 同時に、大蛇の頭部が僅かに下がるのを捉える。


(来る!)


 大蛇が一直線に、槍のように伸びた。


 桧山が宙返りをして大蛇を飛び越えて避ける。


 大蛇の胴が鞭のようにしなり、着地前の桧山の足をすくう。


 タトゥーの腕からアイが零れ落ちた。


 バランスを崩した桧山は地面に片手を着き、

 明らかに尋常ではない身体能力で跳ね、即座に体勢を立て直した。


 次の瞬間、アイの元に駆け出そうとした伊吹は、

 予期せぬ何かにぶつかった。


 いつの間にか、目の前に黒いレインコートの背中がある。

 アイに気を取られるあまり、伊吹は大蛇の男の動きを見落としていた。


「お前たちにアイーシャは渡さない」


「貴方はそれを言える立場じゃないわ!

 アイさんを返しなさい!」


「そのつもりだ。さっさとここから離れろ」


 予想外なことに男がアイを押しつけてきた。

 先程の攻防でアイを奪取していたらしい。


「アイさん!」


「ママ……」


 伊吹が小さな身体を抱きしめると、

 溺れた子のような強い力が返ってきた。


 怯えているだけで、どこも怪我していないようだ。


 アイの無事を確かめた後、伊吹は大蛇の男を睨みつける。


「お前に預けておいた方が安全だと判断した。

 さっさと、ここから離れろ。お前が何者かは、後で聞く」


 伊吹が返事に窮していると、前方が鈍い金属音が鳴った。


 反射的に音の位置を見れば、桧山が車のホイールを蹴ったらしいことが分かった。


「関、追撃者が来るとしたら、お前だと思っていたぜ。

 ええ、おい!」


 ゴトン、ゴトンと、車体右側面にある前輪と後輪のホイールが外れた。


 ボウッ。

 ホイールの周囲に火が灯った。


 祖父と同居する伊吹は、いつ何処で得た知識かは当人も知らぬところだが、

 妖怪の『火車』という名前を思い浮かべた。


 桧山が獰猛な笑みを浮かべる。


「くっくっくっ。女のくせに輪入道を知っているか。

 おかげで能力上乗せだ。

 蛇の蒲焼きを作るのが楽になるぜ」


「……?」


 伊吹は桧山の言葉を理解できない。


 伊吹は燃える車輪の妖怪を知ってはいるが、

 その名前が輪入道だということは知らない。


 また、目の前の男達が有する異能が、

 他人からの認識に影響を受けるものだということも知らない。


 ゴロゴロ……。

 車の反対側から燃える車輪が二つ出てきて、計四つが桧山の前に並んだ。


「関、追撃者が来るとしたら、お前だと思っていたぜ。

 改めて説明する必要はないだろうが、教えてやる。

 俺の能力は、輪入道。

 円形の物体を発火させ、操作する」


「火遊び程度の能力者が随分と威勢が良いな。

 ボス猿の前だからって吠えるなよ」


「てめえは前から気に入らなかったんだ。

 蒲焼きにして喰ってやる」


 車輪が火勢を強め、水蒸気がぶわっと膨れあがり、急加速。

 大蛇の男、関を目掛けて直進する。


「はっ!

 うなぎも食えない貧乏人が。

 攻撃が単調なんだよ。

 頭に栄養が足りてないぞ!」


 大蛇が胴をS字にくねらせて地を這い、車輪を次々と薙ぎ払っていく。

 車輪は関から逸れ、壁や背後の自販機に激突して停止した。


 伊吹はその場を立ち去ろうとしていたが、目の前を車輪が横切っていったため、つい足を止めてしまう。


「……ッ」


「まだ居たのか。

 女、巻き込まれる前にさっさと行け」


 居丈高な物言いに伊吹が言い返そうとするが、

 それよりも早く、側面から熱風が吹く。


「行かせるわけがねえだろうが!

 言ったぜ。

 俺の能力は、円形の物体を発火させて操作する」


 熱風の方向へ伊吹が視線を向ければ、そこには、

 ホイールが刺さった、飲料の自動販売機があった。


 ホイールは金属部品に引っかかり回転が止まっているが、その下。


 チャリン、チャリンと音を立てて、硬貨がいくつもこぼれ落ちていた。


「二連鎖」


 桧山の言葉と同時に硬貨が発火。

 爆竹のように爆ぜ、伊吹目掛けて無数の硬貨が飛んだ。


 伊吹はアイを庇い、自動販売機に背を向ける。


 直後、硬質な物体が肉に突き刺さる鈍い音が、無数に連続して発生した。


「……ッ!」


 伊吹は自分の背中に突き刺さったかと思い、瞼を強く閉じ、

 顎をキツく噛みしめた。


 だが、予期した痛みは訪れない。


 目を開ければ、間近に黒カッパの首筋が見える。

 関が大蛇を使って伊吹の盾になっていた。


「何度も庇わせるな。

 俺はお前を殺してアイーシャを連れ去る方が手っ取り早いんだ。

 それをよく理解した上で、さっさと去れ」


「……貴方が勝手に助けただけよ。

 お礼は言わない」


 伊吹は護られた事実からは目を背け、苦し紛れの言葉を吐き捨て、

 背を向ける。


 背後から立て続けに怒声や、鈍い音が聞こえてくるが、伊吹は振り返らずに走った。


(なんなのよ、大蛇に続いて、燃える車輪……)


 大した距離は移動しなくても、数メートル進んだだけで、

 豪雨が分厚いカーテンとなり、背後の喧噪を断った。


 交差点を曲がった所で、伊吹はアイを降ろす。


「アイさん。一緒に走って」


「ウイ」


 声は震えていたが、差しだした手をしっかり握り返してきた。


 伊吹はアイのペースに合わせて走る。

 アイを抱えて走りたかったが、既に伊吹は津久井の車を追って全力疾走していたので、もう体力が尽きていた。


 胸が疼く。


 不意に閃くことがあった。


 もしかしたら、夢で何度も見た場面は、

 同じような状況の直後だったのかもしれない。


(豪雨に津久井にアイさん……。

 夢と状況が似ていて、嫌な感じだわ。

 イレーヌが殺される夢には、

 関は登場しないけど、付近に居たの?)


 現在置かれている状況は、あまりにも夢と酷似していた。


 夢を構成する要素が揃ったためか、逃走の最中にあっても、

 お構いなく様々な景色や記憶が浮かび上がってくる。


「津久井……。津久井静一。ES細胞研究所の主任。

 イレーヌは彼の書いたV型稀血の論文を見て、日本に来たんだわ」


 はたと足を止め、来た道を振り返る。


 一度交差点を曲がったので、もう津久井達の姿は見えない。


「関……。関雅紀。まーくん?

 日本で知り合った男。イレーヌとは親しかった」


 イレーヌは大蛇の男も知っていた。


 変貌するたびに豪雨を招く、はた迷惑な雨男だ。


 記憶の関はやや幼い顔つきだが、十分、昼間に見た顔と一致する。


 関はイレーヌの記憶にある時点で成人していたので、背は変わっていない。

 だが、肩幅は広く、がっしりとなっている。


 伊吹は微細な部分までは記憶を得ていないが、大まかな情報は知り得た。


 アイを人体実験に利用しようとする津久井静一は確実に敵だ。


「関がまーくんなら、味方、なのよね?

 私がイレーヌの記憶を持っていると伝えれば、説得できるかしら」


 伊吹は窮地に光明を見いだした。


 関がアイを狙う理由は想像もつかないが、

 場合によっては味方に引きずりこめる可能性がある。


 脚を止めて考え込んでいたら、

 背後で短くクラクションが鳴り、光が伊吹を包みこんだ。


 絵理子の運転する車が、迎えに来てくれた。

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