第四章

1 伊吹は冗談のセンスがない

「良かった。アイちゃんも居るのね。

 濡れすぎ。早く乗って」


 絵理子が運転するのは、ドイツの自動車メーカーがモータスポーツのトップチームと提携して少数生産した高級スポーツカーだ。


 小柄な体でハンドルにしがみつくようにして運転席に座る二十代の女性は、

 お世辞にも車に馴染んでいるようには見えない。


 伊吹は後部座席の柚美につめてもらい、

 アイを真ん中に乗せてから、自身も乗り込む。


 座った途端に全身から力が抜けた。


 ふだん以上にシートに身体を埋める。


 濡れた服だったが、気にしているゆとりはなかった。


「よく連れ戻したわね」


「ええ。この先の右に誘拐犯たちがいるから、引き返して」


「おっけえ」


 車は後方へバックし、交差点で切り返した。


(さすがにあいつらも車には追いつけないわよね……)


 伊吹は助かったという安堵感がこみ上げてきて、

 目を閉じ、ゆっくりと、長く、息を吐いた。


「今晩は筋肉痛ね……。

 自分がどれだけ怠けていたのか思い知ったわ。

 一年前だったら、こんなにバテることなんてなかったのに」


 肺の欲するままに何度も深呼吸をする。


 脇にアイが抱きついて、雨で冷えた身体に温もりが気持ち良い。


 目を開けたら、自分の座っている側の窓が曇っているのが見えた。


 呼吸の荒々しさが急に恥ずかしくなり、伊吹は濡れた袖で窓を擦る。

 窓は濡れてまだらになっただけだ。


「伊吹ちゃん、これ」


 柚美が見覚えのあるミュールを足下に置いてくれた。


「あ、孤児院で脱いだままだった……」


 伊吹は裸足で飛びだしたことをすっかり忘れていた。


 足の裏を見ようと、途中まで傾けて止める。


 裸足でアスファルトの上を全力疾走したので、直視するのが怖い。


 自分のしたことを冷静になって認識し直した途端、

 足の裏にヤスリでもかけたような痛みが生まれた。

 

「痛い……」


 口にしたからって、痛みがひくはずもない。


 剣道の練習に明け暮れていたころなら、

 割れた硝子の上を走ったって怪我はしなかっただろう。


 足の皮が分厚く硬かったのは昔のことだ。


 伊吹は会話で気を紛れさせることにした。


「絵理子さん、タオル無いかしら」


「ないわ」


「柚美さん」


「無いよ」


「足の裏が痛いの。誰か、気の紛れることを話して」


「無茶した罰よ。我慢しなさい、伊吹」


「ううっ……」


 あっさり会話が終了してしまったから、

 痛みを忘れるほど長くなりそうな話題を必死に探す。


「……そうだ。

 絵理子さん、よく私のいるところが分かったわね」


「市道に出るには、ここしかないから」


「そ、そう……」


 またもや話題があっさりと途切れる。


 女子が四人もいるのに、

 なんでこんなときに限って会話が続かないのだろうと、

 伊吹は忌々しく思う。


 同時に、事件の渦中にあるのだから、

 全員の気が沈んでいるのかもしれないとも思った。


 足の裏がじんじんする。


 激痛ではないが、掻きむしりたい程にうずくが、

 はしたないので実行するわけにもいかない。


 伊吹はどうしようもならない状態で、うずきに耐えていると、

 ワイパーが水を掃く音すらかんに障ってきた。


 そんな伊吹に助け船を出したわけでもあるまいが、

 柚美が「ねえ」と口を開く。


 伊吹は渡りに船とばかりに「何?」とやや大きい声で返事をした。


「養護施設で何があったの?」


「そうね。何処から話したらいいかしら。

 夢のことから……?」


 伊吹は懇切丁寧に説明した。


 あくまでも伊吹が見聞きした事実のみにし、

 イレーヌの記憶については触れなかった。


「……なるほど。

 ねえねえ、アイちゃん。

 今まで誘拐されそうになった事ってあるの?」


「ノン」


 アイはよほど怖かったのか、全力で伊吹にしがみついたまま離れない。


「んー。言っちゃなんだけど、

 身の代金がとれるようには思えなかったけどね、あそこ」


「柚美さん。失礼よ。

 でも、確かに連れ去ろうとする理由が分からないと、

 落ち着かないわね……。

 ところで、絵理子さん。教会の吉田さんは?」


「意識はあるみたいだった。呼びかけたら反応があったわ。

 大丈夫って言ってたけど、隣の家の人にお願いしておいたわ」


「そう。なら安心」


 伊吹は僅かに微笑む。

 吉田の意識があったことに安堵したわけではない。

 わずかな時間で最善と思える行動をとった絵理子が誇らしく、一緒に居られることに安堵していた。


 車は狭い路地を抜け市道に出ると、音も振動も小さいまま加速した。


 いつしか雨は止んでいた。


 津久井たちから遠ざかるほど、伊吹は心が落ち着いていく。


 津久井には自宅を知られていないので、

 なんとかなるだろうかと考えていると、窓をノックする音がした。


 走行中だというのに、空耳ではない。


 運転席側の窓を見てみれば、黒いレインコートの男が並走していた。


 伊吹と同時に、絵理子も気付いたようだ。


「嘘、五十キロよ」


 絵理子は視線をすぐに前方へ戻したが、

 ハンドル操作を誤ったのか、僅かに車体が路側帯側へ寄った。


「嘘、五十キロよ」


 絵理子が短く悲鳴をあげた。


 関は指で、何かを持ち上げるジェスチャーをしている。


「開けろ……かなあ。どうしよう」


「絵理子さん、開けて。

 言うとおりにしないと、窓を割って無理やり入ってくるわ」


「分かった。停めるわ」


「ええっ?! 加速して逃げようよ!

 伊吹ちゃん、こいつ、午前中のやつでしょ!

 殺されるよ!」


「大丈夫よ。午前中とは状況が違うから」


「でも、でも……」


「交通事故を起こすくらいなら、停まる方が安全よ」


 車はゆっくりと速度を落とし、路肩に停まる。


 停車と同時に関はドアを開けると、

 濡れたレインコートを着たまま助手席に身体を押しこんできた。


 呆気にとられている車内の反応を余所に、関は平然とドアを閉める。

 黒尽くめのせいで車内が一気に暗くなった。


 関の黒衣から唯一露出した右腕が血にまみれている。


 傷の上を火傷が覆い、既に腕というより肉の塊と化している。


 車内に血の臭いが充満していく。


 男性に比べると女性は血を見てもわりと平然としていられる。


 だが、さすがに関の損傷は限度を超えていた。


 車内の誰もが息を呑む。


 伊吹はアイの頭をそっと抱き、関の腕が目に映らないようにしてやる。


「アイーシャを誘拐しようとした連中が追ってくるかもしれない。

 移動しろ」


「う、うん」


 絵理子は助手席の関を気にしながらも、指示どおり車を発進させた。


 伊吹は怪我には驚いたが、不思議と、

 もう関を恐ろしいとは感じなかった。


 少なくともイレーヌの記憶は、関を恐怖の対象とみなしていない。


 伊吹はイレーヌの年齢と、夢から三年経過していることから、

 関の年齢を二十二歳だと割り出した。


 伊吹より年上ではあるが、イレーヌの記憶では、

 関は年下の可愛い子だ。


 大蛇を見ていない絵理子もまた、あまり関を恐れていないようだった。


「ねえ君、その傷。大丈夫?」


 絵理子の声が震えているは関を恐怖しているからではなく、

 尋常ではない傷を見て心配しているからだろう。


「見た目が派手なだけだ。それ程重傷じゃない。

 前を見て運転しろ。包帯になるものは有るか?」


「ないわ。病院に行った方がいい?」


「いや。ちょうどいい。その先にあるコンビニで包帯を買ってくれ。

 止血さえすれば、すぐに治る」


 車は速度を落とし、コンビニの駐車場へ入っていく。


「待って、絵理子さん。なんでそいつの言うことを聞くの。

 アイちゃんを誘拐しようとしたんだよ。

 お昼に言ったの、そいつなんだよ。

 そいつが大蛇の男なんだよ」


 柚美が抗議のため、運転席のヘッドレストを揺する。


「ちょっと。駐車中なんだから、邪魔しないで。

 怪我人を放ってはおけないでしょ」


「でも」


「でもじゃありません」


 絵理子は車を停めるとさっさと降り、コンビニへと歩いていった。


 ドアを閉める音を切っ掛けにしたかのように、車内から会話が途絶えた。


 柚美は運転席の後ろで震えているし、

 アイは伊吹に抱きついたまま離れない。


 関は無言で車内を圧している。


 ハッキリ言って空気が悪い。


「なんとかしないといけないわよね」


 伊吹は自分だけ落ち着いたままでは居心地が悪い。


 アイが震えているのは関を恐怖しているのではなく、

 誘拐されかけたからだろう。


 少し経てば落ち着くはずだ。


 問題なのは柚美だ。


 伊吹は人からよく「冗談のセンスがない」と指摘されているが、

 それを本人は認めていない。


(柚美さんを落ちつかせるために、何か面白い話を……)


 そんな伊吹が、場を明るくするための話題を探した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る