7 伊吹は再びアイを失う

「ん?」


 男は怪訝な表情をした。


 狭い部屋だから伊吹の呟きが、自分の名を呼んでいたと気付けたのだろう。


 赤ん坊なら三年も経てば、

 アイのように姿形は大きく成長する。


 だが、成人男性なら、外見の変化は少ない。


 津久井は白衣が紺のスーツに変わっただけで、

 夢と同じ体格と顔つきをしていた。


 津久井が上半身を捻り、伊吹へ向ける。

 だが、津久井の視線は僅かに、逸れている。


「おい待て」


 突如、伊吹の頭部に鋭い痛みが走り、腰が泳いだ。


 伊吹は津久井に気を取られていたため、

 ドア脇に立っていた別の男に気づいていなかった。


「ぐっ!」


 夢の人物が登場した驚きと、頭部への衝撃が伊吹に空白の時間を作った。


 伊吹はドア枠に身体をぶつけた後、

 満足に受け身も取れず、室内に倒れる。


「……ッ」


「桧山。待て。

 ……誰だ? 見ない顔だが、組織の関係者か?」


「津久井さん。殴った瞬間に、呪力を感じなかった。

 こいつは、能力者じゃないです」


「そうか。

 だが、このタイミングで現れるというのは気になるな。

 おい、女。なんで俺の名前を知っている」


 伊吹は混濁する意識のまま、考えるよりも先に口が開いていた。


「津久井、貴方にアイさんは渡さない!」


「ママ! ママ!」


 アイの叫びが気付けになったが、伊吹は視界がぼやけていて、

 事態を呑みこめない。


 ただ、不意打ちで殴られて、

 うつ伏せに転倒していることだけを把握した。


 伊吹は起きあがろとするが、背中を何かに押さえつけられている。


 伊吹は位置的に、

 桧山と呼ばれた男が踏みつけているのだろうと理解したが、

 反撃する術がない。


「くっ……!」


 伊吹が両腕に力を込めて、あがいていると、

 廊下から足下を踏みぬきかねない大きな音がした。


「離れなさい!」


 道場の外では聞いたことのない、絵理子の鋭い声が飛び込んできた。


 おっとりとした性格に似合わず、絵理子は合気道の師範を務めている。


 伊吹は安堵しかけるが、同時に、想像以上に悪い事態に陥っていることを察した。

 師範の絵里子が、桧山の狼藉を放置しているということは、

 アイが捕まっていて手が出せないのだろう。


 伊吹は先ず自分が窮地を脱することが先決と知り、

 渾身の力で上半身を仰け反らせようとする。


 だが、桧山の足はびくともしない。


「津久井さん、こいつどうしますか」


「聞きたいことがある。桧山、そのまま取り押さえていろ。

 奇妙な女だ。組織の追撃者ではなさそうだが……。

 この施設の関係者か?

 お前、何者だ?」


「……何者?!

 私からアイを奪っておいて!

 よくそんなことを!」


 伊吹の中で急激に怒りが膨らんできた。


 伊吹にとって津久井は初対面ではあったが、

 既に、己を殺し、娘にまで危害を加えようとする敵であった。


 牙を剥き、鬼気迫る表情で立ち上がろうとする伊吹を見下ろし、

 津久井は大きく溜め息をついた。


「……ふう。会話にならん。

 こうも間抜けな奴なら組織の追っ手ではなさそうだ。

 目的は達した。

 桧山、行くぞ」


「はい」


 男達が絵里子の居るところとは別のドアから出ていく。


 背中にかかっていた圧力が消えたため伊吹は上半身を起こし、。

 ふたりが部屋から出て行こうとしているのを目の当たりにする。


 アイは、桧山と呼ばれた男の脇に抱えられていた。


「ママ!」


「アイさん!」


 伊吹は追いかけようとしたが、手足ががたがたと震えて上手く立ち上がれない。


 伊吹の心は折れていない。


 むしろ、愛する人が連れて行かれようとすることへの怒りが燃え盛っているほどだ。


 だが、身体の中心が震えている。


 冷たい血流が体内で怯え、歯を鳴らし、指先を凍えさせている。


 全身が水浸しになってしまったかのように震えた。


 感情は燃えていた。

 だが、心臓は、己を殺した相手に恐怖していた。


 伊吹は床板を叩く。


「津久井、待ちなさい!」


 相手の注意をひこうとしたが、効果はない。

 男達の背中は止まりはしない。


「冗談でしょ!」


 姿の消えたドアを睨みつけ、歯を食いしばり床を叩き、

 手足に力を込めても震えは止まらない。


 絵理子が傍らにやってきて、手を差し伸べてきた。


「伊吹、大丈夫。怪我は?」


「私より、アイさん!」


 絵理子の手を借りて、伊吹はようやく立ち上がる。


 伊吹はふらつきながら、走り出そうとするが、絵理子が手を離さない。


「待ちなさい。危ないでしょ」


「警察を呼ぶにしたって、

 どっちに逃げるかくらい、確認する必要があるわ」


「なら私が行く。伊吹は残って」


「嫌よ!

 アイさんが攫われたのよ!」


 伊吹が取り乱せば、

 絵理子は伊吹の両肩を掴んで、額を押し付けるように近づける。


「私はアイちゃんより伊吹の方が大事なのよ!」


「どうしてそんな酷いことを言うの!」


「普通でしょ!

 誘拐なら警察を呼ぶの!

 伊吹、ずっと言動がおかしい。

 ねえ、お薬、飲んだの?」


「お薬は関係ないでしょ!」


「落ちつきなさい!」


「母親が見捨てたら、誰があの子を護るのよ!」


 伊吹が目の端に涙を浮かべて叫んだ瞬間、

 髪が黄金の粒子を放ち、輝いた。


 髪の変化を初めて目の当たりにした絵理子の手が緩む。


 その瞬間、伊吹は絵理子の手を振りほどき、部屋から飛びだした。


 小さな部屋が四つあるだけの平屋なので、

 開け放たれたドアが直ぐに見つかった。


 庭の先に、伊吹たちの入ってきた門よりはやや立派な門が見えた。


 伊吹たちが入ってきたのは、施設の関係者が利用する入り口で、

 併設する教会の入り口は別にあったらしい。


「津久井、待ちなさい!」


 庭に探し求める姿はない。


 ドロロロッと、

 塀の向こうから大量の空気を吸い上げたような音が響く。


 自動車のエンジン音だと分かり、焦りが生まれる。


 門へ向かおうとする伊吹に絵理子が追いつく。


「待って、伊吹」


「どっちに逃げるか確認する。

 絵理子さん、車、こっちにまわして!」


「……分かった。無茶は駄目よ」


 伊吹が路地に飛びだすと、大型車が走りだすところだった。


 映画でマフィアの親玉が乗っているような黒塗りの外国産車だ。


 後部座席にアイがいた。


 泣きそうな顔で何かを必死に訴えている。


 聞こえなくてもわかる。


 出会ってから一日も経っていないが、伊吹が既に何十回と聞いた言葉だ。


「アイさん!」


 伊吹は、まだ加速を始めたばかりの車に追いつき並走する。


 車内で津久井がアイの口を押さえつけ、シートに組み伏せるのが見えた。


 アイへの乱暴な仕打ちに、伊吹は車に飛びつきたい衝動に駆られた。


 だが、走り出した車には為す術もない。


 胸が痛んだ。


 イレーヌがアイを抱けなくなった原因は、

 ガラス一枚を隔てたところにいる男だ。


 その津久井が今、こうしてアイを連れ去ろうとしている。


「二度も、奪わないでよ」


 伊吹は力任せにサイドウインドウを殴りつけた。


 当然、ヒビの一つすら入らない。


 あまりにも軽く非力な音が空しく鳴っただけだ。


「イレーヌから奪って、なんで私からも奪うのよ!」


 再び殴ろうとした拳は空を切った。


 伊吹と車との距離が一歩開き、瞬く間に十歩、二十歩と開いていく。


 伊吹は靴を履いていなかったが、なりふり構わずに全力疾走する。


「やだ。待って! 待ってよ!」


 見失ってしまえば、車には二度と追いつけない。


 車が交差点に差し掛かって速度を落としたため、

 僅かに距離が詰まる。


 だが、既に半区画は離れているのだから、追いつけるわけもない。


 黒塗りの車はブレーキランプを短く点灯させると、

 方向指示器を出すことなく、見通しの悪い交差点へと消えていく。


「止まって!」


 たかが五十メートル。


 昔の伊吹なら六秒もかからない距離だというのに、

 永遠のように感じる。


 どれだけ腕を振り、膝を蹴り上げても、

 交差点は逃げているかのように遠いままだ。


 泥沼に沈むかのように、伊吹の身体はあっという間に重くなる。


「やだ……! 行かないで!」


 伊吹が裂けそうな心を押さえつけながら、

 なりふり構わずに交差点を目指していると、

 突如、世界が鉛色に染まった。


 反射的に見上げると、

 晴れていたはずの空がいつの間にかドス暗く染まって歪んでいる。


 歪みが巨大化するように揺らぐと、豪雨が襲いかかってきた。


「え!?」


 体重が倍になったかと錯覚するほどの力が遥か上空からのし掛かってくる。


 景色が瞬時に雨色に塗りつくされ、

 地面で水が跳ね、周囲の屋根やトタンで雨粒が騒音をかき鳴らす。


 伊吹の靴下がアスファルトで裂け、肌にも傷がつく。


 だが伊吹は痛みに気付かない。


 否が応でも、夢の光景や、午前中の大蛇が連想される。


 立ち止まれば二度とアイに会えない予感がする。


 伊吹は泣き叫びたいのを堪え、脚に力を込めて走る。

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