第16話





 自分の部屋に入り、薔薇の花瓶があるテーブルに近づく。部屋の中は暗く、赤黒い薔薇が気味悪く光っている。自分の血がしみ込んでいる薔薇。これを見ると、いつも昔のことを思い出してしまう。






~~~



『チェギョンさん!』

 街を歩く僕たちの前に、人混みに紛れながらこちらを見ている、僕の想い人。お互いに近寄る。


『また会えましたね、チェギョンさん』


「あぁ」


『この前は、名前を聞いただけですぐ帰ってしまったから』


「あ、あぁ」

 すると、後ろに居たヨンチョルが、『もっと、笑って』と、耳元で囁いた。


 もっと……笑う……? これでも微笑んでいるつもりなんだが……。


「あ……あはは」 

 チェギョンは声を出して笑った。


『……私、変ですか?』

 彼女は首をかしげて、そう聞いてきた。


「べ、別に変ではないです!」

 自分でも驚くほどの声の大きさ。彼女はそんな僕を見て、急に声を出して笑い始めた。


「僕、何かおかしいですか?」


『いえ別に? あ、私、シスと言います。この前は、貴方の名前だけ聞いてしまったので。……その……後ろの方は?』


「この者は、私の友であり、護衛のヨンチョルです」


ヨンチョルはシスに向かってお辞儀をした。


貴女あなたの護衛の者はいないのですか?」と僕が尋ねる。


『あ~いません。必要ないんです』


「そうですか。……これからは何を?」


『これからは……ゆっくり帰ろうかなって』


 一人で、それに守りの者もいないで帰るとは……。


「危険です。僕たちがおくりますよ」


『いえ、大丈夫です。お気持ちだけで……』


「危険だからおくらせて」


『……はい。じゃあ……お願いします』

 そうしてチェギョンたちはシスを屋敷までおくった。



『では……私はここで』


「ここが、貴女のハノクですか?」


『そうです』


ここは確か……。


「ビン氏ですか? ……ここはビン氏のお屋敷だったはず」


『そうです。私は、ビン・シスと言います』


『あー! ビン様の、お嬢様でしたか』

 隣に居たヨンチョルが言う。


「実は僕、ビンさんと──」

 すると、屋敷の門が開き、中から男性が出て来た。


『あれ、シス。帰って来たのか』

 その人は、チェギョン達の方へ近づいて、『……ん? チェギョンか?』


「あ……ビンさん」

 チェギョンが引きつって笑う。


『シスはなぜチェギョンと?』とビンさんがシスに尋ねる。


『チェギョン達が、送ってくれたの』

 そうかそうか、とビンさんが頷いた後、何かに気付いたのか、はっという顔をチェギョンに向ける。『チェギョン、この前の女子おなごって……』


「あぁぁぁぁ! ビンさん、シス、僕たちはこれで失礼します!」


 チェギョンは、早くその場を去ろうと必死に足を急がせた。ヨンチョルもチェギョンの後を着いていく。背中の方から、『また、いつでも来いよ』と叫んでいるビンさんの声が聞こえた。その声を聞き、チェギョンが嬉しそうに微笑んだことは、チェギョンしか知らない。


 チェギョンは、シスがビンさんの娘だと知ってから、よくビンさんの屋敷に出入りするようになった。チェギョンはシスに会えるため、屋敷に行くことが嬉しかったが、それ以上に嬉しそうだったのがビンさんだった。ビンさんとは前から仲が良かったが、より仲が深まった気がする。それよりシスともよく話すようになり、二人はよく一緒にいるようになった。シスの屋敷の中でも、チェギョンの屋敷の中でも、都を歩いている時も。ビンさんは、「チェギョンなら、シスをあげてもいい」と言ってくれた。正直嬉しかったが、好きという気持ちは僕だけかもしれない。そんな悩みを抱えている僕には、ビンさんの言葉はただの応援の言葉にしか聞こえなかった。


 ビンさんの屋敷にいるチェギョンは、建物の淵に腰かけていた。

 僕だけのこの気持ち……。今のままじゃ、何も伝わらない。


すると、「なにしてるの?」とルンルンなシスが来て、僕の隣に座った。辺りは夕暮れ時で、太陽が燃えながら沈もうとしている。


「そろそろ、帰らないとね」 

 僕がそう言うと彼女は下を向き、う~ん、と言っている。


『もうそんな時間かぁ』

 シスをずっと見つめていたら、何も言わない僕を不思議に思ったのか、『どうしたの?』と聞いてきた。その丸い目が、その小さい鼻が、その薄い唇が、心の中にある「好き」という気持ちをゆっくり引き寄せた。そして……


「シスが好き」  

 そう言ってしまった。


シスは驚くことも、目を逸らすこともなく、ただ僕を見つめていた。額から変な汗が出て来て、聞こえて来るのは周りを吹く風の音だけだった。


『嬉しい』と言って、シスは視線を落とし、笑った。


「う、嬉しい?」 

 本当にシスが言ったのか分からなくなって、もう一度聞き返す。


『うん。……そんなこと言われるとは思わなかったから。この気持ちは、私だけなのかなって……ずっと思ってて』


 僕がさっきまで考えていたことと、全く同じで驚いた。もっと早く言ってればよかった、好きって。


『私も……好きよ、チェギョンさん』


 僕がずっと聞きたかった言葉。聞けた……やっと。僕はシスをその場で抱き締めた。嬉しすぎて、嬉しすぎて、たまらない。シスも僕の背中に手を回し、優しく抱きしめてくれた。





~~~






 昔の美しい記憶に浸るのも良い。

月明りを浴びながらベランダに向かい、夜空のように輝いている夜景を眺める。過去は過去だって知っているけれど、今僕の近くにはビスに似ている人がいるんだ。顔も似ていて、名前も同じ。偶然かもしれないけれど……。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る