【4】ルウムの恋人

「ルウム艦長っ!?」


 私は目の前の光景がとても信じられなかった。

 ルウム艦長の右手には私と同じ、非常用の斧が握られていた。そしてそれを舳先の下のあるものにめがけて、一心不乱に振り下ろしているのだ。


「艦長、一体こんな時に何をやってるんですかっ」


 私の声にルウム艦長が振り返った。上空から降り注ぐ帆の燃えかすのせいで、艦長の頬には黒いすすがこびりついている。


「ルティーナ。お前、まだ雑用艇に乗っていなかったのか!」


 私はその言葉にめらめらと怒りが込み上げた。


「その言葉、そっくりそのままお返しします。それよりも何をやってるんですか! 早くここから離れないと、フォアマストまで燃え始めたんですよ」

を燃やしたくないんだ。ルティーナ」


 ルウム艦長はそういって、ふと気付いたように私の手元を見つめた。


「丁度いい。手伝ってくれ。もう少しで切り離せる」

「えっ!?」


 私は当惑した。だがルウム艦長は再び舳先の円材バウスプリットから身を乗り出し、その下に向かって斧を振り下ろす。


「一体、何を……」


 私もしぶしぶ、艦長の反対側――舳先の左側に回りこんで身を海に向かって乗り出した。


「あ……」


 そこには女性がいた。

 いえ、正確に言えば、木でできた『女性像』。


 このアマランス号には元々船首像がなかったが、半年前、艦長がどこからともなくこの像をもってきて、舳先の下の部分に取り付けたのだ。


 像の大きさは二リール(一リール=一メートル)ばかりで、船首像としては小振りな方だ。エルシーアで海の守神とされている『青の女王』をイメージして作られた像なのだろう。


 私はこの像が密かに苦手だ。なんというか、男性の描く理想の体型を具現化したような、出る所は出て、引っ込む所はちゃんと引っ込んでいて、実に整った容姿を持った女性像なのだ。


 題材が『青の女王』だから、一糸まとわない彼女の足元には、海の泡から出現したかのように、見事な流線形を描いた波の彫刻が、その裸身を覆うように彫り込まれている。


 その肌は白く滑らかで、碧海色の海藻――いや、ゆるやかに波打つ長い髪が、形の良い二つの胸の上に流れ落ち、赤や桃色で着色された珊瑚の冠を戴いて、まるで誰かを迎えるように軽く両手を広げ、うっすらと穏やかな微笑を浮かべている。


 美術品としての価値はさっぱり私にはわからないけれど、きっと名のある彫刻家が作った入魂の作には違いない。


「まったく。仕方ないわね」


 私は船首像の背中の部分に差し込まれた木材めがけ斧を振り下ろした。

 はー。重労働だわ、これは。

 でも右側からルウム艦長が斬り付けた一撃で、船首像をつなぎ止めていた木材がめきめきと下の海の方へ向かって曲がっていく。船首像の重さのせいで、下に引っ張られているのだ。


「よし、あと一回で切り離せるぞ」


 ルウム艦長が安堵の息を吐いた時、前方からめちゃくちゃ明るい男の声が海上に響き渡った。


「ルティーナ、あの艦長バカの事なんかほっといて、さっさと海に飛び込むんだ! メインマストが傾き始めたぞ!」

「ジルバ料理長! よかった、あなた雑用艇に乗ってたのね」


 私は真下で待機している雑用艇の中に、彼の姿を見つけて本当に安堵した。ジルバ料理長は一人だけ立ち上がり、両手を大きく振って、真面目な顔で私に向かって叫んでいる。


「早く逃げろったら!」

「えっ、でも……」


 ガツン!


 ルウム艦長が再度斧を振り上げ、船首像をつなぎ止めている木材に向かって振り下ろした。表皮一枚でつながっていたそれが、今度は完全に切り離され、青の女王を模した美しい船首像は、激しい水しぶきを上げて真下の海に落ちた。


「急いで逃げて下さい! ルウム艦長、グレイス副長!」


 ラファイエルの良く通る透き通った声が聞こえてきた。

 私は斧を放り捨てて、体を起こした。

 背後から吹いてくる熱風の熱さに驚いて、思わず後方を振り返る。


 あっ。

 ジルバ料理長が叫んでいた通り、黒く変わり果てた姿になったメインマストが、何と前方のフォアマストめがけて傾斜を始めている。フォアマストにぶつかったら、こちらもあっという間に倒れてくるだろう。

 私とルウム艦長がいる舳先へ向かって一直線に。


「ルティーナ!」


 その時、私は突然ルウム艦長に右腕をつかまれた。

 無理矢理引っ張られる。

 何するんですかと文句をつける暇もなく、その腕の中に引き寄せられたかと思うと、私がさっきまで立っていた所に、ごおっと音を立てて炎にまみれた巨大な三角帆が落ちてきた。同時に背後からもマストが軋む不気味なミシミシというそれが迫ってくる。


「よし、このまま海へ飛び込むぞ」

「えっ! あ、はい……!」


 ルウム艦長が私の肩をつかむ手に力をこめた。

 一瞬顔を見合わせた私達は、舳先の上にそろそろと上がり、前方へ――三リール下の海に向かって飛び下りた。


 ああ、どうしてこんな目に遭わなくてはならないんだろう。


 

 ◇◇◇



 まったくもって、今日は散々な一日だったとしかいいようがない。

 私達の船――アマランス号は乗組員に見守られながら、五時間燃え続けて深い海底へと沈んでいった。


 ああ。やっぱり、自分の乗っている船の最期は物悲しいものを感じるわ。

 私は去年アマランス号に赴任してきたから、沢山の思い出はないけれど、船をこんな形で失う現場に遭遇したのはこれが初めてだし、海賊フラムベルクを追うためにも、こんなことがおこって欲しくなかった。


 私でさえ船が燃えた事に、少なからずがっくりきているのだから、ルウム艦長の受けた衝撃はさぞ大きかったに違いない。


 ――と、私は思っていた。

 しかし、彼の関心事は




 あれは私達が燃え盛るアマランス号の船首から飛び下りた後のこと。

 私は、近くまできていたジルバ料理長の乗った雑用艇の方に助け上げられた。ルウム艦長も続くかと思いきや、彼は私に背を向けたかと思うと、アマランス号の船尾の方へ、はや流されはじめた『船首像』めがけて、猛然と泳いでいったのだ。


 ……ああ、そうでしたわ。

 あなたが何よりも助けたいのは、船首像あの方だというのを忘れておりました。


「ラファイエル、ロープをくれ」


 ルウム艦長は波と戯れる人魚のように泳ぎながら、金色の巻き毛がきらきら輝く士官候補生に向かって叫んでいる。数リール離れた所では、未だアマランス号が激しく燃え上がっているというのに。


「ルウム艦長。ロープです!」


 おそらく雑用艇の錨についていたそれを外したのだろう。

 ラファイエルが前方の彼に向かって丸めたそれを投げる。

 ロープはルウム艦長が立ち泳ぎしている目の前に落ち、彼はぷっかりと仰向けに浮かんでいる、あの美貌の『船首像』の首に、曳航用のロープを素早く括りつけた。


「よし、船首像を回収する。引き寄せてくれ」

「了解しました」


 艦長の命を受けて、ラファイエルと雑用艇に乗った水兵達がそろそろとロープをたぐりよせていく。

 私はその様子をみながら、ため息をつかずにはいられなかった。

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