【3】退艦命令

 私の声に気付いてルウム艦長がやってきた。彼の瞳も大きく見開かれている。 

一体何があったっていうの!?

 海図室の後ろに突き出た調理場の小さな煙突からも、絶え間なく白い煙が昇っていた。ただのボヤならいいのだけれど――。

 残念ながら、私の淡い期待はすぐに消え失せた。


「ゲホン! ゲホンッ!!」

「火事だ火事だ火事だ!」

「ぐはっ」

「くそっ。煙が目にしみるぜ」


 騒々しい足音と共に、下甲板の船室にいた水兵たちが我先にと、押し合いへし合いしながら、メインマスト中央前の昇降口から甲板へ飛び出してきたのだ。


「一体どうしたの!?」


 私とルウム艦長は急いで昇降口まで行った。上甲板は炎と煙に追われて、下から出て来た水兵達や海兵隊で、あっという間に一杯になる。


「大変です! ルウム艦長、グレイス副長。火事です。ゴホン! 下はもう火の海になってます!」


 それらの人込みをかき分けて、鮮やかな水色の軍服をまとった、小柄な少年が煙に咳き込みながら走ってきた。食事中だったのか、片手に白いカップを持ったままで。くるくると渦を巻く濃い金髪を振り乱して、少年――このアマランス号の士官候補生ラファイエルは、ルウム艦長と私に不安げな光を宿した瞳を向けた。


「ラファイエル。そんなに下は燃えているのか?」


 落ち着いたルウム艦長の声に、ラファイエルは大きく何度もうなずいた。煙のせいか、その翡翠色の瞳が赤く充血している。


「僕はレスターと一緒に士官部屋で昼食をとってたんですが、白い煙が部屋の中に流れ込んできたんです。これはおかしいと思って部屋の外に出てみたら、船首の調理場から火が見えて……」


 ルウム艦長はわかったといわんばかりに一度大きくうなずくと、ラファイエルの言葉を途中でさえぎった。のんきに話を聞くどころではなくなったからだ。


「火だ! 火が昇降口まであがってきたぞーー!!」


 メインマスト前のそこから、木の燃える臭いが一段と強くなり、めらめらと赤い火が姿を現わしている。


「ルティーナ……この船はもうだ。雑用艇を下ろして総員退艦する」

「艦長……」


 ルウム艦長は一瞬だけ眉間を寄せて、苦々しく唇をかみしめた。


「君は船尾ともで退艦の指揮をとってくれ。ラファイエル、お前はグレイス副長と一緒に船尾へいき、雑用艇を早く海へ下ろすんだ。俺はレスター士官候補生を捕まえて、彼と一緒に海図室の雑用艇を海へ下ろす」


「わかりました!」


 私とラファイエルは直ちにルウム艦長に言われた通りに行動した。

 水兵達に退艦命令が出た事を知らせ、急いで船の舵輪がある後部甲板に設置されていた大型の雑用艇を海に下ろさせる。雑用艇は船首側と船尾側、それぞれ二艘ずつ設置されている。雑用艇は約四十人が乗れるので、アマランス号の乗組員百五十名が全員乗っても少し余力がある。


「早く! 急いで!」


 右舷後部の舷門げんもん(船の出入口)を開いて縄梯子を下ろし、私は急いで水兵達に雑用艇に乗るよう命じていた。


 煙はどんどん濃度を増し、ついに真ん中のメインマストにまで火が燃え広がった。メインマストには三枚の大きな帆が広げられていたが、それらは上げ綱を伝った炎のせいで、瞬く間に炎上していく。


 なんとおぞましい光景なのだろう。

 私は不安を感じて船首の方を見た。出火場所が調理場なら、ルウム艦長の方がより火元に近い。煙で白くかすむ視界の中で、何人かの水兵達が、海図室の屋根の上にひっくり返され防水シートに覆われていた雑用艇を、なんとか右舷の船縁まで引き寄せ、海面に向かって下ろしているのがちらりと見えた。


 その煙の間から、私はルウム艦長の姿を思わず探した。けれど彼を見ることができなかった。不意に腕を引っ張られたから。


「グレイス副長。雑用艇にはあと一人しか乗れません。だから、副長が指揮を執るために乗って下さい。僕は海へ飛び込んで、船首の雑用艇に乗せてもらう事にします」


 ラファイエルだった。

 彼は、大聖堂のフラスコ画に描かれた、太陽神アルヴィーズの元に仕える、羽のある御使いのようにきりっとした顔立ちをしている。

 そして心根の優しい少年だ。

 副長とはいえど、私のことを気遣ってくれるなんて。


「……ラファイエル。気持ちはうれしいわ。でも」


 私は気になっていた。

 どうしても姿の見えないルウム艦長のことが。


「ラファイエル、あなたが士官として船尾の雑用艇に乗り、急いで船首へ回しなさい。ルウム艦長が乗っている船と合流するの」


 はっとラファイエルの緑色の瞳が、抗議するように鋭い光を帯びた。


「いえ、僕より副長が乗るべきです」


 強い口調でラファイエルが答える。

 まったく。船の上では上官の命令に従わねばならないというのに。

 こんなことでは、来月行われる任官登用試験へ推薦するのは難しいわよ。

 私はそっとラファイエルの肩に手を置いて言いきかせた。


「私は副長として、あなた達以外の乗組員が船内に留まっていないか、確認する義務があります。これはまだ一人前の士官ではない、士官のあなたにさせるわけにはいかないの。大丈夫。船尾に誰もいない事を確認したら、私もすぐ船から退去します。だから、あなたは雑用艇に乗りなさい」


「グレイス副長……」


 ラファイエルは、本当に渋々といった様子で、舷門げんもんから下ろしている縄梯子に足をかけた。


「もう甲板には僕達しかいませんよ。だから早く副長も退去して下さい。お願いします」


 私は縄梯子を伝い、ラファイエルが海に漂う雑用艇の後部席に収まるのを見下ろした。


「ちゃんと確認したらそうするわ。さ、あなたたちは艦長が下ろしたもう一隻の雑用艇と合流して」


 ラファイエルは雑用艇の舵を握りしめ、水兵達に櫂を出すように命じた。

 私はそれを確認してから、再び船首方向へ顔を向けた。

 ああ、どうしてこんなことが起きたのだろう。


 炎上するメインマストの帆や上げ綱が、小さな火の粉をまとって散り散りに千切れて甲板に降り注いでいる。メインマスト前の海図室も火が燃え移り、ちろちろと炎の赤い舌がなめている。


 私は辺りを見回し、誰も船尾甲板にいないことを確認した。

 ルウム艦長と……。

 姿が見えないといえば、もそうだ。


 まさか。調理場に取り残されている……なんてことはないわよね。

 私は後方を振り返り、後部昇降口の前に行き、そっと木の扉を開いた。


「……ゴホン!! ゲホッ!! だ、駄目だわ。下甲板には下りられない」


 扉を開けた途端、ものすごい煙と熱風が吹き出してきたのだ。

 私はむせながら、スカーフで口元を押さえ、右舷の船縁まで走った。船縁をつかんで身を海に向かって乗り出し、新鮮な空気を求めて喘ぐ。


 身を乗り出した私は呼吸を整えながら、海に無事に四隻の雑用艇が浮かんでいるのを見た。しかしそれに安堵した途端、もう一つ、燃え上がる海図室の向こう側でを見たのだ。

 それから風に乗って、何か固いものを叩くような音が、火の爆ぜるそれに混じって聞こえてくる。


「……どう……して……?」


 私は愕然とした。

 炎の向こう側で、ルウム艦長の青い軍服のケープがゆれていた。

 まだ彼は、この炎上する船にのだ。

 しかも炎は彼の背後に迫っている。海図室の火がフォアマストに燃え移り、下の方の帆から勢い良くたいまつのように燃え始めたからだ。


「ルウム艦長! そんな所で何を!!」


 私は彼の所へ行こうとした。だが最初に燃え始めたメインマストの昇降口はすっかり炎が広がって、甲板は火に浸食されている。


 ミシ、ミシ。


 不気味な不吉な音が頭上から聞こえる。メインマスト自体もすっかり燃え、何時倒壊するかわからない。

 それにしても艦長は船首あんな所で何をしているのだろう。

 ひょっとしたら、誰か船首の下甲板に閉じ込められていて、彼はそれを助けようとしているのだろうか。だとすればもっと人手がいる。


 私は再度スカーフで口元を押さえ、きびすを返すと後部昇降口まで行った。開けっ放しの扉のせいで、そこからはもくもくと煙が吐き出されている。それをなるべく吸い込まないよう気をつけ、壁に設置された非常用の斧を手にとった。こういった事故などがおきた時の為に、斧は設置が義務付けられている備品なのだ。


 私はそれをつかんで、ルウム艦長のいる船首まで駆けた。

 メインマストがさらにミシミシと音をたてる下を通り抜け、部屋全体を炎でつつまれてしまった海図室の脇を走り抜ける。

 燃え始めたフォアマストの更に先。槍のように突き出した舳先バウスプリットで、それに覆い被さるように、ルウム艦長が身を乗り出しているのが見えた。

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