神帆武芸学園裏剣道部 DEADEND:No36

 陽も沈みかけの屋上に、冷たい風が入り込む。どこまでも広がる赤と黒の空とは裏腹の閉塞的世界に。霊一つの痕跡がない清らかな舞台に。二人きりの戦場に。ただただ場違いに冷たくて、寂しい風が、流れていた。



 血だまりの世界を背に、星空の闇を映し落としたような黒髪を靡かせ、いつものように不敵で……けれど。己を含めた全てを嘲り笑うような声色で、彼女は語る。


「私はね、生まれてこの方一度もカタナを抜いたことがないんだ」


 先輩から告げられたその言葉は本当なら驚嘆するべきものだった。喩えるなら甲子園の優勝校エースがストレートを投げたことがないとか、プロのサッカー選手がリフティングできないとか……いや、それ以前だ。

 だが、刃を見ることすら叶わないと謳われた剣の頂点に立つ存在。裏剣道部主将、神帆先輩の居合術が、そもそもなかったというのは全てのを根底から覆すような物。彼女のファンや、先生方も目を剥いて泡も吹いちゃうくらいかもしれない。


「おや、意外と驚いていないんだね。傷付くなあ……これでも一世一代の告白のつもりなんだけど」


 ただ。それは、まあ。薄々気づいてはいた。彼女のカタナの差し方は形こそ良いものの実践向きではない。

 最適から比べると鞘からの滑りが悪化し、応対のラグを起こす角度。無論特殊な差し方が生み出す絶技を僕は知っている━━が、彼女の場合毎日若干正しかったり、変わるのだから無意識のものだろう。


「あー!! そうか、実戦で使わないと分からない部分か……いや。けど、それは誰からも指摘されない程度。少し私の気が抜けていたか、君の見間違いの範疇で収まる…………あ、それとも! 私の事をいつも目で追っていたからかな? いやー、モテるというのも辛いものだ!」


 大袈裟に失敗したなー、といった動作を彼女はする。だが、そんな推理よりももっと確実な証拠を知っている。


「先輩、前撲殺してましたよね? その鞘で」


 ……しゅん。と縮こまる。それは悪戯のバレた子供のような、水に濡れた子猫のような。


「もしかして、見てた?」


 答えるか、迷って。


「えぇ、随分と恨みが篭ってて……周りが気にならないくらい夢中だったんですね。まあ、やむを得ない事情があったんでしょうけど」

「おいおい。先輩が困ってるときにお手伝いもなし? そういうときは『僕が死体遺棄と後始末を手伝いますね!』って、名乗り出るべきさ」

「通報しなかっただけありがたいと思ってください。……確かに、声を出さなかったのは後悔してますけど」

「うん。そうだね。君は私を守ってくれた、ありがとう」


 にこりと微笑み、剥き出しの感謝をぶつけてくる。

 ……相変わらず邪気もない顔だ。学園の顔にして魔性退治も担う裏剣道部の部長……常に凛々しく美しく、模範となるべき剣士の姿ではなく━━ただの綺麗で頼れて、でもおっちょこちょいな。僕の先輩として、目の前にいるように錯覚してしまう。


「でも先輩、なんで抜刀できないんです? 貴女より強い人を僕は知りませんし…………そのカタナには何か秘密があるんですか?」

「いや、これは私の問題だよ。……正確にはご先祖様、かな?」


 なるほど。多分抜刀を禁ずる何かしらの呪いをその身に受けているのだろう。

 剣士の名家であるところの彼女の家は敵も多いはずだから、邪霊妖魔悪神……いや。人であっても。呪いを受けたのは不思議ではなく━━


「ううん。呪いなんかじゃなかったよ。与えられた祝福はね。人生で一度、然るべきときにしか抜けない。なーんて、簡単なコト」


 …………なんだ。それ。それが祝福?


「それ、今までバレなかったんですか?」

「うん。私は昔から賢かったし、手刀で大概の物は切れたからね。抜けなくて困ることなんて一つしかないよ」

「先輩、忍者でも目指した方がよかったんじゃないですか?」

「かもねー。あはは」


 乾いた笑いだった。きっと、最初から彼女はずっと。乾いていたのだろう。

 ……いや、違う。憐みそうになった、同情しそうになった。それだけはダメだ。それは今までに泥を塗ってしまう。



「…………ところでね、君。哲学の話をしよう。私の哲学について、さ」


 大人しく、僕は聞くしかない。だがそれは羊のようにではない。最後の食事を楽しむように。或いは作品の最終回を大切にするように。味わい尽くすように。


「……刀剣と殺害の価値とは、人が人を斬って殺すところにある」

「殺害の価値?」

「人であるから剣を振るえる。徒手の野性ではなく、けれど銃の無機質ではなく……殺す事は、とっても厳かな事なんだ。だから私達はカタナを使う。……なーんて、お爺さまに教えられたんだけどね。剣士というより、処刑人とか介錯人の考えな気もするけど」


 人の一つの人生が、人の他の人生に破られる。殺すとはそういうものだと。昔彼女が言っていた事を思い出す。


「……悔しかったよ。手で斬り殺す事のどこに人らしさがある。鞘で砕く事の、どこに敬意がある。遺恨も怨恨も、宿痾を斬ることすら私はできないんだ。

 ……だけど、ね。今は感謝しているんだ。きっとこれは、一番大切な殺人まで取っておけってことなんだって理解できたからね」


 それは多分懺悔だった。彼女の隠していた心の内だった。こんなときじゃなければ墓にまで持っていっただろう言葉。

 本当は。そんな話をしに来たわけでもないだろうに。


「ごめんね。最後だからさ、話しておきたかったんだ」

「いいですよ。死ぬ前にいい話を聞けました」


 治癒の魔刀……この学園の最重要物品を盗み借りた時点で、死は避けられないという事なんてわかっていた。どの道死を覚悟しての行動だ。覚悟は……してた、筈なんだけどなあ。



「……もう少し君は部活メンバーを信用すべきだったよ」

「僕にとって、先輩達は初めての仲間です。危険には晒せません」

「…………そう。じゃあ、手続きは海外へ転校ってことにしておくよ」

「わざわざすみません。あ、加えて。退部前に少しお願いがあるんですけどいいですか?」

「ん、いいよ。話を聞いてくれたお礼だ。今から目を瞑って眠ってあげても構わない」


 その言葉の意味がわからないほどの愚か者ではない。けど、違う。


「いえ。最後に一度死合ませんか? 僕を裏剣道部に誘ってくれたお礼と……先輩を裏切ってしまったお詫びです」


 彼女は目を細めて笑う。そして柄に手を当て、



「……とっても嬉しいよ。だって━━」


 そのとき、僕は身惚れていた。

 鞘を滑る音は厳かで、動作は流水の如く滑らか。呼吸すら忘れてしまいそうな、最初で最後の抜刀。


「初めて斬り殺す相手が、君だなんてさ」


 抜かれたその刀身は夜闇に浮かぶ満月のように強く綺麗に輝く。

 ……だけどそれ以上に。彼女の構えが、向けられる殺意が、愛情が。どれも、どれも綺羅星のように美しい。


 ……ああ、よかった。このとき初めて、先輩は一つの存在として完成された。そして、その姿を見られるのは僕だけなんだ。


「先輩、大好きですよ」

「私もさ」



 接吻の代わりは斬撃で、抱擁は打突で、愛情は赤色によって彩られる。


 時が過ぎるのも感じられなかった。このまま夜が過ぎて、朝焼けを共に見て笑えてしまうのではないかと感じる程長くを斬り合っているような錯覚を得た。

 だけど、物事には終わりがあるし。体力は無限じゃない。いつか、どちらかが綻びて、そのうち、僕か彼女が死ぬ。

 別に、ここまで来たら賽がどちらに転んでもいい。どの道詰んだ世界の果て。


 僕が彼女を殺したら━━主将を上回ったという喜びと。最愛の人をこの手で屠るという事実と、いつか死ぬ日々が残るだけ。

 彼女が僕を殺したら━━きっと、彼女の人生に残れるだろう。彼女の、最初で最後の経験になれる。それに……惚れた女には生きてほしいと思うだろう。普通。

 だから、



「ありがとう。今まで私達と戦ってくれて」

「これからも頑張ってくださいね、神帆先輩」


 こうなるのも仕方がない。こうなった方が、いいんだ。


 鮮血が跳ね、洛陽と共に意識も消える。別たれた体は数瞬の後に死に至る。

 後悔も、渇望もあったけれど━━存外、好きな人に殺されるというのは良いものだと、消える意識の最後に知った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る