第三話 五味
忠治が目線を落とすと、自分より小柄な軍人が立っていた。急いで女を離して一礼する。二期上の先輩であり、上官の
「は、五味中尉。失礼致しました」
「なんだ忠治、よりによってその女か……。実に趣味が悪いな」
そう言い放つ上官に、「あたし、コイツ嫌い。愛想がないし……」っと、芸者は忠治の後ろに隠れてから聞こえるように呟いた。命知らずな態度に、肝を冷やしたと同時に興味が湧く。
「軍人は帰れ」
女はまるで忠治を盾にして呟いた。五味はハッハッハーッと彼には珍しく声を上げて笑うと、くるりと忠治たちに背を向けて短く言葉を放った。
「行くぞ」
「はい」
促されて、女の細い指先を薙ぎ払うと、五味の後ろを急いで追った。「帰りますか」と忠治が問うと。「……俺には行くところがある」とニヤリと笑われた。
「ついて行きます」
「止めておけ、お前にはまだ早い。ところでさっきの女、名前は聞いたのか どうなんだ、えぇ」
ニタニタと笑いながら肩越しに振り返るこの男は、ゴロツキの溜まり場にも出入りしている。
『ついて行く』という意味は、そこに同行するということではなく、この料亭から一緒に出て行きたいという意味だった。だから忠治は大人しく五味の質問に答える。
「いえ、興味がありませんゆ……」
「『
「はぁ」
「よっぽど男に飢えてるんだろうな。ああ見えて評判が良い。『
「いえ……」
「丸顔で色白。それでいて毛が濃いんだ。真っ白な肌に
五味が右腕を上げると、料亭の前にライトをギラギラさせた円タクが迫って来る。五味はそれに颯爽と乗り込むと、今度は忠治に向かって左腕を上げた。
「しかも俺と同い年で、お前にとっては年増のゲス女だ、アイツも『止めておけ』」
そう言い残して円タクごと暗闇に消えて行った。忠治は辺りが真っ暗に戻るまで直角にお辞儀をし続けた。静かになってやっと顔を上げると、料亭の中から先程の女のヒステリックな声が漏れて聞こえてきた。
* * *
「げ」
「……なんだ、またお前か」
見られたくない者に見られたものだ。しかも柄にもなく手には菖蒲の花を新聞紙に包んで携えていた。慌てて隠すのも恰好が悪いので、むしろ突き出すようにして胸を張った。
「新聞紙なんて流石軍人さんね」
「五月蝿い」
忠治はかまわず廊下を進む、古びた診療所の廊下はキシキシと音が鳴った。外地に行っていた同期が戻って来ている。その見舞いの際に、例の芸者に出会したのだ。
「相変わらず喧しい奴だな、お前の見舞いは終わったんだろう」
忠治は診療所に入る際に、久仁子は丁度そこから出て来るところであった。この間は紅色基調の艶やかな着物を引きずるようにして着ていたが、今日はモダンな若々しい着物をキッチリ着ている。
「終わったけど『かんし』よ、監視 ここにはアンタたち軍人以外だっているんだからね。騒がれたらたまらないわ」
「……『帰れ』とは言わないのだな」
「口惜しいけどアンタが来れば、その花をあげるお友だちは喜ぶんでしょう」
診療所の中庭を眺めながらズカズカと器用に並んでついて来る。まるで鴨の雛のようだと気づいて、硝子に写る久仁子の姿に、まるで丸い尾っぽが見えるようで、忠治は笑いを零しそうになった。
ふと、思い至って忠治は足をピタリと止めた。だから久仁子は大股のままその横を通り越してしまって赤面する。「なによ」と顔を顰める丸顔の久仁子は、とても年上には見えなかった。
「お前の見舞いは、誰だったんだ」
思い起こしたことを、素直に彼女に問うた。投げかけた言葉に、ぎくりと久仁子は肩をこわばらせた。そう言ったことに愚鈍な忠治でも、今の発言は宜しくなかったことが感じ取れる。
「……なぁんでそんなこと聞くの」
そう呻いて、久仁子は涙を零し始めた。綺麗な顔面を崩してべそべそと人目もはばからず泣き出した芸者は、最早少女のようであった。忠治は菖蒲を片手に持ち帰ると、華奢な手首を掴んでぐいっと久仁子を導く。
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