第四話 早まったかしら
中庭は初夏の花々が美しく咲き乱れている。忠治は、そこに設置された華奢な長椅子に座って、逢うのが二度目の女が泣き止むまで、身の上話を聞いている。
久仁子はこの診療所の貰われ子らしい。十分な教育を受け、女学校にも通わせてもらっていたが、『ある理由』からここを飛び出したのだった。
「あたし、東北の出なの」
「ほお」
珍しくもない。ただ、そういった田舎の子どもが貰われて(売られて)来る場合、彼女の現在の職種になる方がしっくり来る気もした。そこまで考えて顔に出ていたのだろう、芸者は笑って「義理のお父様の妹が、私の母親なの」と説明を重ねた。
「そっちは」
「え」
「海育ちなの」
「違うが、海はそう遠くなかった」
「私は山育ちよ、だからお魚が好き」
「逆じゃないのか」
「滅多に食べられないもの」
そう言って泣き腫らした目で笑った彼女は健気だった。喜怒哀楽が激しい、忠治は若干それに疲れているが、心の片隅で悪くないとも思えた。まるで山の天気のように、久仁子は赤い唇を一度きゅむっと閉じた。
「……理由とは何だ」
「好きな人が、いるの」
と答えた内容は意外なものだった。「どんな男だ」と尋ねると、「山伏」と思いも寄らない職業が告げられる。
「は どこで知り合うんだそんなのと」
「山でよ。話したことはない……と言うか彼は話せなかったんだけどね、小さいころからずっと一緒だった。お父さんが山伏でね。同じ天狗の仮面を被っていたわ」
「……喋ったことがないのに『好き』か」
「馬鹿にしないで。喋らなくっても一緒に遊んだり、共に過ごしていれば彼が優しいことはわかる。山の奥に入り過ぎて村に帰れなくなった時に、いつだって迎えに来てくれた」
「……」
まるで、忠治の記憶のように。森の中で膝を抱えて泣いている桃色の着物の少女に、一本歯下駄を履いた仮面をつけた少年が近寄って行く幻想が見える。二人の周りを飛び交う蛍が見える。水辺が近いのだろう、白い霧が二人の子供を包んだところで、忠治は我に返った。
「……それが男女の情愛に変わるもんか」
「なに」
「なんでもねぇ。でもそれきり逢ってないんだろ」
「まぁ」
「何でこんな立派な病院を飛び出す理由になるんだ」
「……見合いをすすめられたのよ、というか『強要』って感じだったわね」
そして久仁子は、赤裸々にこんな話を始めた。
* * *
結い上げた髪がキツ過ぎる。正座をして着物の模様をじぃっと見つめた。
久仁子は他の娘たちより遅い。半玉になって半年足らずで大急ぎの水揚げだ。相手は特に希望もなかったので、店のものに任せた。だから誰がこれから部屋に来るのか知れやしない。
「だぃっきらい」
思い出して口の中で歯ぎしりした。育ててくれた医者には感謝しているが、「好きな人がいる」と言っているのに、見合いを次々と持ってくるのだからたまらない。女学校に通い、看護婦養成所にまで入れてもらった。でもすぐに辞めた、もちろん抗議のためだ。
「早まったかしら」
ポツリと零れた言葉は、黄色地に濃い桃色の牡丹の上に染みたように感じた。看護婦養成所を出たのはつい去年のことだ。人助けは好きだったし天職だと思っていた。久仁子は耳が良い。きしきしと遠くの廊下から誰かが近づいてくる音がする。顔を振ったら目から滴が落ちて牡丹の模様が一滴分濃くなった。
「おい」
「ちょっと」
振り向いて顔を出していた翁の顔を見て思わず叫んでしまった。
「何よ、連れ戻しにきたの?」
久仁子は思わず零れてしまった涙を、ぐいっと着物の裾で拭って歯を剥き出した。
目線の先に立っていた男は、肩幅のある中年の紳士であった。彼が件の医師である。
「折角来てやったのに『何よ』とはなんだ、大体お前こそ何だ。恥を知りなさい」
久仁子の声量を上回る勢いで怒鳴られた。
「な、なによぅ……」
思わず柄にもなく怯んだ。自分を買ってまで義父が会いに来たのかと思い、久仁子は羞恥に顔を赤らめた。
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