第二話 黒衣の紳士

昭和十五年、五月。


 巷で噂になっている、そのキナ臭い話について。忠次がそれを知らないわけではなかった。『黒衣の紳士』の噂は、患者からも新聞からも、その子供じみた内容は漏れ聞こえて来る。


 ペラリと灰色の新聞を手繰ると、仰々しい活字が紙面に踊っている。自分がもし幼い子ども、それか好奇心旺盛な青年であったなら食いついてあれこれ夢想するかもしれない。


 今回死んだのは、また家で留守番をしていた裕福な家庭の奥様と家政婦で、彼女たちを刺した凶器というのが『鉄でできた錐のように、細く鋭いもの』だと言うので恐ろしい限りである。


「殺されたのは、昼間家にいる家政婦、主婦。特に盗られし物もなく、夫が帰ってくると、灰色の石の玄関が血まみれになっていたそうよ」

「ひゃぁ、恐ろしい」


 ヒソヒソヒソヒソ。人の噂話というのはさざ波のようだ。そこでしか共有されないものとしてポツリと吐露され、感染症のようにじわじわと広がって行く。


「田中さん」


と、キヌさんが呼んで、ようやく気まず気に沈黙が訪れた。忠治はその気配を感じ取って吹き出しながら新聞を閉じると、診察室の机の下で膝を抱えていた書生の千太郎も、ようやくのそりと出て来た。


「……怪し気な訪問販売を装っていたらしいよ、犯人」

「新聞に載っていたか」

「いや学校で噂になっています」

「ほう、『怪人赤マント』は廃れたか」

「何年前の話をしてるんです」


 千太郎は、話題が古い老人に笑いかけて、キヌさんと患者が診察室に入るのとすれ違うように部屋を出て行った。


 するりと黒い影がすり抜けても、七十代の患者の女性は全く気づかぬようであった(元々、千太郎に気配はあまりないのだ)。


 赤マントは、人をさらうとも聞いた。忠治の知っている『人さらい』は、赤い衣ではなく、赤い仮面を被っていたのだけれど。


「ふ」


 思い出して漏れた笑みに、患者の女性は少し驚いたようにしていた。


* * *


大正二年、一月。


 嗚呼、久仁子くにこ。僕だ。


 やなぎ忠治ちゅうじが陸軍の軍医時代、『その女』に出会ったのは、それなりの格式の料亭であった。女は芸者なのにもかかわらず、ベロベロに酔っぱらって廊下に一人で転がっていた。


 厠に立った忠治は、些かぎょっとしながら床を見下ろす。まるで金魚のようにひらひらした美しい着物を廊下に散らせて、仰向けになって芸者が寝こけている。


 美しかったはずの黒い髷は歪んで、着物の裾が捲れてしまい、廊下を通る男たちがニヤニヤとそれを見下ろしていた。その男たちも忠治も、同じ陸軍軍人だというのだから鼻持ちならない。


「おい、お前」

「む」

「だらしない、起きるんだ」


 剥き出しになっていた肘を掴んで持ち上げる。すると、白く美しい丸い顔を凶悪に歪めてこちらを睨み上げてきた。忠治は眉を顰める。


 視線が絡んだ瞳の色は、照明の真下にもかかわらずどこまでも黒い(白目の割合が少ない)。うねるような美しい黒髪の、少し幼気な大きな瞳の美人だった。


「五月蝿い、なによ」


 女は足だけズドムッと立てた。より状況が悪化したようだ。白過ぎる脚の内側から、忠治は気まずそうに目を逸らせた。久しく女は抱いていない。


「寒いだろ、風邪をひくぞ」

「放っておいて、私がここで寝たいから寝ているの」

「あぁ」

「そうしたいからそうしているって、言っているでしょ」


 起き上がる勢いで忠治に腕をぶつけて来た。それをハシリと受け取る。丸く、ふくよかな顔に似合わず、肉のついていない、骨のような腕であった。すると忠治と芸者の傍らで、ゴホンッと咳払いが聞こえた。


「なにをしている、邪魔だ」

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