みやびな猫

 実際の少年の挙動からも、何かがおかしいことを示している。

 褐色の瞳をぎょろりと動かして鯛道の表情と、その裏に隠れている感情を窺った。少年から見た鯛道の表情は、優しさと後悔が半々。


「お前さん、大丈夫か? 今も震えてるってことは、よっぽど酷い目にあったんだな……」


 そこで目の前の少年が困惑していることに気がついて、少しだけ間を置いて鯛道は言う。


「っと、名乗るのを忘れていた。俺は鯛道ってもんだ。もし行く宛がないんなら、俺のところに来ないか?」

「…………」


 少年はしばらく沈黙したあと、口を開けて言葉を紡ごうとする。しかし、どう答えてよいのか分からなかった。


「迷うくらいなら来い、決して満腹になれるわけでもねぇが、お前さんの心は紛れるはずだ」

「……わか、った。ついて、いく……おれ、は」

「よし、決まりだな。それじゃあ……名前が無いのは何かと不便だな。うぅむ、そうだな……」


 名前で迷ったその時、日差しが建物の隙間から差し込んで、少年の猫のような瞳と頬にある猫の横顔のようなを照らす。


「お前さんの名前は猫雅びょうがだ!」


 鯛道は人差し指の先を少年――猫雅へと向けて言い放った。


「びょう、が……?」

「そうだ。今日からお前さんの名前は猫雅だ」


 鯛道がもう一度名前を呼ぶと、猫雅の目の色が琥珀色に光る。頬がやや上へ持ち上がり、そして──


「猫雅……?」

「ああ、『みやびな猫』と書いてお前は猫雅だ!」

「俺の……名前、は! 猫雅、だ……っ!!」


 猫雅は猫のように目を細めて笑みを浮かべた。

 そして連れて来られたのは、スラムの奥の廃れた納屋。軋んだ音をたてる戸を押すと、中には数人の元浮浪児の姿があった。みずほらしい服装で、決して裕福ではなさそうだ。それでも、笑顔に溢れている。

 実のところ、鯛道はスラム街を取り仕切り、不遇な幼子を集めてはまともな生活をさせている元犯罪者。しかし子供たちを見る目は、まるで親のよう。


「あ、おやっさん! おかえりなさい!」

「ああ、お前たちも利口にしてたか?」

「うん!」

「それと……今日から一緒に暮らすことになった、猫雅だ。皆も仲良くしてやってくれ」


 鯛道の陰から少年が姿を現して、


「猫雅、だ。よろしく……」


 そして子供たちは、猫雅のことを目に止めた。純粋な好奇心で猫雅のもとへ群がっていく。


「ねぇねぇ、好きな食べ物はー?」

「……なんだか悲しそうだけど、大丈夫?」

「この頬にある模様はなに……?」


 子供たちによる質問責め。猫雅は困惑するどころか、無反応となっていた。


「おいおい、そんないっぺんに質問されても困ってしまうだろう。一旦落ち着けよ?」

「「「はーい」」」


 子供たちは、手を挙げて快活に笑う。それに対して鯛道は頷き返すと、視線を猫雅へと向けた。


「ほらよ、今日の飯だ。皆、席に座れよー! 猫雅も空いてるところに座っていいからな」

「……ああ」


 記憶を失ったことと、失ったきっかけが余程凄惨なものだったのか、猫雅の口調は寡黙なものとなってしまっている。そんな猫雅の心の内を察して鯛道はぽつりと言葉を零した。


「猫雅、記憶を失ったことは悲しいことなのかもしれない。でも悲しいからって、その悲しさに……絶望に慣れることだけはするなよ? 常に強欲であれ」

「絶望に、慣れることと、強欲……?」


 鯛道の言葉は後悔が詰まっているように、ずっしりと重い。絶望に慣れるとはどれほど辛いことなのか、鯛道はよく知っていた。そして、強欲にならなければ何かを失う時が来るということも。


「ああ……。一度絶望するだけなら、もう一度立ち上がることができる。でも、絶望に慣れてしまえばそこから立ち上がることは決してできない。だから、できる時にできる限りのことをするんだ」

「……わかった」


 猫雅はこくりと頷いて、これから共に生活する子供たちの顔を一人一人、覚えていく。その中で、子供たちもそれぞれの名前を口にした。


「猫雅っていうんだなー! 俺は迦銀かぎんだ! よろしくな!」

「僕は猿弥えんみ……よろしく!」

「私は桧綺ひいろ……よろしくね」

「ああ、よろしく……!」


 よろしくという言葉に猫雅は頬を緩めて、見せた二度目の笑顔。初めて見せた笑顔に比べると瞳に影が落ちていて、どこかぎこちなさがあった。


「「「うん、よろしく!」」」


 猫雅の返しに、三人は白い歯を見せて笑う。屈託の無い笑顔につられて猫雅の瞳も、歓喜の光が灯る。


「まあ、とにかくだ。これから一緒に生活するわけだが、俺はお前さんたちを満腹にしてやれるとは保証できねぇ……。それでも、貧しいながらも楽しい時間をお前さんたちと過ごしたいと俺は思っている。だから、改めてよろしく頼む……」


 鯛道はそう締めくくって、大きな手の片方を猫雅の頭の上に乗せた。より一層、スキンヘッドが輝いて見えるくらい、豪快な笑みを浮かべている。共に生活するということで多少なりとも不安はあれど、猫雅はこれから始まる新しい日常に心を踊らせていた。

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