第13話 予行練習

「それではよろしくお願いします」


「はい」


 水着の男女が浴室で二人きり。僕と田野たのさんでなければ即間違いを起こすレベルのシチュエーションだ。

 高級マンションは当然のように浴室も豪華で、まず僕の一人部屋よりも広い。机とかベッドを持ち込めばここで生活できる。

 口からお湯を吐き出すライオンって家庭用のお風呂にも生息してるんですね。


「…………」


「どうしたの?」


 細かいところを掃除するための歯ブラシを持った田野たのさんがジト目で睨み付けてくる。明らかに僕に対して不満を持っている。


「まさか田野たのくんが熟女好きだなんて思わなかったよ」


「ちがっ! どちらかと言えば僕はロ……じゃなくて、田野たのさんのお母さんは全然熟女じゃないよ。めちゃくちゃ若い」


「人のお母さんに手を出していい理由にはならないよ?」


「そもそも手を出してないじゃん!」


 なんだこれ。修羅場なの? たしかに僕も誤解を招く言動をしてしまったけど、結構お互い様みたいなところもあると思うんだよね。

 

「おかげでわたしは安心してお風呂掃除できるけどね」


 シュッシュッとお風呂掃除用の洗剤を壁や床に吹き付ける。換気扇は回しているけど独特な臭いが浴室に充満してきた。一応シトラスの香りが付いているらしけど、それでもやっぱり好きなタイプの匂いではない。


「僕はこの歯ブラシでこすればいいのかな?」


 田野たのさんが用意した歯ブラシは二本あって、一本はさっきから彼女が持っている。残りはシャンプーなどを保管するステンレス製の棚に置かれていた。


道玄坂どうげんざかくんには湯船の中をお願いしたいんだ。あそこのスポンジを使って」


「いいのかな。僕が浴槽に入って」


「お母さんだけじゃなくてわたしやお父さんも入ってるからね? あんまり変な妄想を膨らませないように」


田野たのさんのお母さんを狙ってるわけじゃないから!」


 僕がどんなに否定しても彼女の中ではそういうことになってしまっているようだ。クラスメイトの母親を性的な目で見るなんて、たしかに田野たのさんのお母さんは魅力的な人だとは思うけどそんなのエロゲーかAVの世界だ。

 

 自分に対する性的な話題には鈍感なくせに、他人事だと敏感になりすぎるのはやっぱり彼女の天然さがそうさせるのだろうか。田野たのさんはもう少し自分が男子を欲情させる体だという自覚を持ってほしい。


 僕からそんなアドバイスをしたらセクハラ案件になってしまうので何も言えないのがもどかしい。


「ほらほら道玄坂どうげんざかくん。うちのお風呂をプールだと思ってゴシゴシして」


「は、はい!」


 タイルの隙間を歯ブラシでこするためにしゃがんだ田野たのさんは背中ががら空きだ。試着室では正面からしか見なかったので全然気が付かなかった。ワンピースタイプだけど背中はぱっくり露出しているなんて。


 普段から背中を出している人はともかく、今日の服装から考えても田野たのさんは絶対に肌を露出しないタイプだ。紫外線のダメージを受けていないその肌は白く、許させるなら頬ずりしたくなるほどきめ細かい。


 しゃがんだことでお尻や太もものお肉も強調されていて、もしあのお肉に挟まれるなら死んでもいいとすら思えてくる。


道玄坂どうげんざかくん手が止まってない?」


「ご、ごめん。広いお風呂につい見惚れちゃって」


「広いと思うのなら尚更手を動かさないと終わらないよ」


「だよね。うん。頑張る。まるでプールだ」


「ふふ。プール掃除の予行練習だけど、さすがにお風呂をプールって言うのは大げさだよ」


「ははは。うちのに比べたらプールみたいなものだよ」


 ゴシゴシと歯ブラシでこする音が浴室の中に響く。田野たのさんは僕と会話しながらもしっかりと掃除を続けている。ここで成果を上げられなければ、僕はただ女子の家に上がり込んで水着でお風呂に入った変態だ。


「よしっ!」


 ちょうど前屈みになりたいところだったのでこの状況は好都合だ。スポンジを握りして、高そうな浴槽を傷付けないように優しくこする。ただ、我が家の浴室と違って黒カビは見当たらない。すでにピカピカになっているのでどうにも掃除をしている実感が湧かない。


田野たのさんのお風呂ってすごく綺麗だよね。僕もタイルの方を手伝おうか?」


「大丈夫大丈夫! 道玄坂どうげんざかくんは浴槽の中にいて」


「わ、わかった」


 もしかして田野たのさん、水着姿を見られるのが恥ずかしい?

 担当場所が違う上に、しゃがんで浴槽の掃除をしていると田野たのさんの姿を見ることはできない。


田野たのさん、これって予行練習なんだよね?」


「そうだよ。道玄坂どうげんざかくんは体力なさそうだからしっかり腕を慣らしておいてね」


「うっ……それは」


 この指摘はたしかに合っている。しゃがんだ体勢のままで腕を動かす。運動は体育の授業くらいしかやっていない僕ではたぶん明日は筋肉痛だ。


「ほら、わかったら手を動かす!」


「……はい」


 僕は言われるがままに手入れの行き届いた浴槽をひたすらスポンジでこすり続けた。むしろ僕みたいなクソ童貞がこすることでけがれてしまうのではないかという不安と戦いながら無の時間を過ごす。


 ゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシ

 キュッキュッキュッキュッキュッキュッキュッキュッ


 二人の掃除の音と洗剤の臭いが浴室を支配する。たぶんだけどプール掃除はもっとこう陽のオーラに溢れてキャッキャすると思う。これじゃあダメだ!


田野たのさん、全然練習になってないよ!」


「そ、そうかなあ」


 声の聞こえ方から僕が立ち上がったとわかったのか田野たのさんは体を丸めた。

 おっぱいが太ももに押し当てられて逆にエロい感じになっている。心の中でその光景に感謝しつつ、その点については気付かないふりをした。


「僕がアニメで見たプール掃除は半分遊びみたいな雰囲気でキャッキャしてた。女子だけの水泳部なら尚更だよ」


「でも、ボランティア部に手伝いを頼むくらいだし、すごーく真面目にやると思うんだ」


「いいや、陽キャは絶対に遊ぶ。掃除中に遊べるから陽キャなんだよ」


「仮に道玄坂どうげんざかくんの言う通りだとしても、うちのお風呂には水鉄砲とかおもちゃなんてないからね」


「そういうのじゃなくてさ、田野たのさん……」


 僕は浴槽をまたぎ洗い場へと移動する。このままではらちが明かない。僕があの手この手で説得を試みても彼女はそれに対してうまく切り返す。それならば僕にできることはただ一つ。


「もっと水着姿をよく見せてください!!!!」


 土下座だ。

 洗剤を洗い流していないのでタイルはぬるぬるでシトラスの香りが鼻を刺す。さすがに額を着けることはできないけど誠意は伝わるはずだ。


「うぅ……でも」


「僕の練習にならないんだよ。水着の女の子に耐性を付けたい!」


「……わたしのなんか見ても意味ないよ」


「そんなことはない! むしろ田野たのさんのむち……いや、なんでもない。とにかく田野たのさんも水着に慣れよう。そのために誘ってくれたんでしょ?」


 危うむちむちボディと言ってしまうところだった。男子目線では誉め言葉なんだけど女子からすればショックだと思う。いくら女心がわからない僕でもさすがにこれくらいは簡単だ。


「うん……そうだよね。わたしもこの水着に慣れなきゃ。でも、もう少し待って。今はちゃんとお掃除をして、それから。お願い」


 お団子のように丸くなっている田野たのさんが僕の方に首だけ向けて言った。

 マシュマロみたいにふわふわな体と涙目になっている顔が扇情的で、土下座をしたままいきり立ってしまう。この現象は洗剤が臭かろうがお構いなしなんだな。一つ勉強になった。


「ちなみに掃除が終わったらどうするつもりなの?」


「それはまだ秘密。言ったら、たぶん今度は道玄坂どうげんざかくんが逃げちゃうから」


「自分から水着を見せてくださいって言って逃げないよ」


「……絶対に?」


「う、うん」


 田野たのさんはどんだけ僕をヘタレだと思っているんだろう。たしかにヘタレで童貞だけど、思い切って土下座したじゃないか。自分でもこんな行動に出るなんて驚いてるくらいなんだから見くびってもらっては困る。


「それに、これでわかったでしょ。僕はお母さんよりも田野たのさんの水着に興味があるってことがさ」


「その証明にはなってない。お母さん優しいから、道玄坂どうげんざかくんが必死にお願いしたら許しちゃうかも」


「いやいや、さすがにそんなことは」


 ないとは言い切れないのが恐いところだよな。田野たのさんのお母さんと二人きりの時に土下座したらマジでヤラせてくれそう。しかも経験者だから優しくリードしてくれそうだし。さすがに母乳はもう出ないよな。でもあのサイズなら……。


道玄坂どうげんざかくん、今想像したでしょ?」


「し、してないよ!」


 洗剤まみれのタイルに手を着いたまま僕は情けない声で反論した。


「わたしは『何を』とは一言も言ってない」


! 想像とかじゃなくて頭の中がになってたっていう意味」


「ふ~ん」


 納得したのかしてないのか、田野たのさんは再びタイルの隙間に意識を集中させた。

 特に指示は受けていないけど僕も持ち場へと戻る。


 本当に広い浴槽で、子供なら泳げそうだ。大人が二人で入ってもまだまだ余裕がありそうだからもしかしたら田野たのさんのご両親はここで……。


 なんとなくギュッと握ったスポンジから白い泡がにじみ出る。スポンジのざわざらとした感触が僕を現実へと引き戻してくれた。

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