第12話 親子

 結局、田野たのさんは試着した花柄のワンピースタイプの水着を購入した。

 僕はと言えばあまりにも気まずい空気に耐え切れず、レジの近くにあった何の面白みもない紺色のサーフパンを選んだ。正直、サイズが合うかもわからない。

 

 もし合わなければ昔のでも全然構わない。せっかくなのでと田野たのさんに購入を勧められたけど、結果的にその田野たのさんのせいでちゃんと選ぶことはできなかった。


「うぅ……恥ずかしかった」


「それはこっちのセリフだよ。ただでさえアウェイなのに完全に敵視されてる感じだった」


「みんな見る目がないなあ。道玄坂どうげんざかくんは人畜無害なのに」


「誉め言葉として受け取っていいんだよね?」


 田野たのさんは聖女の笑みで僕を見つめて、特に何もコメントをしなかった。彼女が僕を何だと思っているのかイマイチわかりかねる。

 恋愛対象として見てないのは間違いなさそうだけど。


「ところで道玄坂どうげんざかくん、予行練習も兼ねてうちに遊びに来ませんか?」


「ふえっ!? よ、予行練習ってなんの」


 まさか僕が土下座でお願いしたアレの? でも予行練習ってアレに関してはいろんな意味で本番というか……。実は今までの田野たのさんの天然は壮大な振りで、本当は頼んだらヤラせてくれるタイプだったの!?


 今日は散々な目に遭ったけど全て許せる。まさか田野たのさんに焦らしプレイの才能があったなんて。


「プール掃除の予行練習。うちのお風呂掃除を手伝ってもらいたいなって」


「ああ、うん。しつこい汚れを落とすのは大変だもんね」


 学習しろ僕! 田野たのさんはそういう人なんだ。

 だけど、だけどワンチャンの光が見えたらそれにすがってしまう。男っていうのは悲しいさがを背負った生き物だ。


「お互い水着を着て、ぬれぬれになるのは気にせず思いっきりしようね」


「み、水着なの?」


「だって予行練習だもん。わたしは鈍臭いから水着でお掃除するのがどんな感じか練習しておかないと不安だよ」


「それなら一人でやってみてはどうでしょうか?」


「むぅ……道玄坂どうげんざかくん冷たい」


 唇を尖らせて不満気な表情を浮かべる田野たのさん。基本的にいつも笑顔だからこういう顔はとても新鮮だ。


「でも急にお邪魔したら迷惑じゃない? また日を改めてとかの方がいいんじゃ」


「大丈夫。今日は親も出掛けてるから」


「ん゛ん゛ん゛!? ごほっ! げほっ!」


「どうしたの? 変な声出して」


 女子の家に行くだけでも緊張するのに両親不在はマズい。お風呂掃除は口実で本当の目的はやっぱり……。

 もはや田野たのさんに弄ばれている気がしてきた。それにご両親がいなくても祖父母がいるとか兄弟がいるとかそういう展開に違いない。一瞬ドキッとしたけどそう簡単には騙されないぞ。


「おじいちゃんおばあちゃんとか、あとは兄弟がいるとかなんでしょ?」


「ううん。どっちのおじいちゃんおばあちゃんも別の所で暮らしてるし、わたしは一人っ子だよ」


「……田野たのさんと二人っきりでお風呂掃除するってこと?」


「そうなるね。さすがに三人以上は入りきれないし」


 田野たのさんにとっては僕と二人きりになることよりも浴室に三人以上は入れないことの方が問題で、頭の中は完全にお風呂掃除でいっぱいになっている。


「ちなみに今向かっているのは駅と見せかけて我が家だから」


「え!? あ、たしかに。来る時と風景が少し違う気が。田野たのさんの家、この辺なんだ」


「そうなのです。道玄坂どうげんざかくんはすっかりわたしの策略にハマっていたのです」


 自分でブラのホックを留められなくった女子高生がなぜか得意げに鼻を鳴らす。地図アプリで検索すれば駅にだって簡単に戻れるけど、そんなことをしたら明日以降学校で何を言われるかわからない。

 

 田野たのさんの天然ぶりによって僕が鬼畜外道みたいな扱いを受けてしまう可能性もある。それが事実なら甘んじて受け入れるけど、実際は女の子と手を繋いだこともない童貞だから許容できない。


「念のため確認だけど、家には誰もいなくて、お風呂掃除を手伝えばいいんだよね?」


「うんうん。あと、道玄坂どうげんざかくんにはわたしの水着姿に慣れてもらうから。当日は水泳部の子と見比べて笑ったりしないでね?」


「しないよ。そんなこと!」


 むしろ僕の色白ヒョロガリ体型を笑われないかの方が心配だ。田野たのさんはともかく、運動部は基本的に陽キャな上に水泳部は女子の集団ときたもんだ。川瀬あたりはハーレム展開とか言うかもしれないけどそれは二次元限定の話。三次元となればただの地獄でしかない。


「さ、ここだよ」


「おおぅ」


 到着したのは見るからに高級そうなマンションだった。つまりここに住む田野たのさんの親御さんはそれに見合う収入を得ているわけで、もし田野たのさんを泣かせるようなことがったら裁判沙汰になって絶対に勝てる気がしない。

 このド天然を高級マンションの住人が生み出したなんて生命の神秘だ。


「コンシェルジュさんもいるんだけど、わたしもこの綺麗さを保つために目に付いたところはお掃除してるんだ」


 そう言いながら植え込みに落ちていたとても小さなビニール袋の切れ端を拾い上げた。誰かに評価されようとか、恩を売ろうとか、そういう考えではなく、とても自然な流れの動作に感動すら覚える。


「学校以外でもボランティア活動してるんだ」


「うん。わたしにはこういうことしかできないから」


「マンションが綺麗なのはきっと田野たのさんのおかげだよ」


「えへへ。そうだと嬉しいな」


 みんなのために掃除をする田野たのさんは本当に聖女だ。この姿を見てもなお土下座してワンチャン狙う男がいたらそいつはクズだね。


「部屋は二十九階だからゴールはもう少し先だよ」


「…………」


 二十九ってこのマンションの中でもかなり上の方では?

 ますます田野たののことがよくわからなくなってきた。こんなお金持ちがボランティアをするなんて、もう非の打ち所がないじゃないか。


「ずっと住んでるけどエレベーターで耳が詰まるのは慣れないんだ」


「水泳をやる人は耳抜きがうまいらしいよ。今度教えてもらったら?」


「うーん。水泳部の人と仲良くなれるかなあ」


「最近はクラスでも人気者だから大丈夫だよ」


「えへへ。そうかな」


 僕みたいな卑屈な陰キャと違って田野たのさんはクラスの中心から外れ気味ではあるけどコミュニケーションを取ることには前向きだ。持ち前の聖女力せいじょりょくも相まって、話してみたら意外と陽キャとも馬が合うらしい。

 きっかけさあれば水泳部の陽キャとも会話が弾むに違いない。ついでにおっぱいが弾んで、それを一瞬でも見られれば僕は幸せだ。


道玄坂どうげんざかくん、よだれが垂れてるよ?」


「え゛!?」


「うーそ。でも、変なことを考えてる顔してた」


「変なことなんて考えてない。プール掃除の練習を風呂でする田野たのさんの方が変だよ」


「むぅ……ひどいこと言うなあ」


 耳の違和感もあるのか、露骨に不機嫌な顔に変わる。でも不思議なことに怒りは感じさせない、どこか穏やかな空気がエレベーターの中に溢れていた。


「着いたよ。エレベーターの近くだから楽なんだ」


「マジか……」


 ざっと見渡した感じ玄関と思えるものは目の前にある一つだけ。廊下の端は見えていて、そこにあるのは非常ドアだ。


「もしかしてここ、田野たのさんしか住んでない?」


「そうだよ。壁ドンはないけど、下の階にはちょっと気を遣うんだ」


「へ、へえ……」


 うちは一軒家なので騒音で壁をドンと叩かれる心配はないけど、マンションでも壁ドンされない世界って身近にあるものなんだな。

 どこの誰だよ、田野たのさんは土下座すれば簡単にヤラせてくれるとか言ったやつ。こんなセキュリティばっちりのマンションに住んでる子の股のセキュリティがガバガバのわけないだろ!


「さ、あがって」


「おじゃまします」


 僕はここで違和感に気が付くべきだった。高級マンションのオーラに圧倒されて日常生活では当然の行為を見落としてしまっていたんだ。


「あらあら。いらっしゃい」


「へ?」


「ただいま。ふふ。驚いた? 実はお母さんがいたのでした」


 全く心構えができていなかった僕の頭は真っ白になっていた。

 田野たのさんと同じくふくよかで優しいオーラを醸し出すその姿はそれこそ聖母のようで、もし許されるのならその大きな胸に飛び込みたい。


 だって、お母さんとは思えないくらい若いんだもん!

 田野たのさんのお姉さんでも全然通用する肌の瑞々しさと髪の艶やかさ。それでいてオトナの色気が溢れ出ている。

 長い髪を一つに束ねて肩に掛けるスタイルはまさに人妻だった。


「ああ、だからさっき……」


 田野たのさんは家に誰もいないと言っていた。ただ、予定変更で早めに帰宅することもあるだろう。それはもちろん構わない。

 だけど田野たのさんはそもそも鍵を開けていかなかった。家に誰もいないのなら開錠は彼女の役目だ。それをせず、まるで中に誰かいるのをわかっているようにあっさりとドアを開けていた。


美咲みさきが男の子を連れてくるっていうからお母さんドキドキしちゃった。はじめまして。美咲みさきの母です」


「ははははははじめまして。道玄坂どうげんざか傑です。不束者ですがお母さんヤラせてください!!!!」


 僕は挨拶を噛み倒し反射的に玄関で土下座をして、目的語を言わずにヤラせてくださいと懇願するという最低な行為に及んでしまった。


「もう! いくらお母さんがセクシーでも不倫はダメだよ!」


「うふふ。おもしろい子ね。まさか美咲みさきがこんな大胆な男の子を連れてくるなんて思わなかったわ」


 この前のヤラせてくださいは掃除だと勘違いしたのに、今のヤラせてくださいはエッチの方だって解釈したの? 

 田野たのさんの判断基準がわからないし、想像していたより修羅場になっていないことに胸を撫で下ろした。


「違うんです。お風呂掃除、お風呂掃除をヤラせてくださいというお願いでして。プール掃除の練習で」


「うんうん。美咲みさきから聞いてるわ。お母さんがいるんだからエッチなことはしちゃダメよ?」


「もちろんでございます!」


「お母さん! 道玄坂どうげんざかくんは女の子に手を出す度胸がないから大丈夫だよ。むしろお母さんが土下座の勢いに押されて道玄坂どうげんざかくんに手を出さないか心配なんですけど」


「うふふ。必死にお願いされたらわからないかも」


 ぺろっと舌を出して僕を見下ろすその瞳の奥には獲物を狙う蛇のようなじっとりとした鋭さがあった。もしかして、土下座で頼んだらヤラせてくれるのってお母さんの方なの……?


 いやいや、それはさすがに田野たのの崩壊させることになってしまう。R-18の中でもなかなかにコアな部類の話になるのでお母さんの発言は記憶から抹消しておこう。

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