自己の喪失。島は果たして異質なのだろうか?

 ボートに乗ってから気づいた。


 俺っちは記憶を失っていないと思っていたが、実はそれはまちがいだった。


 俺っちは、自分の顔を忘れている。


 ボートに乗って、ひどく透明な海を見たときに、自分の顔が映っていなかったのだ。


 そのとき、それがおかしなことだとは思わず、ふと自分の顔がどんな風だったかを思い出そうとした。けれど、どれだけ頑張っても俺っちは俺っち自身の顔を思い出すことができなかった。


 どうして、顔だけの記憶がないんだ。


 ぼんやりとも思い返すことができない。自分の目、口、鼻、ほくろ、唇、何もかも、思い出せない。


 俺っちがとてつもなく動揺していることには一切気づかず、名前のない少女はぼうっと海を眺めて言う、「海ってさ、波があるものじゃなかったっけ」


「さあね、波だって、たまには一息つきたいもんだよ」俺っちは適当に返した。確かに、海は波もないし、反射もしない。けれどいたって透明だし、日の光もちゃんとある。だけど上を見ると天井のようなものがあって、太陽がない。潮の匂いなんてちっともしない。でもそんなのは後回しだ。俺っちは自分の顔が分からないのがとてつもなく嫌だった。


「そう」


 ひとまず、彼女の冷静さを見習って俺っちはオールを漕いだ。


 そうさ。彼女は顔どころか、記憶丸ごときれいさっぱりなくなってしまっているのだから。


「なあ、あんた。何も憶えていないのって、怖くないか?」俺っちは少女に話しかけてみた。名前も憶えていないような少女に。


「怖い。けど仕方ないし、どうしようもない」


「そういうもんかね」


「そういうものよ。そんなことより」と少女は言って区切る。顔を俺っちから見て左にずらして続ける。「海はきれいだわ」


「きれい?」


「そう思わないの?」


「んん、俺っちはそうは思わないかな」


「どう思う?」


「汚いものだと思う」


「よく見て」そう言って彼女は下を指さした。そこには一点の濁りのない海面が広がっている。


「これが、汚いの?」本気で言っているのか、とでもいうように少女は俺っちの顔と、それから下の海中とを交互に覗き込むようにして尋ねた。


「ああ」俺っちは海なんかには興味もなく、そこでいったんオールをナイフとフォークみたいにボートに置いた。そして空を——いいや、天井をぼうっと眺める。それから続けた。


「海はとんでもなく汚い」



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