2-1 妖精と箸置き
ヒガンが企業の令嬢という肩書きを得たのは母が死に、父方の祖父に引き取られたからだった。
それまでは母と双子の片割れとともに、切り詰めた生活を送っていた。
母は何かにつけ、それはそれは優しい顔で「お前は汚い」とヒガンに吹き込んだ。母の中でそれは罵倒でなく真実だったのだろう。
入浴時に二人きりになる機会が多かったため、よく風呂の鏡にヒガンの姿を映して、「お前は醜い」と耳打ちした。
曇った浴室鏡を母が撫でた。数秒でまた湯気が鏡を曇らせるため、母の細い手が何度も何度も平面鏡を滑ったことを未だに覚えている。
ある真夏の真っ昼間、母がヒガンを心中に誘った。
母に倣って睡眠薬を大量に服薬し、浴槽に入った。
ヒガンを熱湯に浸からせると母は洗い場のタイルに横座りし、手首だけ湯船に入れて、包丁を引いた。
ぱしゃりと静かに滴が跳ねて、ぱあぁ……と彼岸花が湯に咲いた。
母の血は煙るように、とめどなく湯に広がった。紅い半透明の湯でヒガンの身体まで紅色に染まった。
母はたくさん汗をかいて苦悶の表情を浮かべた。
母が死んでゆく様を眺めた。
母は痩せぎすの身体をだらんとさせた。そうすると余計に背骨とあばら骨と頬骨が浮き出た。
化粧を落とした母には眉がないので、ますます感情が見出せず人間味を薄れさせていた。
数時間を経て母は、さなぎが蝶に羽化するように変化を遂げた。
茹で蛸のように赤かった母の顔が土気色になり、薄く目と口を開いたまま、全身を巡ることを辞めた血が足に溜まり足に死斑が表れて、体内にガスが発生し、身体が浮腫んだ。
まるで死と生が地続きだった。ヒガンは確かに生の延長に死があることを目の当たりにした。
風呂場の外からタンポポの声がかかった。
彼はヒガンの双子の片割れだった。どちらが早く生まれたかは知らない。
「あついよぅ。ヒガン、出てよぅ」
冷房のない炎昼の室内はそれは暑いだろう。
タンポポが風呂場の前で、おろおろ狼狽えている姿が容易に想像できた。
「うるさい。私は母さんと一緒に逝くの。あんたは邪魔しないで」
怒鳴ったつもりだったが、抑揚もなかった。その体力がなかったのだ。
ヒガンと違って母に愛されていた純粋無垢な双子。これでようやく、棄てることができる……。
タンポポはヒガンの拒絶を感じ取り、泣きべそをかいて出て行った。
直後、聞くに堪えない叫び声が響いた。
見れば死体になったはずの母が、喉が裂けんばかりに声を張り上げていた。そして脱力し、死体に戻った。
母は死に、ヒガンは生き延び、タンポポは行方不明となった。
それから数年の時を経て春先。
去年から続く長い雨が束の間止んだ。
今日はヒガンの母親の地元に墓参りに来ていた。
母が亡くなったのは真夏だったため時期が違うが、今日はある少女を引き取った報告を兼ねていた。
年末頃ヒガンは高校生であった阿部ムカゴ青年と結婚、即離婚し、彼の娘のクコを引き取った。
ムカゴは月に三度のクコとの面会日を約束されており、本日はその日だった。
瓦屋根の民家がぽつりぽつりと出現する寂れた集落に、ヒガンらを乗せた黒塗りの外車が分け入る。
家々を行き過ぎ、山道の入り口手前に目的の家があった。かつてヒガンが、母と双子の片割れと共に過ごした古民家だった。
外車を運転していた執事を帰らせ、舗装されていない野道にスーツケースを引いた。
ムカゴはチャイルドシートからクコを抱き上げて土に降りた。
ムカゴとクコは物珍しげと戸惑いの表情を混ぜて、付いてきた。
ムカゴはクコを気遣う素振りを見せる割に、二歳の娘を腕に抱くことも手を繋ぐこともせず一歩分の距離を開けて歩いていた。
ヒガンは横目で、この父娘の距離感の奇妙さを感じていた。
今も、ムカゴがクコのオーバーオールに慎重に触れて「これ、着せてもらったの?」と訊いた。
クコは「うん!」と自慢げに頷いて、ムカゴにしがみつこうとした。が、ムカゴの表情が曇ったことを敏感に読み取り、ぱっと離れた。
ムカゴは慌てて笑顔を作った。
「よかったね~。あ、ヒヨコさんだ!」
オーバーオールにはヒヨコのアップリケが付いていた。
「ヒヨコしゃん、なんだよ~」
手足をパタパタ跳ねさせて、クコがくすぐったそうな笑い声を上げた。もう父に触れようとはしない。
双方とも、石橋を叩いて渡る、とでも例えたくなる様子で、だが二人が会話している間は完全に二人だけの世界が出来ていて誰も割り込めないのだ。
ヒガンは奇妙に思いつつも、自分には関係のないことなので口を挟んだりはしなかった。
荷物を古民家に運び入れた。一泊するだけなので準備に手間はかからない。
その間、ムカゴからヒガンに対し、何の問いも差し挟まれることはなかった。
ヒガンから一方的に「墓参りに行く」とだけ告げてここまで連れてきたのに、ムカゴは何の疑念も抱いた素振りがなかった。
再びムカゴたちを伴って、出掛けた。
ヒガンの母の墓はタンポポ畑に囲まれていた。
群生した野生のタンポポたち。ヒガンはそれらを、くしゃくしゃと踏み潰しながら歩いた。
後ろのクコが「かわいそう……」と非難がましく呟いたが、ヒガンは「こいつらは見た目よりずっとしぶといのよ」と意に介さなかった。
墓参りを終えた頃、ムカゴが「綺麗ですね、タンポポ」とお世辞を口にした。
ヒガンが無視して立ち上げると、彼は続けた。
「花の一つ一つが小さな子供の顔みたいだ」
ぎょっとして振り返ると、クコに向けられた彼の目は慈愛に満ちていた。
ヒガンは気味が悪かった。
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