10.越境

 健二はスノウの眼前で、膝を突いている兵士を見て絶句していた。この世界では、その者の出で立ちが変わっていたわけでもなく、別段特徴的な容姿をしている訳でもなかった。だが、少なくとも健二にとっては、初めて目にするその姿に、驚きを隠せずにはいられなかった。


 顔全体が体毛で覆われた兵士の顔は動物のように長い口と鼻に大きな目、人とは明らかに違う側頭部の上に付いた耳。犬とも猫とも言えない曖昧な獣の容姿に、健二は驚きのあまり息をするのも忘れてその兵士を凝視する。兵士がスノウと話をすると異様に長い口の間から覘く白く鋭い歯が見え隠れしている。


「ご苦労だった」


 スノウは兵士にそう言うと、健二に向き直る。


「私の友であるオーザンだ。彼は獣人だ。覚えているか、以前に君を逃がしたとき、君が向かうはずだったトルマン村で会うはずだった男だ。今回は、彼がどうしても君に会いたいと言うのでな。ここへ来てもらっていた」


 スノウの隣に立っていた兵士が、そろそろと健二の方へ寄ってくる。


 若干の不安を覚えつつも、健二は兵士と向き合う。


 近くで見ると、その容姿に、改めて圧倒される。全身を鉄の鎧に包まれ、一見すると、人間と同じ容姿の剽悍な印象の兵士は、前腕や膝元の鎧の隙間から、毛深い肌が見え隠れしている。兜の中から現れた犬を彷彿とさせる面長の顔に、長い鼻筋と大きな瞳が印象的な鋭い目付き。気のせいか、少しだけ獣臭さがするが、何とか表情に出ないように堪えた。


「あなたが健二殿ですか。ようやくお目に掛かることができました」


 オーザンはそう言って、膝を突くと健二の手を優しく握る。


「以前にスノウ殿の命を受け、トルマン村であなたをお待ちしておりましたが、残念ながら、私の手が届かないうちに、敵の者に誘拐されてしまい、お命が危ういのではと懸念しておりました。しかしながら、こうしてお目に掛かれたこと、心より光栄に存じます」


 オーザンの毛深い手からは、温もりを感じる。握られた手が僅かに震えている。それがなぜなのかはわからなかったが、健二の緊張感は僅かに和らいだ。


「私が不在の間、問題は無かっただろうな」


 スノウが気にしたように、兵士たちを見回して言う。その表情から何かを気にしているのがわかった。


「問題が……」


 オーザンがそう言い掛けたとき、何者かが言葉を遮る。


「問題などあるわけない」


 それは、馬上にいた兵士だった。


 オーザンの背後に控えていたが、痺れを切らしているのか、なぜか苛立った様子で凄む。他の兵士とは装いが違い、装飾が施された派手な鎧を身に纏っている。この兵団を率いている将だろうか。


「いたのかセンドリクス。気付かなかった」


 男にスノウが軽蔑した口調で嫌味愚痴を言う。ふてくされ、素っ気ない態度で、スノウがこの男に対して好意を抱いていないのは明白だった。


「俺がこの兵団を指揮しているのだ。いて当たり前だろう。」


 スノウの言葉に、センドリクスが愛想笑いを浮かべる。口調は平静を装っているが、スノウの嫌味愚痴に怒りを押し殺し、必死に耐えているのがわかる。この男もスノウに好意を抱いておらず、この二人が、犬猿の仲であることは明らかだ。


 センドリクスの言葉を聞き流し、スノウは低い声で威圧的に言う。


「本当に問題はなかったのか。私が見たところ、兵士たちは疲弊しているようだが。ここは敵国領土内だぞ。少しの油断が危機的状況を招きかねないことを知らないお前ではないだろう」


 スノウの言葉に、センドリクスは面倒くさそうに弁解する。


「まあ、あるにはあったが……問題と言うほどのものではない。数匹のうるさいネズミが、暴れたというだけのことだ」


 センドリクスの言葉に、健二は胸騒ぎを覚えた。その言葉が比喩であり、皮肉交じりであることを理解したのと同時に、同行していたジラルモたちの安否が気になる。もし、センドリクスが示しているのがジラルモたちであるならば、状況は最悪だ。


「その者たちは」


「兵士たちの方は始末する他なかった。それ以外に魔法使いが二人いた。魔法使いを殺してしまうと敵国の反発は馬鹿でかいからな。手こずりはしたが、何とか拘束できた」


 センドリクスの言葉にスノウは怪訝そうな表情を見せる。だが、すぐに思い直したように、センドリクスを挑発するように言う。


「賢明な判断だ。お前にも自制心があるとは」


 スノウの挑発に、負けじとセンドリクスは呆れた表情をする。


「当たり前だ。俺は将だぞ。そのくらいのことは――」


「それじゃあ、国へ帰るぞ」


 張り合おうとするセンドリクスの言葉を遮り、スノウは淡々とした態度で、兵団に声を張り上げる。


 不満そうな表情を見せたセンドリクスだったが、スノウの言葉に従い、馬を反転させると、指揮を執るために兵団の先頭へ向かう。


 健二はこの状況から、拘束されているのがジラルモたちであることを何となくわかっていた。スノウは自分とジラルモの繋がりを知っているのだろうか。


 健二は探りを入れようとスノウに尋ねる。


「さっき捕まえたって言ってたのは誰のこと」


 健二の問いに、スノウは力なく笑う。その反応でスノウが何を考えているのを健二は瞬時に察した。


「君の連れに決まっている。私が知らないとでも思っていたのか。スエーデンのことは調べ尽くしている。君が一人でここへ来られるわけがない。女王のもとにいたのなら、あの女の弟子を連れ立っていることなど容易に想像がつく」


 スノウの言葉に健二は言葉を返すことができず、顔が熱くなるのを感じた。探りを入れようとしていた自分の浅はかさに嫌気が差す。


「こうなった以上、言わずともわかっているとは思うが、君には強制的にこちら側の陣営に来てもらう。選択権はない。あの者たちの命が惜しければ、こちらの指示に従ってもらう」


「つまり……人質ってこと」


「どう受け取るかは君次第だ。私はゲストとして迎え入れるつもりだが……君の連れに関しては、こちらに危害を加えかねない故、拘束することになる。不測の事態が起きた際に、ここから安全に抜け出すための保険も兼ねるとなれば、人質という扱いは妥当だろう」


 スノウはそう言い残すと、健二を置いて行ってしまった。その場に取り残された健二は、どうして良いのかわからず辺りを見回す。兵団はスノウの一声で、既に撤退準備が完了し行軍に備えている。


「大丈夫ですか、緊張されているようですが」


 背後から声が掛かる。振り返ると、オーザンが立っていた。


「俺ってこれからどうすれば――」


「私がお世話をさせていただきます。私から離れないでください。スエーデンの者たちは、魔法使いに強い嫌悪感を抱いている者が多いのです。私の命に代えてでも、あなたをお守りします」


 オーザンの言葉に、健二は少しだけ不安が和らいだ気がした。


 健二はオーザンと馬車に乗り込む。多くの騎馬に囲まれ、緊張感が漂う空気に気が張り詰める。騎馬の兵士たちから向けられる、刺すほどの痛い視線を感じる。視線を上げると視線を向ける者たちのひとりと目が合ってしまいそうで怖い。健二は前方を向いた視線を変えず、じっと堪える。徐々に首筋が強ばっていくが、それでも痛みに耐える他なかった。


 一団は何事もなくカトラリアから脱出する。いくら戦線が拡大している国同士であるからといって、これほど敵国に気付かれず侵入し、何事もなかったかのように脱出できるものなのか。そんな疑念を抱く健二だったが、それはすぐに払拭された。


 スエーデンとカトラリアの国境には、幾つかの抜け道があるのだという。

山岳地帯の合間を縫った険しい山間を、縫うように抜ける小道があった。両脇が切り立った断崖絶壁となっており、ほぼ直角を成した頂上からは、薄暗がりになった地上を見下ろすことができる。頂上から小道を監視していれば、国境の監視は容易に思えるかもしれない。だが、頂上へ至る山道は、険しい山岳地帯となっている。見張りのために、時間を浪費しわざわざ危険な山道を往来してまで見張りを厳にするには、軍備と人員が不足しがちだ。最低限の警戒として、それぞれの小道の入り口には互いの国の関所が設けられており、そこを警備する兵士が常に監視している。だが、人の心というものはいくらでも変わりようがある。


 関所付近になると、兵士たちの空気が徐々に張り詰めるのがわかった。


 兵士たち全ての表情が強ばり、何かの刺激にでさえ敏感に反応するのでは、と思えるほどの臨戦態勢となっている。張り詰める重苦しい空気に、息をするのさえ悶えてしまう。


 関所に辿り着くと、先頭に立つスノウが関所を警備している兵士に近付く。


 スノウは警戒する様子はなく、不審なことなど心当たりがないかのように話し始める。


 会話の内容が気になったが、ここからでは距離があるため、聞き耳を立てても会話の内容を窺い知ることはできない。


 暫くすると、話を終えたスノウの合図で兵団は行軍を再開する。


 自分の目の前で起きたことが理解できず、健二はただ唖然とする。今通過したのは、カトラリア側の関所だ。つまり、関所を警備する兵士たちは、眼前を通り過ぎていく敵国の兵団であるこちらを平然と見逃しているのだ。


「今のは何が起きたの」


 健二は思わずオーザンに尋ねる。


「関所の兵士たちは、賄賂を受け取ったのです。事前にスノウ殿が渡していたのですよ」


 そう言うと、オーザンは異様に細長な口元が引きつらせる。一見すると、不気味に見えるその表情が、微笑みを浮かべていることがわかった。いつの間にか、見慣れない骨格の表情に慣れつつある。


 一団は順調な足取りで小道を進んでいく。


 両脇に崖が聳えるせいで、小道は日差しが直接当たらない。ただでさえ、入り組んだ崖に挟まれた閉鎖的な小道な上、昼間だというのに道は薄暗く、進んでいる道の先の視界を確保することが難しいため、前進する兵士たちの手には松明が掲げられている。


 健二は馬車からふと空を見上げる。そこには、不思議な景色が広がっていた。


 両脇から聳え立つ崖で、日の光が届きにくくなっているこの場所から見上げる空が、暗闇の中に浮かび上がる天の川のように見えるのだ。そして、明暗を分けている空と崖が接している部分が、うっすらとぼやけた薄明かりとなり、境界の曖昧さを演出していることで神秘的な景色となっている。こんな景色を見逃す手はない。


 小道に進み始めて暫く経った頃、崖の上の景色を眺めていた健二は、崖の上で何かが動いていることに気付いた。


 崖の縁を何かの影が、横切ったような気がしたのだ。健二はそれが気になり、不意にオーザンに尋ねる。


「ねえ、オーザン。あれって何だろう」


 健二が崖の上を指し示すと、オーザンの鋭い眼差しが崖の一点を見つめる。そして、次の瞬間、鼓膜が炸裂せんばかりにオーザンの怒号が響き渡る。


「敵襲――」


 耳元で発せられた怒号に鼓膜が甲高く響くのを両手で押さえながら、健二はオーザンを見据える。今までは穏やかであったその表情は、猛獣が敵を目の前にして威嚇するように、口元が裂け、そこから覗く鋭い歯並びが敵を仕留めんとしているようだった。


 オーザンの一声で、その場の兵士たちの緊張感が最高潮に達する。だが、閉鎖的で薄暗い場所におり、馬上で重装備に身を包んだ兵士たちは、身動きが取れないことで、徐々に混乱をきたす。


 そんな兵士たちの挙動を狙っていたかのように、頭上で激しい閃光が迸り、視界が真っ白になる。それと同時に、甲高い金切り音で聴覚も奪われてしまった。


 混乱し暗闇と無音の中で、健二は必死になって手探りで辺りの状況を感じ取る。馬車の角に身を潜め、じっと身動きせず状況の変化に注意を向ける。


 徐々に視覚と聴覚が回復し辺りを見渡すと、そこには襲撃者たちの姿があった。


 敵襲の正体は、カトラリアの魔法使いらしく。強襲と共に魔法が放たれると、あたりを衝撃が伝い、スエーデンの兵士たちに襲う。


 襲撃者たちの装いを見ていた健二は、その装いに違和感を抱く。


 上衣は兵士のように鉄鎧を身に纏い重装である一方で、頭には兜ではなく、フードを被り、下衣は厚手のトラウザーに足下は厚底のブーツを履いている。兵士なのか魔法使いなのかよくわからない中途半端な装いだ。だが、その違和感はすぐに払拭される。


 襲撃者たちは、中、遠距離を魔法。近距離を剣などの武器を手に戦っている。敵との距離感を取りやすくするため、身動きがしやすいように、且つ近接戦闘のために最低限を防具で身を守っているのだ。このような戦闘を行えるのは、魔法を駆使することができるカトラリア王国の兵士だけだろう。


 襲撃してきたのは数人だけだったが、それでも奇襲という策が最悪の状態をもたらしている。


 スエーデンの兵士たちは、混乱で統制が執れていない。その上、小道を騎乗し重装備であることで身動きが取れない。その隙を突いたカトラリアの兵士によって兵士たちは次々に討たれていく。そんな混乱の中でも、オーザンやスノウをはじめ、数人の兵士たちは冷静に対応している。その中でも、センドリクスは混乱する部下たちを鼓舞し勇猛に立ち向かっている。


「健二殿。今は身を低くして隠れていてください。私から離れてはいけません」


 オーザンがそう言ったとき、健二の視界の端で見覚えのある容姿の男が立っているのが見えた。


 男は戦闘の最中であるにも拘わらず、ゆっくりとした足取りで近付いて来る。自分の目の前を掠める剣の切っ先にも、たじろぐどころか平然とした様子で、薄ら笑いさえ浮かべている。


「健二。暫くぶりです。お待たせしました。さあ、行きましょう」


 陽気な口調でこちらに手を差し伸べる男の姿に、健二は内心ほっとした。シューベンタルトの微笑みに手を取ろうとしたが、そのとき、オーザンが間に割って入る。


「この方に近付くな。お前が頭だな。何が目的だ」


「目的ですか。自国の領土を守るのに目的も何もありません。それよりも、そちらの少年をこちらに引き渡してもらいます」


「させないと言ったはずだ」


 オーザンがそう言った次の瞬間、ふわりと風が微かに波立つと同時に、両者の剣がぶつかり合うと激しい金属音と火花が飛び散る。


 健二がそれを認識するよりも早く、二人の剣は目にも留まらぬ速さで交差する。


「さすが獣人族、と言ったところですか。私の剣捌きに付いてこられるとは、大したものですね」


 余裕そうな表情で、呑気に言うシューベンタルトの言葉に、オーザンも皮肉交じり言う。


「魔法使いは武術には疎いと思っていたが、体力にも自信はあるのだろうな」


「嘗めないでください。あなたとは経験の量が違います。年の功に優るものなどありませんよ」


「なら俺にちゃんと付いてこい爺さん」


 二人の戦闘に巻き込まれまいと、健二は離れる。そのとき、何者かに手を握られ今までに無いほどの胸の高鳴りを覚えた。


「大丈夫か」


 そこにはスノウがいた。辺りを気にしながらじっと健二を見据える。


「ここに留まっていても危険だ。私たちだけでも移動するぞ」


 健二はスノウに手を引かれ、戦闘が続く小道を駆け抜ける。


「他の皆はこれからどうするんだよ」


 戦闘が続いている最中、自分だけが逃げ出すことに罪悪感を覚えながら、健二は手を引き、先を急ぐスノウに尋ねる。すると、スノウは前を向いたまま淡々とした口調で言う。


「この状況では私たちにできることは何もない。特に君には……ここで一番大切なのは、君が無事に王都に辿り着くことだ。そうでなくては、この場で命を賭して戦っている者たちの意義も無に帰す」


 健二の言葉に応えたスノウの言葉は、悲しげに沈んでいた。

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