3.逃走

 雲ひとつない、淡い蒼色がひろがる澄み渡った晴天の空は、目に見えない何かに祝福されているかのようだ。だが、どこまでも広がる雲ひとつない蒼は、唐突に無限大の空間に、ぽつんと投げ出されたような孤独感を掻き立てる。何とも言い難い哀愁が、白紙に垂らした水墨の如く心の隅に滴る。やがて、墨は全ての感情を侵食し、恐怖にも似た負の感情を沸き立てる。美しい蒼い空に、深く暗い靄がふつりと湧き出す。


 空に抱かれた地上の街は、そんな空虚な感情を写し取ったかのように、重苦しい空気に包まれている。


 遙か昔。この地を開拓した祖の人々は、永い時を掛けて荒涼とした大地を開拓し、小さな集落を人々が賑わう街にまで発展させた。何世代という時を経て、人々が集まり産業や工業を発展させた。河川に沿うように形成された街並みは、いつしか人々の生活を豊かで高水準なものへと引き上げた。街の最盛期だった。しかし、二年ほど前から街の様子に陰りが見え始めた。


 始まりは雨だった。毎年のように訪れ、人々の生活を潤した雨季の雨が満足に降らなかったのだ。人々はこの頃から異変を感じ始めた。今までは目にしたことのなかった自然の驚異が、人々に牙を剝くようになった。


 夏になると、干ばつや大風に襲われた。被害に遭った建物の修繕におわれる中、天が見放すが如く容赦のない日差しが街を照りつけ、人々の気力を奪っていった。


 秋になると、首をもたげるほどの大きな実を付けるはずの穀物は、収穫期を前にして殆どを虫に食われてしまい、満足な収穫は得られなかった。


 冬は激しい寒波が襲った。その年に多くの人々が食糧を蓄えられず、寒さに凍え、死が間近に迫るのを堪え忍ぶ困窮した生活を強いられることになった。


 異変はそれだけに留まらず、更に深刻さを増していく。


 穏やかで暖かな春が訪れても、豊潤であるはずの土地に植物たちが芽を出すことはなく、繁殖し子を出産するはずの家畜たちは、一匹として新しい命を芽吹かせることはなかった。


 昨年からの雨不足が祟り、十分な干し草を蓄えることができず、家畜たちはやせ細り、夏を待たずに死んでしまった。草木も昨年から続く水不足で次第に枯れていき、遂には街から全ての緑が姿を消した。次の年こそは豊かな地に恵みが多く訪れるであろう、と密かに期待していた人々の願いは、容赦なく打ち砕かれた。再び雨季が訪れても、事態が好転することはなく、雨季が訪れても、人々が待ち焦がれていた雨は降ることはなかった。


 地上の田畑は枯れ果て、街を潤し人々の生活の基盤を作り上げた河川も次第に干上がっていった。河川が枯れた跡の残ったのは、細かい砂利と砂泥。それらが風に吹かれ、街を砂塵で覆い尽くす。そこに河川があったという証しは、地上よりも低い広大な壕が北側に聳える山脈からなだらかな曲線を経て延びていること。そして、堀の脇に沿って幾つも建てられた朽ちかけの桟橋が、無様にしがみ付いているが故だ。


 そんな、荒れ果てた街の通りを一人の男が足早に通り過ぎる。身体に似合わない大きな荷物を背負い、身体の隅々まで覆った厚手の革のコート。頭と顔の殆どを覆ったフードの奥から覘く目が、街から望む地の果てと街並みを交互に見つめている。


「ここもすっかり廃れてる」


 男は悲しげに呟くと、立ち止まって何かを取り出す。手に取ったのは紙切れと筆だった。男は街のいたる場所に目を向けながら、何かを追い求めるかのように記述していく。


 男は旅人だった。行く当てもない流浪の如く各地を転々とし、そこで見聞した様々な事柄を記録している。


 久しく見なかった街への訪問者に、住人たちの好奇な視線が男に注がれる。住人たちの警戒した様子を気に留めることもなく、旅人は街の中心部へ足取りを向ける。


 街の中をある程度散策し、旅人は休息を摂ろうと背負っている荷物から水筒を取り出す。


 水筒を軽く振って水の残量を確認すると、残りを惜しむかのようにちびちびと口にする。


 グレーの短髪に日焼けした顔。青い瞳が周囲を見回し周囲の状況を改めて観察する。長旅をしていて肌の手入れをしていないのか、砂塵がこびり付き、乾燥した顔から覗く青い瞳が辺りを見渡すと目尻の皺が引きつる。齢は三十手前だろうか。顔の皺が、旅人の年齢を少しばかり老けているように見せている。旅人の目は、暫く街並みを追って泳いでいたが、ある一点に焦点を合わせるとぴたりと止まる。


 旅人は少し躊躇した様子で視線の先にいた男に歩み寄る。旅人の接近に気付いた男は、訝しげに旅人を睨み付ける。愛想笑いを浮かべた旅人は、表情を保ったままおもむろに切り出す。


「ここら一帯で何が起きたか知ってたら教えてくれないか」


 旅人が尋ねると、男は不機嫌そうに何かを求める様に手を差し出す。旅人は男の意図を読み取り、財布から銅貨を手にして渡そうとする。すると、男は呆れたように鼻で笑う。


「正気か。こんなところで金をもらったって、何の意味もねぇんだよ。水をよこせってんだ」


 男の言葉に、旅人はなるほど、と頷く。だが、再び何かを躊躇するような様子を見せ、申し訳なさそうに言う。


「分けたい気持ちもあるんだが、俺にも水は必要だし。それに蓄えが少ない」


「そんじゃあ、他を当たるんだな。まあ、結果は同じだと思うが」


 そう言って踵を返して立ち去ろうとする男を旅人が行く手を阻むように、引き止める。男はしつこい旅人を突き放そうと凄む。


「しつけぇな、さっさと失せろ」


「――それじゃあ、今からやることは他言無用で頼む」


 旅人はそう言って、何かを覚悟したように目を閉じると、両掌で何かをこねるような仕草を見せる。すると、柔らかい発光が男の顔を微かに照らす。


 男は何事か、と両目を皿にしてその状況を見守る。


 旅人は両掌で何かを掬うように差し出す。そこには水が張られていた。


「お前……一体何をしたんだ――もしかして」


「ああ、だから言っただろ……くれぐれも頼むぞ」


 旅人の言葉に、男は混乱した表情ではあったが、わかったと言って深く頷く。


 男は喉を鳴らして水を飲み干し一息吐いたあと、街の荒れ果てた理由を語り出した。


 ここ二年ほどで、街は様変わりしたのだという。原因は精霊という存在が関わっているらしい。街は一年も経たずに荒れ果てたのだという。街の統治をしていた領主や上流階級の住人は、一時の間に移住してしまった。中流階級の者たちは、街に残るか捨てるかでその後の生活が激変した。下流階級や金のない者たちは、街に置き去りにされるかたちで留まったのだという。街に残った者たちの殆どは、二度目の冬を越すことができず、多くの餓死者が出たのだという。話をしていた男の表情は、次第に暗くなっていき、話を終える頃には、無気力か絶望や諦めといった表情に変わっていた。


 男の話を聞き終えた旅人は、思い出したかのように再び尋ねる。


「生命の樹っていうのも探してるんだけど。それがどこにあるかわかるかな」


 旅人の言葉に、男は無言で北側に連なる山脈を指さす。旅人は男に感謝を述べ、再び水を恵む。すると、男は嬉しそうに水を飲み干した。


 『生命の樹』とは、精霊が住んでいる老樹のことをいう。生命の樹、という呼び名以外にも、神樹、精霊の樹、精霊の宿り木など、地域や文化の違いから様々な呼ばれ方をする。


 精霊は、世界のあらゆる生命、物質、環境、自然の全てを支配する。生命の樹は、精霊たちが世界各地を渡り歩く際に、立ち寄る樹として信じられ、信仰の対象としている者たちもいる。


 生命の樹の存在は、世界が有り続けるために必要不可欠な存在とされているが、精霊がいなければこの世界は成り立たない。生命の樹も精霊がいなければ、枯れて朽ちるのを待つだけのただの老樹なのだ。


 近年、そんな生命の樹から精霊が姿を消すという不可解な現象が、各地で起きている。原因は未だ解明されていない。はじめは多くの人々が、精霊たちの寿命だと推測していたが、それに反して精霊たちは次々と姿を消しているばかりで、新たな精霊が誕生している兆しは見られなかった。


 旅人は勅命を受け、精霊たちが姿を消している原因を探るべく旅に出た。旅を始めてから、既に一年が経とうとしている。それだというのに、依然として手掛かりは掴めずにいた。


 旅人は重苦しい空気が漂う街をあとにし、北方に高く聳える山脈へ進路を向ける。

北の大地を隔てるように東西へ延びる山脈。北から吹き下ろす寒波で雪化粧を纏い、神秘的で雅な風景を造形するはずの頂は、山肌が惜しげもなく晒されている。まるで、厚化粧を怠った老婆の素顔を晒すように、山肌は黒ずんだ波を成して土塊が脈打っている。




 健二はベッドから起き上がると、窓越しから外の風景を臨む。昨日はこの地へ迷い込んだばかりで、周りのことなど気に留める余裕がなかった。改めてその風景を自分の視界に捉えると、見慣れない西洋風の建造物群など、日本とはまるで違う風土に違和感を覚える。


 早朝の柔らかな空気の中に包まれた街並みは、閑散とした薄暗い闇の中に沈んでいる。


 建物屋根から延びる筒状の煙突からは、細長い白煙が立ち上っている。一見すると穏やかに流れる朝の静けさだが、建物の中では早起きをした人々が、朝食の用意するために忙しく動いているのだろう。そんなことを頭の中で思い描きながら呆然としている間に、薄暗かった街の朝に光明が差し込むみ、靄が掛かった空気に棚引く。


 部屋の外に気配を感じ視線を向けると、ドアが開きスノウが入ってきた。スノウは、健二が寝具から這い出て、窓際に立っているのを認めると、眉を顰める。


「起きていたのか。どうしたんだ、こんな朝早くに起きて」


「別に……なかなか眠れなくてさ」


 スノウの言葉に応えた健二だったが、スノウは気に留める様子もなく、無言のまま支度を始める。スノウの態度が気に食わず、愚痴を垂れたい健二だったが、それを堪える。ここではスノウの機嫌を損なってならない。


「どこかに行くの」


「――ここで長居をするのは危険だ。すぐに街を発つ」


 スノウは手にしたバッグに、装備や道具を無造作に詰め込むと、健二も準備を終えたと見るや、足早に部屋をあとにする。


 宿を出て街の通りを歩いている間、スノウはしきりに辺りを気にした様子で落ち着きがない。


 健二は、昨日からスノウの行動や態度に不信感を抱いていた。祖父の家を抜け出した夜は、気さくで接しやすい雰囲気だったが、昨日から態度が冷たく、行動を共にしている健二のことを、他人を相手にしているかのようだ。


 スノウには不可解な点が多く見られる。突然、祖父の家から健二を連れだし、見知らぬ土地に健二を招いた。不審な行動も多い。昨日に引き続き、今朝もどこかへ出かけている様子だが、健二に行き先を告げることはない。そして、正体不明とも言える変身術。向こうでは犬の姿だったが、ここでは少年の姿をしている。本当の姿はどちらなのか。そして何より、ここへ連れてきた理由やこの土地のことを一切教えてくれない。秘密主義であり、更に自分の意見を何としても押し通そうとする傲慢さが、健二の不信感を更に助長させていた。


「そういえば。昨日は、どこかに行ってたみたいだけど、何してたんだよ」


 健二の問いに、スノウはしばらく沈黙したあとに言う。


「君には関係ないことだ。気にするな」


「あのさ、俺を勝手にここへ連れてきておいて、お前には関係ないってどういうことなんだよ」


 スノウの冷たい態度に苛立ちが募り、怒りにまかせて捲し立てる健二を気にする素振りを見せずに、スノウは歩き続ける。


「俺の話、聞いてるのかよ」


 健二は怒りをぶつけるが、スノウは無反応のままひたひたと歩き続ける。そうしている間に、二人は街を出ていた。


 スノウは沈黙を保ったまま歩き続ける。いつもより歩調が早く、健二はスノウの歩調に合わせながら、脳内で様々な憶測を並べた。昨日からスノウの態度が明らかに変わっている。何がスノウの態度を変えてしまったのか。自分の軽率な行動か。それとも、自分の寝相が悪かったのか。


 導き出せない答えを必死に探して頭を巡らしていると、スノウは唐突に歩みを止める。


 スノウは街道を振り返り、人気が無いことを確かめるように辺りを気にする素振りを見せる。スノウの視線に導かれ振り返ると、視界の遠くに昨日泊まった街が見えた。ここは街より高地に位置しているため、街を見下ろすかたちになる。ここから見る街の姿は、どこにでもありふれた長閑な街の風景だ。


「これから私たちが向かうのは、トルマン村だ」


 スノウは唐突に口を開いたかと思うと、どこかも知らない村の名を告げる。


「村……何でそんなところに行くんだよ……何で今になって」


 なぜこのタイミングで目的地を教えられたのかが知りたくなり、スノウに尋ねる。すると、スノウは肩を竦めて言う。


「街では多くの耳がある。誰が私たちの会話を聞いているかわからない。トルマン村に着けば全てを話そう。君が知りたがっていることの全てだ」


 スノウはそう言うと再び歩き出す。目的地を告げただけで、ここへ来た理由を明かそうとしないスノウに苛立ちを募らせながらも、自分にこの状況を変えられないことを悟り、健二は深々とため息を零す。そのとき、視界の端で何かを捉え、空に目を凝らした。


 空に多数の小さな点が見えた。はじめは鳥の群れが飛んでいるのかと思ったが、すぐにそれではないことに気付く。小さな点の集団は、徐々にこちらに近付いてくる。次第にその物体の正体が見えてきた。


「あれは、グロリアスの飛行船団だな」


 空の物体を認めたスノウが、ぼやくように言う。


 一列に編隊を組んだ四隻の大型飛行船団は、ゆっくりとした速度で街に向かっているようだ。


 徐々に迫り来る飛行船の全容を目にしたとき、船体の巨大さに唖然とした。全長は空港でよく見る旅客機を三機ほど並べたほどの長さ、流線型の丸みを帯びた細長い船体は、艦上戦闘機を有する空飛ぶ空母の如くゆっくりと、しかし、存在感を誇示するように飛行している。


 飛行船団の周りには、周囲を固めるようにしてセスナ機ほどの飛行船が、何機も並走飛行している。


 健二はその光景に、ただ言葉もなく立ち尽くしていたが、街が慌ただしい様相を呈していることに違和感を覚えた。


 街中にサイレンが鳴り響き、街から離れたこの場所からでも街中がざわめいているのがわかる。健二は嫌な予感がして再び飛行船団を凝視する。


 飛行船団が街の上空に接近すると、街からは飛翔体らしきものが飛び立つ。ここからは距離があるため、それが飛行船なのか、それとも別の何かなどの判別できなかった。


 飛翔体は離陸すると上空を飛行する飛行船団に向かって一直線に向かう。


 健二はようやく理解できた。これは、敵対する者たちが、開戦の火ぶたを切ろうとしている瞬間だ。


 遂に、両者が街の遙か上空で激突する。


 飛行船から飛翔体に向けて石弓が掃射される。飛翔体はそれらを躱しながら、高い機動力を生かし飛行船の周囲を飛び回り反撃する。飛翔体からすれば、飛行船は巨大な図体をした鈍足な的でしかない。


 反撃を受けた飛行船は、黒煙を上げながら地上へ墜落していく。


 はじめは優位に立っているように見えた飛翔体だったが、一方的な攻撃は許されず、飛行船の周囲を護衛する小さな飛行船に阻まれる。機動力では優っていても、数で優る敵の猛攻に街を守ろうと奮闘する飛翔体も一体、また一体と墜落していく。


 健二は、その状況を何も言えずにただ見ていることしかできなかった。


 遂に、街を防衛するために飛び立った飛翔体は壊滅した。制空権を制した飛行船団が、悠々と街の上空を飛行しながら無数の何か投下していく。


 幕を張るようにして投下された物体は、地面に落下すると大きな破裂音と共に爆発する。爆風の衝撃によって街の建物は無残に吹き飛ばされていく。飛行船団は、建物を薙ぎ払いながら、街の中心部へと侵攻していく。中心部には、豪華な建物が建ち並んでいる。見るからに上流階級の人々が住んでいそうな区域だ。


 飛行船団は、街の上空で停滞すると、ありったけの爆薬を投下する。だがここで、健二は不思議な光景を目にした。


 飛行船団から投下された爆薬は、建物の少し上空で目に見えない壁に衝突したかのように次々と爆発していく。爆発したあと、爆薬を投下されたはずの街は、何事もなかったかのように佇んだままだ。何が起きたのかわからず困惑していると、スノウが呟くように口を開く。


「結界か。大したものだな」


「一体何が起きてるんだよ」


 健二は目の前に広がる光景が理解できず、不安になる。


「今、この国は戦乱の最中にある。私たちは運が良い。もう少し遅ければ、戦闘に巻き込まれていたかもしれない」


 スノウは気にする素振りを見せず、街に背を向ける。空襲で半壊しかけた街を気にしながらも、健二はスノウのあとを追う。




 まるで足枷をはめているかの如く、重く思うように動かない足を引きずりながら、健二は歩みを続ける。目の前に広がるのは、どこまでも続く白銀の草原だった。

草原を白銀に彩っているのは、今まで見たことのない不思議な植物だった。

一見するとすすきのような外見だが、植物全体が鼠色をしており、花序の部分が微かに白い光を放っている。それらが一面を埋め尽くすことで白銀の絨毯となり、風になびくことで小波のように揺れている。


 快晴な空の柔らかな日差しが、白銀の草原に反射し幻想的な景色を作り出している。空気が綺麗なせいか、遠くの景色が霞むことなく鮮明に見える。


 どこまでも続く草原を見ていると、目的地のトルマン村までの道程が果てしなく遠い場所に感じる。


 街を出てから既に二日が過ぎていた。それだというのに、道程にあったのは、小さな村が幾つかと干上がった広大な田畑。それを過ぎると、一面が白銀の世界。いつしか、健二は時間の感覚を麻痺していた。時間の経過を知るのは、夕日と朝日が自分の頬を照らすときだけ。


 スノウは、相変わらず口数が少ないままだ。健二に指示を出すとき以外は、健二が話し掛けても応えることは殆どない。休息を殆ど取らずに歩き続けいていることで、足は既に限界を越えていた。足を一歩踏み出す度に、足の感覚が麻痺していくのがわかる。


「スノウ、少し休憩しようよ。疲れてもう歩けないよ」


 健二は苦し紛れに訴えるが、スノウは無言のまま歩き続ける。


「なあ、聞いてるのかよ」


 スノウの態度に苛立ちを抑えきれなくなり、健二は思わず怒鳴る。すると、スノウは険しい表情で健二を見据えて立ち止まる。


「少し前に休んだはずだろう。何度も立ち止まっていては、目的地に着くのが遅れてしまう」


 スノウの口調からも苛立ちを感じる。なぜかは知らないが、街にいたときからスノウの様子がおかしい。街を出てからも、不機嫌そうに辺りを気にし続けている。


「何でそんなに怒ってるんだよ」


「君があまりにも意気地無しだからだ。私自身、この選択が正しかったのか、と疑い始めている」


「何だよそれ」


 声を荒げるスノウの言葉に、健二も我慢の限界を超え、吐き捨てるように言う。


「勝手に俺をここに連れてきておいて勝手な事言うなよ。機嫌悪いし、何も教えてくれないし。そんなんだったら、俺を連れ回すなよ。それより、俺は家に帰りたいんだよ。もういい加減うちに帰してくれよ」


「それは駄目だ」


「何でだよ」


「目的地に着いてから話す」


 健二の訴えを一蹴して歩みを続けようとしたスノウだったが、何かを感じ取ったのか咄嗟に身構えると、視界に入る全てを探るかのように辺りを見渡す。そして、ある場所で視線を止めると、食い入るように凝視する。


 ここまで殆ど歩みを止めることのなかっただけに、健二にとっては好都合だった。やっとのことで身体を休めることができる。疲れを癒やそうとその場に座ってくつろごうとし健二だったが、スノウの警戒した様子に張り詰めた空気を感じ取り、不安が募る。


 少しでも安全な場所へ避難しようと、スノウの背後に隠れるようにして小さくなる。


「ねえ、どうしたの。何が……」


「――来る」


 スノウはそう呟くと、背後に隠れていた健二の肩を捕まえると、真剣な眼差しで健二を見据える。その視線に耐えきれず、健二は思わず視線を逸らす。


「それで、何が来るんだよ」


 内心で怯えながらも、健二は強がって見せるが、声が震えてしまった。


「敵だ」


 スノウは短く言うと、再び先程と同じ場所を凝視する。そこに何かがあることは、健二にもわかった。スノウは、そこにある気配と健二を隔てるようにして立つ。


「私が逃げろと言ったら、私にかまわず走るんだ。決して振り向くな」


 スノウは一点を凝視したまま健二に言う。その口調は威圧的であったが、今まではなかった焦りを感じた。


「わかったよ。どこに逃げれば良いんだよ」


「今向かっている方向へ走るだけで良い。トルマン村で落ち合おう。そこに私の仲間もいる。オーザンという男だ。その者が良いように計らってくれる」


 状況が理解できておらず、混乱している健二の顔を見据えるスノウの落ち着きのない焦った表情が、状況の深刻さを物語っている。


「私が言ったことは理解できたか」


 念を押すスノウの言葉に、健二は力なく頷く。


「――トルマン村に行って、オーザンっていう人に会えば良いんだろ」


「そうだ。わかっているじゃないか」


 スノウはそう言ってぶっきらぼうに微笑んで見せる。いつの間にか、右手に剣が握られている。それを見て、健二の脳裏にあのときの光景が蘇る。そこでようやく理解した。トッドとドリスと死闘を繰り広げていたあの男が、再び現れるということなのか。それを理解して健二は、身震いする。足が笑っているかの如く、震えが止まらない。


 ふうっ、深く息を吸ったスノウの、走れ、という鼓膜が張り裂けんばかりの怒号で健二は飛び上がりながら村に向けて駆け出す。


 走り出した直後に、背後で何かが弾けた甲高い音が響く。まるで、車同士が正面衝突したかのような衝撃が、絶えず響いている。気になり振り返ろうとしたが、スノウに振り向くな、と言われたことを思い出し、緩み掛けた駆け足に鞭を打って全力で走る。




 気が遠くなるほど走り続け、いつの間にか白銀の草原を抜けていた。


 何度も転んでは起き上がり、無我夢中で走り続け、胸が苦しくなり意識が飛びそうになりながらも、足を前に出し続ける。不思議と意識が途切れることはなく、走りたい。そう思えば、自然と足が前へ出る。自分がこれほど持久力に恵まれていたことを自覚していなかっただけに、驚きと場違いな爽快感があった。


 どれだけ走ったのかはわからなかった。一時間ほど走っただろうか。ここまで走れば、追っ手を振り切れたはずだ。そう思い、健二はようやく足を止める。


 肩で必死に呼吸を繰り返すが、肺の中にどれだけ空気を取り入れても、息苦しさは少しも良くならない。


 暫くの間、息を切らしていたが、徐々に苦しさも和らぎ、落ち着きを取り戻す。


 健二はその場に崩れ落ちふと空を仰ぐ。先程まで快晴だった雲行きが、いつの間にか怪しくなり、鉛色の曇天に変わっていく。


 視界の端に意識を向けると、空の片隅に分厚い薄黒い雲が、うっすらと立ち込んでいるのがわかった。一時の休息のあと、再び目的地に向かおう。そう思って健二は暫くの間目を閉じる。


 どのくらい時間、目を瞑っていただろうか。健二は、ふと何かの気配を察して目を開く。


 目を開けた瞬間、自分の顔と寸分もしない距離に、人の顔があった。驚きで飛び上がった拍子に、その顔に額を容赦なくぶつけてしまい激痛に悶える。


「起きるときは、もう少し静かに起きられませんかね」


 男は歌うような調子で呑気に言うと、健二に強打された鼻先を擦る。鼻からは血が滴り落ち、清潔に保たれている燕尾服の一部を鮮血で染める。


「お前はあのときの」


 男の姿を認め、恐怖で硬直している健二を前に、男は捲し立てるように話し始める。


「はいはい、そうです。あのときの私です。ご無沙汰と言うんですかね。まあ、私としては、あなたが元気で何よりです。それで、なぜこのようなところで寝ていたんですか。私であれば、このような汚らしい場所で横になるなどあり得ないのですが。まあ、価値観はそれぞれですよね。故に、私はあなたを責めたりなどしませんよ」


 言い終えて、男は満足したように何度も頷く。


「何でここが――」


 ここまで全力で走ってきたはずなのに、男は息を乱すことはおろか、涼しげににこやかな表情を浮かべている。それよりも、自分の逃げる時間を稼いでいたはずのスノウはどうなったのか。そのことが脳裏を過ぎり、不安に駆られる。そして、自分の目の前に立つ男は一体何者なのか。


「いやいや。ただの勘ですよ、勘。ですが、勘というのはただの数打ちゃ当たる、的な愚行などではなく、れっきとした経験と根拠による純粋な方程式から導き出された答えなのですよ」


 男は健二の警戒心などお構いなしに、得意げに声を張り上げて言うと、満足げな笑みを浮かべる。


 健二は男の揚々とした様子に不快感を覚えながらも、警戒心を解かずに身構える。


「ああ、そんなに警戒しないでください。私の名は、シューベンタルト・リンデル・グラハム・ジルベットと申します。シューベンタルトかシューベンと呼んでいただけると幸いです。それで、あなたの名は何というんですか」


 シューベンタルトは、得意げな表情で自分の名を口にする。厚かましくぶしつけな男の態度を前に、健二は威圧感を覚え狼狽える。


「お前に教える名前なんかない」


 内心を見透かされないように強気な態度で凄む健二の言葉に、シューベンタルトは微笑む。


「そうですか。残念です。私はあなたのことを知りたいというのに――それで、あなたは本当に例の存在なのですか」


 シューベンタルトの唐突な質問に、健二は戸惑いを隠せなかった。この男の目的は何なのか。そして、自分に対して何かを期待していることは明らかだが、それが何を意味しているのか。


「――何の話をしてるのかわからないんだけど」


 健二は何かしらの会話を続け、この場の乗り切ろうと考えた。時間を稼ぐことができれば、自分に追いついたスノウがどこからともなく現れ、この状況を打破してくれるのではないか、という根拠のない期待を抱いていた。


「あはっ、雨が降ってきましたね。早く片付けて帰りましょうか」


 鉛色だった曇天から遂に小雨が降り出し、雨は徐々に激しさを増して地面を濡らす。健二とシューベンタルトも降り掛かる雨に打たれ、全身がずぶ濡れになる。額からつたう水滴が、雨なのか汗なのかわからない。


「何の目的があって俺を付け回すんだよ」


 震える声で凄む健二の言葉に、シューベンタルトは驚いた表情をする。


「あなた……もしや、自分が何者なのか知らないのですか」


「俺が……俺はただ、お前に命を狙われてここまで逃げてきただけ……」


「はあ、あなたは……あなたは自分が、どれだけこの世界において重要な存在かを自覚していないのですね。これは驚きました。自分が何者かを知らずにこの世界で逃げ回っているとは。呆れてしまいます……なんとも悲しい」


 呆れた様子でため息交じりに頭を振るシューベンタルトの意味深さに、自分の存在がこの状況に、何かしらの関わりを持っていることを健二は理解した。


「俺は、何なんだよ」


「良いですか。あなたは次代の『精霊王』として生を受けた身なのですよ」


 シューベンタルトが口にした言葉が理解できず、健二は混乱する。


 健二の反応を見たシューベンタルトは、確信したように頷く。


「これはややこしい事態になりましたね。さて、どうしたものか。これでは、陛下への説明の仕方を試されることになりかねませんね……少年、私から提案があるのですが」


 シューベンタルトは微笑んで健二に言う。


「何だよその顔。めちゃくちゃ怖いんだけど」


「ああ、失礼……提案があるのです」


 今までは、陽気な調子で話していたシューベンタルトの口調が、淡々と、そして真剣な面持ちに変わった。


「提案……何それ」


 今まで微笑んでいたシューベンタルトの顔は、既に笑ってはいなかった。今までの陽気な印象は一瞬にして消え去り、恭しい空気を纏っている。膝を突き、頭を垂れると言葉を継ぐ。


「一度、カトラリア王国へおいでください」


「何で俺が。意味わかんない」


「様々な疑問はおありでしょう。詳しい事情を説明させていただきます。どうか私と共に」


 そう言ってシューベンタルトは手を差し伸べる。


 健二は自分の置かれている状況を理解できず、頭が真っ白になる。


 精霊王とは一体何なのか。しかも、自分はこの世界と関わりがあるということなのか。もし、それが本当なら、自分は一体何者なのか。そして、自分はこの世界の人々とどんな関わりがあるのか。そんな事が頭の中を目まぐるしく駆け巡る。


 混乱した健二には、慇懃な口調で話しているシューベンタルトの言葉は、耳には届いていなかった。


 目の前に差し伸べられたシューベンタルトの手を見た健二は、驚いてしまい反射的にその手を振り払った。すると、思いがけないことが起きた。


 シューベンタルトの手に触れた瞬間、火花が散ったように閃光が走ると、周りの空気が弾けるような強烈な圧力によって吹き飛ばされる。


 地面に背中を強打し、息苦しさで意識が薄れそうになるのに耐えながら、健二は何とか起き上がる。何が起きたのかを理解するまでに少しばかり時間が掛かった。シューベンタルトの姿を探すと、健二と同様に目に見えない圧力によって吹き飛ばされたようだ。


 シューベンタルトは、苦しそうに地面に這いつくばっている。


「今までは半信半疑でしたが、これを見てしまっては、信じざるを得ないですね。いや、誠に素晴らしいです、感激です。これがあなたの力です。私に対して無意識に防衛の魔法が発動したのです」


 シューベンタルトは、苦し紛れに感嘆の声を上げて健二を見据える。


 健二は目の前で起こった現実を受け入れられず、恐怖で身体が凍り付く。両掌を凝視し、自分の身体に何が起きているのかをくまなく確認する。だが、この行為が無駄だということは直ぐに思い知らされた。


「何で俺なんだよ。何で俺にこんなことが――」


 健二は今まで募らせていた苛立ちを怒りにまかせ、全身に乗せて吐き出す。なぜ自分がこの世界で、命を狙われなければならないのか。そもそも、自分という存在は何なのか。不安、恐怖、怒り。それらが自分の中で爆発し、気が狂いそうになる。


 健二は怒りにまかせ走り出す。目的地など、もうどうでも良かった。何も考えず、ただひたすら走り続ける。




「無念ですね。私はいつも言葉足らずです。もう少し、説得力のある言葉を掛けてあげられていれば……悔やまれますね」


 一人取り残されたシューベンタルトは、未だ痺れて動かない身体の不自由さを呪うかのように、いつしか土砂降りとなった黒ずんだ空を仰ぐと、ため息交じりに言う。その表情は、悔しさと自己嫌悪で歪んでいた。




 健二はどこへ向かっているかなど気にせず、ただ無我夢中で走り続ける。現実から逃げ出したいというより、全ての感覚から逃げ出したかった。視界、触覚、嗅覚、聴覚の全てを遮断し、この世界から自分自身を断絶したかった。だが、いくらそれを願っても、無情な現実がただ淡々と広がり過ぎていくだけだった。


 どのくらい走り続けたのかもわからなくなったとき、地面の何かに躓く。


 勢いが余ったまま、大きくバランスを崩すと、続けざまにぬかるんだ地面に足を取られ、顔から倒れ込む。


「――何で俺が」


 健二は脱力すると空を仰ぐ。運動は得意ではなかったはずだというのに、ずっと走り続けている。学校では部活に入ることなく、帰宅すると自室に籠もってゲームに勤しむだけ。外で遊ぶことはなく、走ることは殆ど無かった。だが、なぜかスノウに促され、走り続けて遠く離れてここまで来ている。なぜ、こんなことになったのか。その理由を探ろうとするが、徐々に意識が薄れていくのを感じた。全身のジリジリと麻痺した感覚で、もはや指の一本も動かすことがままならない。やがて視界がぼやけ、吸い込まれるように闇の底へ落ちていった。

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